■ 5-48 ■




 その後は嵐のようだった。
 有伶の指示でルキもそして亮も温室から運び出され、二人同時に処置室へ収容される。
 各々容態が良くないことから別々の処置室へ運ばれようとしたのだが、傍らで震える亮がどうしてもルキから離れようとしなかったのだ。
 一緒にいられるからと有伶が言い含め、どうにか亮をルキから引きはがすと、それぞれをストレッチャーに乗せて中央処置室へ運び入れた。
「だい、じょぶ、だから、そんな、泣かないで……?」
 この施設で最も環境の整った処置室のベッドへ移されてからも、亮はルキの身体に縋り付いて泣き続ける。
 しゃくりあげてまともに話せない少年の言葉は、ところどころ「め」と「さい」が繰り返されていて、どうやら謝り続けているらしいということだけがわかる。
 そんな亮の頭を撫で、口元を酸素マスクに覆われながらもルキは声を掛けていた。
 しかし普段なら一般成人男性にしては可愛らしい部類の声に分類されるルキのそれは、しゃがれ、かすれてまるで別人のように変質している。
「ルキくん、喋っちゃダメだ。声帯が大きく損傷を受けてる。血中の亜酸素濃度も低下してるし、とにかく今は安静に」
 声を掛けるレオンは血に染まるルキの喉元を消毒、縫合しながらも己のベルカーノを針に乗せ、縫い取る側から治癒させていく。
「亮くんは、こっちに来て? 診察させてくれないかな」
 有伶が亮を抱き上げようとするが、いやいやと首を振り、半狂乱になり亮は泣き続ける。
 そんな亮を強引に隣のベッドへ乗せ、眼鏡の上から更にサングラスにも似た漆黒のレンズを右目にだけ装着した有伶は、泣きじゃくる亮の顔を注意深く眺めた後、一瞬息を詰め、すぐさま取り出した携帯電話で何者かへコールを掛け始めた。
 しかし相手は出る気配を見せない。
「わかってはいたが……、頼む……」
 独りごちる有伶は何度かコールを掛けてみた後、唇を噛み締め、携帯を白衣のポケットへ滑り込ませた。
「もうこれじゃ持ちこたえられないぞ……」
 声にならない声で呟いた有伶がベッドの上に置かれたドクターズバッグから取り出したのは金色をした金属製のリング──。亮が焼除治療を行う際に必ず額へ装着させていたクラウドリングである。
 焼除治療の痛みを麻痺させるため──という名目で治療の度に身につけさせていたそれを、有伶は再び亮の額へはめ込む。
 確かに表向き、このリングは痛みや苦痛を麻痺させることが可能ではある。だが、それは「麻痺させる」というよりも「痛みや苦痛を感じた事実を忘れさせる」という効果があるといった方が正しい。肉体とアルマのどちらにも潜り込むこの特殊なリングは嵌められた者の記憶を分断し、別の記録装置へ転送させる。転送された記憶の内必要なもののみ本体と同期させるのである。
 それ故「痛み、苦しみ」といった不要な情報は本体には残されず、結果それらはなかったことにされるという構造だ。
 実質記憶の操作に利用されるこのリングはしかし、亮専用に造られたものに関しては、もう一つ大きな役割を担っていた。
 それは──
「コーティング処置が少しでも効けばいいが」
 リングを装着された亮はそれでもしばらくルキの元へ行こうと暴れていたが、次第にその動きを緩慢にするとぱたりと動きを止める。
 クラウドリングが起動し、効力を発揮させ始めたせいだ。
 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、少年はぼんやりと有伶を見上げていた。
 有伶の目に映るのは、ひび割れ、崩れかけた亮のアルマだ。肉眼で見える亮の姿に投射されるように見えるのは、純白の光を放つ亀裂。細かく細かく紗でも掛かったかのように亮を白く煙らせていた糸のような無数の亀裂が、今や大きく纏まり深いクレバスとなって歪に亮を取り囲んでいる。
 ブロック状にずれ込んで見えるそれは美しい砂糖菓子が亮を飾り付けているようでもあり、知らぬ者が見ても深刻な状況を現しているとは思えないに違いない。だが、亮が入院してからこの方彼のアルマを見続けてきた有伶には、言葉を失わせるだけの切迫を感じさせた。
 これだけの亀裂とずれの浸蝕では、亮が亮としてこの場にあるのが奇跡としか言えなかった。
「……ここまで、とは」
『今すぐオルタナへぶち込んで凍結させ進行を止めるか──、いや、すでにそれすら耐えられんかもしれん。内部のミトラのみ分離凍結させ利用しつつ、ルキ・テ・ギアを代替エンスフェランとして調整し直す方が現実的だ』
 その声は有伶の脳内で強く鳴り響く。
 有伶と全く同じ声であるその持ち主は、彼の宿主であるスルトのものだ。
「そうは言ってもね……」
『らしくないな、有伶。似たような立場だからと同情でも寄せているのか』
「それは違う。別個体の共生関係にある僕らと、同一個体の共有関係にある彼らは全くタイプが違うよ。共感はできないし、それに僕にもともとそういう感情がないことはキミも知っているだろう」
『ならば手をこまねく原因は何だ。もう時間はない。ミトラが解き放たれてからでは襲いんだ。おまえが動かんというなら、私が代わる』
「待って待って、それには相応の準備がいる。この場ですぐは無理でしょ。場所を移そう」
 間にはさまるスルトの声が周りに聞こえることはなく、有伶の言葉だけ拾ったとしてもまったく意味の通じない呟きにしか聞こえない。
 しかも正常とは言えない亮とルキ、ルキの治療にかかりっきりのレオンしかいないこの部屋で、彼らの不穏な会話に耳を傾ける者は居ない。
「ごめんね、亮くん。お兄さんを呼び寄せて、もう少し条件が整ったらって考えてた僕が甘かったんだ。相手はウィルドでこの樹根核ですら完璧な防御はできなかった……」
 亮の頬を撫で見下ろした有伶が絞り出すような声音でそう言う。
 だが苦悶に歪むその表情とは乖離した言葉が、ほとんど誰にも聞き取れないほどの囁きで彼の薄い唇から吐き出された。
「キミがルキくんを守ってくれて良かったよ。二人とも失っていたらと思うとぞっとする。おかげで僕らが取り組んできた研究も実を結ぶことができそうだ。クラウドリングの効果が続いているうちに、処置してしまおうね」
 ぼんやりと有伶を見上げる亮はその言葉をどう受け取ったのか、小さくうなずくと
「治療、の、時間、だね」
 と言って微笑んだ。
「……うん。そうだよ。今日もがんばろうか」
 それを受けた有伶はいつものように言葉を返し、同様に笑顔を向ける。
 崩れかけたアルマをどうにかリングの効力でつなぎ止められている亮には、最早己の状況を判断する能力など失われていて、有伶はその様子を淡々と見つめた。
「ドクター。亮くんの治療に必要な機器がここにはない。奥の研究エリアへ私が彼を連れて行くから、ルキ君のことは頼んだよ」
 声を掛けられたレオンは驚いたように顔を上げ、疑問を口にする。
「え、いや治療に必要って……、どういう……」
 有伶が亮に対して行っている治療は焼除治療のみであり、現在のこの急切な状況下でそんな実験的としか言いようのない治療など行うはずもない。第一、亮が今回の事件で何らかの怪我を負っていた場合、治療するのは当然主治医であるレオンの担当である。
 彼の言う治療の意味を計りかね、レオンは困惑したように眉を寄せた。
「亮くんにもどこか怪我があったのか? それならすぐに私が」
 ルキの喉の縫合をあらかた終えたレオンが立ち上がりかけると、有伶は手を挙げてそれを差し止めた。
「いや、ベルカーノで治まる怪我ではないんだ。亮くんのアルマ暴走を抑え込む為の措置だと考えてくれ」
 そこでレオンの瞳が眇められ、普段とは違う緊迫した声音が飛び出していた。

「……それは君たち研究員の言う『ミトラ』という単語と関係しているのかい?」

 ウィルドの急襲に浮き足立った彼らが現場で発していた耳慣れない言葉──。それをレオンは聞き逃してはいなかった。
 彼ら研究局の人間は、何か重要な事実を隠している。今回の件でレオンはそう察しているようだった。
「……ああ。その通りだ」
 寸時の沈黙の後うなずいた有伶の表情は、どうやら覚悟を決めたもののようだった。
 その証拠に、滑らかに、そして簡潔に語り出す。今まで羽根の原因は「不明」であると言い続けていた研究局の言葉が紛れもない詭弁だったということを、彼ははっきりと認めたことになる。
「羽根の持ち主とでも言おうか……。亮くんの中には我々が「ミトラ」と呼ぶ存在が成長している。否、むしろミトラこそ本体であり、亮くんはその成長を育むためだけに存在した卵の殻のようなものだ」
「──っ、何を、……そんな荒唐無稽な話」
「ミトラが完全に生まれ出でてしまえば、亮くんのアルマは役目を終えた殻の如く割れ、壊れてしまうだろう」
 レオンは絶句し、ベッドの上に座り込んだままの亮を見やる。
 クラウドリングを装着した少年は従順な犬のように有伶を見上げ、彼にとって唯一の希望である「焼除治療」を待ちわびているようだった。
「それを防ぐにはベルカーノの能力では事足りないんだよ。医学的な問題ではない。これは工学的な分野と言った方が良い。もっと大がかりな装置で中のミトラを抑え込む必要がある」
 レオンは有伶の言葉に、亮の現在置かれている状況と、彼ら研究局が行ってきた措置というものが嘘の塊であったということを悟る。
 何のために彼らはその事実を秘していたのか──。
 それは偏に「ミトラ」とやらを研究局が欲していたからに違いないと、ベルカーノ種の幹部候補生は理解した。
 となれば亮に施していた「焼除治療」なるものも、本当に行われていたのか疑問しか残らない。
 亮の状態における最も重要なファクターを隠していた研究局は、亮のアルマを治癒するために赴いた医療局の人間とは完全に敵対関係にあるものだと認識する。
「ダメだ。私が許可しない。亮くんをあなたに預けるわけにはいかない。私は主治医の権限で、この子をセブンスへ差し戻す要請をする」
「戻してどうするんです? 亮くんが壊れていくのを見守り、彼が消えた後はミトラによってセブンスが崩壊する様でも観戦すると?」
「それを、私が鵜呑みにするとでも思うのか。研究局の不実な動きはあなたの信頼性を完全に失わせている。亮くんの治療は今後医療局が全て担うとヴァーテクスへ申請を出す」
「ヴァーテクスは全て知っていることだ。そんな議論で遊んでいるヒマはないんだよ、ドクター。時は一刻を争う。亮くんのアルマを救いたいなら、僕の行く手を遮ることなく、ここで医療行為のみ続けていてくれ」
 有伶は亮の身体を両手で抱え上げると、扉へ向けて歩き出す。
「行かせないと言っているっ」
 それを阻止するようにレオンは身体ごと飛びだしていた。
 有伶の眼光がまるで別人の如く切っ先を増し、振るった右手から伸び出た野太い蔓が音速の衝撃を伴ってレオンへと襲いかかる。
 医師として──治療スタッフとして長年勤め上げているレオンが、曲がりなりにもカラークラウンである有伶に敵うはずもない。
 数週間前、数名の男を瞬時に殺傷した彼のエイヴァーツが、今度は白衣を血に染める為、唸りを上げた。