■ 5-49 ■



 目を開けると白い天井が見えた。
 腕に違和感を覚え、僕はそっと左手を動かしてみる。
 その動きに合わせて掛けられていた毛布がずれ、固定され点滴につながれた僕の腕が現れる。
 ぼんやりとした頭のまま左の方向へ首を倒すと枕元にスタンドがあり、透明な液体が詰まった袋が掛けられていて、そのまま僕の身体へと輸液を行っているようだった。
「気がつかれました? ご気分はいかがです?」
 聞き慣れないが知った声が聞こえ、僕はその主を目だけで捜した。
 そんな僕の動きを察して、彼は僕の顔を覗き込むように、ベッドの脇へやってくる。
「水分とミネラル補給の為の点滴です。ここは肉体も共に上がっている場所なので、緊急時にはこういったケアが出来るようになってるんですよ」
 そう説明してくれた彼は覗き込んでいるため顔に掛かってくる黒い前髪を鬱陶しそうに掻き上げると、小さく口角を引き上げた。
 塗りつぶされたみたいな瞳の奥はあくまで平坦にしか見えないが、おそらく彼なりに微笑んで見せたのだろうと僕は見当を付けた。
 彼は同じラグーツのファミリーで僕の一期後輩に当たる男だ。名前は確か、ウィル・テイラー。ラグーツファミリーの最年少で、転生二期目のはずだ。ウィリアムなのかウィルソンなのかファーストネームの正式なところは知らない。
 ラグーツ能力の持ち主は戦闘タイプと治癒タイプに別れがちなんだけど、戦闘タイプの僕とは違い、彼は圧倒的に治癒に特化したタイプで、医師免許も持っていると聞いている。入構当初は有望な若手が入ってきたとラグーツ全体がざわめいた……ということなんだけど、その時僕は死んでいたから全部人から聞いた話になる。──で、僕の知っている情報はこれだけだ。同じラグーツファミリーだが、彼はIICRに入ってすぐから研究局の樹根核勤務を言い渡され、ラグーツのファミリーエリアにすらほぼ顔を見せることはないため、僕はこのラグーツ唯一の後輩のことを全くと言っていいほど知らなかった。
「同じラグーツ種の後輩でウィリアム・テイラーといいます。この観測所で使いっ走りしてます。俺も一応医師資格を持っているので、今後のルキさんのケアは俺が担当します」
 テイラー君も僕が彼をあまり知らないと思ってか、あらためて自己紹介をしてくれた。彼のファーストネームはウィリアムが正解だったみたい。
 ひょろりと高い身長を白衣に包み、特徴的な長い手足をしていた。全体的に薄い感じの顔立ちは、東洋系のビジュアルを色濃く受け継いでいるようだ。
 そのせいか今も綺麗な日本語で彼は僕に話しかけている。彼がどの国の文化を基準に生きているのかも、僕は知らなかった。
 丁寧な挨拶に「僕もキミのことは知っているよ」と声を掛けてあげるべきだと思うけど、今、僕の頭はそれどころではなくて、性急に聞きたい質問を口に出す。

「……っ、とぉるくんは?」

 僕が一番気に掛かっていたことだ。
 口にしてみたが、思うように声が出ない。
 掠れ、しゃがれた声は聞くに堪えないもので、音が鳴るだけましとしか言えないようなものだった。
 それでもテイラー君は僕の意図を汲んでくれたようで、僕の知りたい情報を与えてくれる。
「亮さんは別室で特別な処置を受けてます。大丈夫、意識はありますし、そのうちルキさんもお会いできると思いますよ」
 特別な処置──というワードに不安を感じ、僕は身体を起こした。
 少しふらつく感じがし、首や背中に鈍い痛みを感じたが、戦闘職である僕にとって馴染みのある感覚であるし、問題ない程度だと判断できる。
 それでもテイラー君は慌てたように手を貸し、僕の身体を支えてくれた。
「まだ起き上がらない方がいいです。血圧も下がってますし、何より負傷してから二時間ほどしか経っていない。ドクターレオンの処置が素晴らしいとはいえ、体力の回復には時間が掛かります」
 二時間──。
 あれから二時間経っているという情報を得て、僕は意識を失う前の状況を思い出そうと目を伏せる。
 こことは違う処置室に亮くんと共に運び込まれ、レオン先生の治療を受けたことはおぼろげながら覚えている。亮くんがずっと僕にしがみついて泣いていたことも。
 だけど僕の記憶はその辺りでぷっつりと途切れていた。
「リアルとの通話回線、使わせて、欲しい。緊急、なんだ。今日、が、ダメなら、明日一番で予約を……」
 記憶を辿っていた僕は、ある一つの重要な事柄を思い出した。
 事件に至る前。フレズくんとの通信で得た情報に、僕は一つの使命感みたいなものを感じていた。
 修司さんがテロにより死亡したというヴァーテクス発表はあまりにショッキングで、それが事実ではないというフレズ君の言葉に縋り付く思いの僕は、この言葉を事実にするべくリアルに戻り修司さんの消息を追おうと考えていた。
 以前からウィスタリアに一度リアルへ戻って休養した方がいいと勧められていた僕には、リアルへ戻れば数日の猶予がある。
 だからすぐにでもアクシス使用の申請を出し、なるべく早い便で戻ろうと思っていたのだ。
 だが、現状──僕のその計画は見直さざるを得ないだろう。
 亮くんのあの精神状態では、今ここを離れることはできない。
 あんなに混乱し情緒不安定になった亮くんを置いていくことなど、僕にはできそうもなかった。
 だから再びフレズ君との通信を申請して、彼に修司さんのことを託そうと考えたのだ。
 彼が忙しいのはわかりすぎるほどわかっているが、いてもたってもいられない気持ちが僕を突き動かしていた。
 だが、テイラー君は厳しい表情のまま首を横に振る。
「申し訳ありませんが、現在非常事態宣言発動中につき、回線の私用接続は許可されません」
「十分。いや、五分、で、いいんだ。……テイラー君に、迷惑、はかけない。僕が直接、ウィスタリア、に話を通すから……」
「時間は関係ないんです。それに、ウィスタリアは亮さんの処置から手が放せません。しばらく会えないはずです」
「亮くんの状態、そんなに悪いの? さっき意識はあるって……。せめてレオン先生とお話できないかな。」
「ドクターレオンも亮さんの治療のため同じく処置室に詰めてます。ルキさんはご自分の身体だけを考えて、しばらく休養していてください」
「だけどっ」
「とにかく、非常事態宣言発動中は、この観測所所属の者以外、許可なく居室外を出歩くことも禁じられます」
「それ、はいつまで?」
「…………、すぐ、ですよ。そう時間は掛からない」
 ぞくりと僕は恐怖が背筋を這い上がったのを感じた。
 数時間前出会った、謎の黒衣の男の言葉を思い出す。

『今すぐにここを去るべきだ。お前自身ビリンバウに捕らわれる前に──』

 何かとても良くないことが起こり始めている。
 テイラー君の答えにあった奇妙な間に、僕は得体の知れない切迫感を感じていた。
「…………体調不良による緊急のアクシス使用許可なら、最優先で通るはずだよね。それを申請したいんだけど」
 もちろん帰るつもりはなかった。だけど、僕は敢えてこの希望をぶつけてみる。
 するとやはりテイラー君は静かに首を振り「すみません」と謝った。
「必要なものは俺が全部用意しますんで、遠慮なく言ってください。もう一眠りしていてください。二時間後、食事持ってきますんで」
 僕は何も言えず、ただ黙って彼の顔を見る。
 ここで暴れて外に出ることも一瞬頭を掠めたが、たとえこの部屋を出られたとしても、その先は絶望的といえる。
 アクシスの使用が認められない限り、誰もこの樹根核から出ることができないからだ。
 これが本当に緊急事態を受けてのものなのか、それとも最初から織り込み済みでこの期に決行されたものなのか、今の僕にはわからない。
 だが、一礼してテイラー君が部屋を出て行った瞬間、カチリと硬質な音がしたのを僕は聞き逃さなかった。
 これは事実上の監禁だった。







 頭上に掲げられた大型モニターいっぱいに映し出された光景は、彼を絶句させた。
 黄金の輝きを放つ蝶の目にも似たレンズ──それらが無数に埋め込まれた壁に、少年はぐるりと取り囲まれていた。
 細い両腕も燃えるような翼も大きく広げ、幾千幾万の立ちのぼるあぶくに髪を遊ばせ、まるで夕焼けに染まる空を飛翔しているかにも見える。
 が──そんな少年の手足は壁面より伸びた端子により絡め取られ、彼が自由な飛翔とは真逆の位置にあることを物語っていた。
「どういう、こと、だ、……これは」
 確か亮は羽根を切除する治療のため、この樹根核での生活を受け入れたはずだ。
 亮が兄と別れて苦渋の決断をしたのは、もうかれこれ三月も前のことになる。
 だが眼前の得体の知れない泉に沈められた彼の身体からは、六組計十二枚の翼状器官が今も燦然と輝いていた。背に息づく見事な四対の巨翼の先端、羽根先の一つ一つには無数の繊維が接続していて、まるで金に輝くヴェールがたなびいているようだ。
「……っ、治療は全くうまくいっていなかった、というのか」
 アクシス酔いのため、再び嘔吐きそうになりながらも彼は目の前の映像から意識を離すことが出来ない。
 約三十分前にこの樹根核へ到着したばかりの彼はその能力値の高さから、本来なら動くことも、話すことさえ困難だったはずだった。それがこうして無理なく動けているのは、つい先日処方されることとなった伝説級の妙薬──エリクシエルの効力によるものだ。
 隣に立つ白い長衣の偉丈夫が静かに首を横に振り、彼の質問に答える。
「そうではない、ジオット」
 観測所研究エリア中心部──黄金色の水槽を眺め降ろす制御室は張り詰めたような緊張感で充たされていた。
 総勢28名に及ぶ研究員はみなモニターと己の持ち場である制御パネルへ神経を集中しており、メインモニターの前に立つ研究局局長エイヴァーツ・ウィスタリアは一人、彼らに向け指示を飛ばしているようだった。
「治療がうまくいく、うまくいかないという問題ではない。有り体に言えば──亮のこの症状は病などではない、のだ。亮が亮である必然とも言うべき現象であり、その原因も、この先亮がどのような状態へ進んでいくのかも──初めから全て我々は承知していた」
 IICRの創設者であり現機構の長、オートゥハラ・ビアンコは落ち着いた低音でそう言った。
 絶対的信頼を寄せる彼の言葉に、シュラは眉を寄せ厳しい表情で振り返る。
 長は何を言い出したのか。初めから知っていたというなら、なぜこのまま亮は放置されているのか。病でないにも関わらず、ヒトにあるまじき器官が亮のアルマに精製されてしまうのはどういうことなのか。
 一度にいくつもの疑問が湧き起こり渦巻いて、考えが纏まらない。
 そんなシュラの考えを読むように、ビアンコは引き続きモニターを見つめたまま言葉を続けた。
「成坂亮はヒトではない。その本質は『ミトラ』なのだ」
 聞き慣れない名称に黙したまま何も語ることができない。
 歴史・宗教に明るい人間ならばこの名称が何処かの神話に登場する神の名の一つであるということに気がついただろうが、戦闘畑一筋のシュラにはそういった文官よりの知識は皆無だ。
「ミトラとは転生を司る生樹の種ともいうべき存在であり、ヒトが呼ぶいわゆる『神』という概念に近い。ミトラの起こす爆発──アインソフオウルにより、何億年と続いてきた“遺伝情報を受け継ぐだけの肉体的生命世界”は終わり、“アルマを持つ魂的生命世界”へとこの世は進化を遂げたのだ」
「何言ってんのか、理解、できねぇ。亮はあんなに小せぇ。あんなに虐げられて、それなのにあんなにがんばって──、それがヒトじゃねぇって……神とか、そんなこと」
「いや──、亮そのものが神なのではなく、神を──ミトラを内包しているというのが正しい。亮の父──ウィルドの能力を持つ世界でただ一人の男、上泉秀綱が長い年月を掛け創り出したミトラを、仕上げとして人の世で保護育成するために用意したガード機構。それが亮なのだ。秀綱は現生樹の流れに漂う塵から簡易に疑似アルマを創り出し、それにミトラをくるませ、己と己の弟子との間の子としてこの世に生み出した。亮がか弱いのは致し方のないことだ」
 ぞくりと背筋が凍る。
 荒唐無稽に聞こえるビアンコの話に、この場にいるウィスタリアも、いや、研究員の一人とて、耳をそばだてるそぶりを見せない。
 ここにいる人間すべてに、この話は当然の事実なのだ。
 亮のアルマはヒトとして世界の摂理で生み出されたものではなく、たった一人の人間が手慰み同然で創り出した包み紙に過ぎない──ビアンコの言葉はそんな無情を伝えているように思えた。
「亮は──っ、か弱くなんか、ねぇ。あいつはっ……」
「だからこそ、秀綱にとっても誤算だったのだ。塵から創った疑似アルマなど、ヒトとしての生活を普通にやり過ごすことさえできればいい、それだけの役割しかないものだった。しかし、なぜか亮はソムニアとして覚醒まで果たしてしまった。一般的な人間以上に人間として、疑似アルマの亮は成長してしまったのだ。お前の言う包み紙程度の薄っぺらい存在であれば、ミトラ成長後は役目を終え、アポトーシスにより自然崩壊し苦しむことなどなく消え去るようプログラムされていたはずだ」
「苦しまずって──、亮はあんな発狂しそうなほどの痛みを感じて」
「亮の身体に現れた翼はミトラの持つ器官の一部であり、生樹と己をつなぐ端子とも呼ぶべきものだ。そしてその成長により引き起こされる亮の痛みは、ミトラを覆う亮自身が己の崩壊に抗おうとする痛みに他ならない」
 ビアンコの言う意味の何もかもが入り込んでこない。
 脳の言語野を上滑りし、それでも何か反論しようと口を開きかけるが意味のない吐息が出るばかりで声にならない。
 しかし構わずビアンコは淡々と語る。
 彼の部下がどんな状況だろうと冷静に言葉の意味をかみ砕くことの出来る男だと知っているからだ。
「亮を救うということは、ミトラの孵化を抑え込み、我々が成坂亮と呼んでいる“ガード機構”の崩壊を食い止めること──その一点のみ」
 ごくり──と、シュラの喉仏が上下する。
 ここに来るまで、シュラには希望があった。
 ビアンコもウィスタリアも亮のために全力を傾けてくれていて、一年かかろうが五年かかろうが、亮の背に現れた得体の知れない翼をもぎ取り、亮は笑顔で東京に帰るのだと。今は治療費の為さんざんこき使われているシドも、組織に対して相変わらずの文句をぶちまけながら、勝ち誇った顔をして亮を抱えて戻るのだと。
 だがそれが全て不可能な絵空事であるのだと、ビアンコはシュラへ宣言しているのだ。
「この……薄気味悪いプールが亮を助ける唯一の手段だとでも言うのか。触手みたいな糸に吊されて、服すら着せてもらえず、何人もの人間に監視されて──。こんな大型の装置、本当に亮を助けるためだけのもんなのか? あんたの──IICRの本当の目的はなんなんだ」
 ゆるく瞬きしながらどことも知れぬ場所を眺めてたゆたっている亮の姿を見つめ、シュラは絞り出すような声で問うた。
 思っていることを何一つ我慢できなかった。
 絶対的尊敬を寄せるビアンコに対し、普段ならば言葉にしてはいけないのだろうと忖度を測れる事柄も、今のシュラは息をするように吐き出すしかない。
 衝撃的なまでの絶望感はシュラ・リベリオンという大人を思春期の青少年のように変えてしまう。
 心の堰が決壊したのだなと──シュラは他人事のようにそう感じた。
「……そうだな。おまえの考えは正しい。今亮を入れ込んでいるエロハの泉は──、元々は前々研究局長・テーヴェと共に開発していた代替生樹の一部だ。彼女とは意見の食い違いで袂を分かつことになったが」
「ビアンコっ、それ以上は──」
 語り出したビアンコに、焦燥を含んだ声音でウィスタリアが言葉をかぶせる。
 どうやら話は確信に近づいているようだった。
 しかしビアンコは「いや、いい」と簡潔にウィスタリアを制し、崩れそうになる足を奮い立たせて立ちつくすシュラへと向き直る。
「おまえは全てを知るべきだ。知ってなお、ソムニアのために──この世界のために動いてくれると信じている」
「それを決めるのは──、あんたじゃねぇ。俺だ」
 いつもとは違う拒絶の声様に、ビアンコは僅かに目を細め、だが構わず先を進める。
「現在起きている転生障害。あれは一過性のものではない。我らの世界を循環させている生樹そのものが、今、枯れようとしているのだ。それはこの生樹を循環させている管理者が滅びようとしているからであり、それをさせない為に我々は新たな管理者を使って再びこの生樹を蘇らせようと試みている。かれこれ百年以上前から、この日に備えて手を打ってきた」
「新たな管理者ってのが──亮なのかよ。そんな昔から準備してきたっていうのに、なんで肝であるそのピースがたかだか16年前に生まれた亮なんだよ!」
「我々が準備していたのは亮ではない。テーヴェだ。彼女は自らを管理者として構築するべく日々研究を重ねていた。だが彼女は離反しこのオルタナを捨てた。独自に生樹を生みだそうと考えているようだが、私にはそれが成功するとは思えない。IICRが百年掛けて造り上げたシステムを、たかだか十数年で一から作り出すなど不可能だ。たとえ罪のない数多のアルマを犠牲にし、自らのアルマに取り込んでいったとしても、計算通りに行くはずがない。我らに残された道は、造り上げたシステムに脳髄となる新たな管理者を入れ込むことだけだ」
「……そんなことだろうと、思ったよ。どいつもこいつも、……ビアンコ、あんたまでっ、大義名分を振りかざして、亮に無理を強いるんだっ」
「確かに私たちは亮に大きな使命を担ってもらおうと考えている。だがそれは、成坂亮のアルマがあってこそ、だ。その意味がわかるか?」
「──っ」
 そこで初めてシュラは苦しげに唇を噛み締めた。
 この先何を宣言されるのか、聡い彼は見通せてしまう。
 選びようのない究極の選択。追い詰められた一本道。
「亮のアルマが消え去り中のミトラが孵ってしまえば、オルタナは意味をなさなくなる。全く新たな生樹が生み出され、現生樹は霧散する。それと共にこの世界がどのようになるのか──誰にも保証は出来ない。今の世界がそのままそっくり新生樹に移行する可能性もあるだろう。だが、世界が原初へ戻り再び一から造り上げられていく可能性も否定できない。そんな賭けに私は世界をベットすることはしない。だからこそ現生樹を復活させ、制御していく必要が我々にはある。オルタナの管理者にはミトラほどの力は必要ない。システムの一部となっても崩壊しない肉体と、我らの声を聞き届けることの出来る意識さえあれば、動かすことが出来るからだ。……まぁ、その肉体を持つという条件自体が厳しいものなのだが、元来ヒトではない亮はその問題を易々とクリアできる上、オルタナとの親和性も極めて高い。接続するための端子はすでに彼自身備えていてこれ以上肉体に負担を掛けることもしなくていい」
「必要だから……。この機械にとって亮が便利だから、亮を生かすってことなのかよ」

「……そうだ」

 シュラの言葉にしばしの沈黙を持ち、ビアンコは頷いてみせる。
 それを合図にウィスタリアがメインモニターの画像を切り替えていた。
 黄金に輝く泉の映像が一転、灰と白のモノクロ画像に変化する。何か特殊なフィルターを掛けられたようだった。
 そして――そこに映される亮の姿に、シュラは再び言葉を失った。
 周囲に映る機械群の様子に変わりはない。だが、中央に映し出された亮の姿のみ、──よく見えないのだ。
 確かにそこに亮が居るのはわかる。しかし、まるで酷いドットノイズにやられたように、少年の姿は掛け落ち、不明瞭にぶれている。人の影であるのかすら、わからないほどだった。
「この映像は僕が手を加えたわけじゃないよ? ただ亮くんのアルマそのものを映すためのフィルターを掛けているに過ぎない。……わかる? ホントにもう、危ないんだ。今はビアンコの力で辛うじて形を保っているだけで、いつ崩れ落ちてもおかしくない。このまま泉の中でゆっくりアルマを凝結回復させながら、オルタナへ馴染んでもらうしかない。選んでいられる状況じゃないんだよジオット」
 硬い声音で語るウィスタリアにはいつもの飄々とした空気が伺えない。
 だが切迫した様は少なくとも亮を単なる装置の一部と考えているようには見えなかった。
「亮が選べる選択肢は多くはない。オルタナのエンスフェランとして今ある世界を助けるために働くか、ミトラを消滅させるため私の手により分解処置されるか、秀綱の元へ行き、己のアルマを崩壊させミトラとして新世界を生み出すか。……言わずともわかると思うが、後者の二つは亮として存在することはできない、ということだ」
「亮のアルマを回復させるだけって選択肢もあるはずだ。こんな状態の亮を無理矢理使わなくとも、またテーヴェみたいな希望者を作ればいいじゃねぇかっ」
「時間がないのだ。テーヴェと同じような者を作り出す──もうそんな余裕はない。もし亮にこの役割を担ってもらえないのなら、次の候補はおまえの部下でもある、ルキ・テ・ギアに任せることになる」
 思わぬ名の登場に、シュラは声を上げていた。
 確か彼も亮の世話役としてこの樹根核に招聘されているはずだ。
 それはもともとこういう事態を考えての配置だったのにちがいない。
 亮が駄目になったときの代わりの駒──。研究局とビアンコの周到さに寒気がこみ上げた。
「鬼子の中でも彼は特に優秀だ。泉の因子にも耐えうる肉体とアルマを有している。だが、彼には端子となる翼がない。代わりに研究局の造り上げた代替端子を彼の身体へ移植する必要があるのが、問題ではある。やはりかなり身体に負担を掛けることになるからな」
「そんなことは──っ」
「亮くんの代わりにと言えば、きっとルキくんは首を縦に振ってくれると思うよ。それに彼もIICRの人間だ。組織の命令としてこの世界を救う任務を下されれば──ましてやそれが己しかできない仕事となれば、否は唱えないだろうね」
 ウィスタリアの言うことは悔しいかなもっともだと思った。
 おそらくルキはこの話を持ちかけられれば、受け入れてしまうに違いない。
 亮を助けるため。国に残してきた彼の大事な家族を助けるため。仕事仲間であるシュラたちを助けるため。何より、愛するハルフレズを無くさないため──。
 ルキを連れ帰ってくれと病室まで頼み込みに来たハルフレズの悲痛な表情が目の前にちらついた。
「亮のアルマは泉の中にある方が安定する。そのように亮のアルマが出来ているからだ。泉の中で休息しつつ、ゆっくりと生樹を動かしてくれればそれでいい。わざわざルキの肉体を弄ってまで、亮の身体を他に移す必要はないのではないか?」
「それは──亮は管につながれたまま延命される植物状態と何が違うんだ。感情もねぇ。会話も出来ねぇ。ただそこに存在して利用されるだけなんて……あまりに酷だ」
「しかし亮のアルマは消えることがなくなる。研究局が成果を上げれば亮のアルマを固定させたままオルタナから外すことが出来る日もくるやもしれん」
「そんな戯れ言──この場しのぎの詭弁にしか聞こえねぇ」
「そう言うな。ソムニアにとって転生が続くと言うことは時間はいくらでもあるということだ。成果が実るのが来年なのか数百年後なのか、私にもわからない。だが、亮のアルマが形を保っている限り、可能性はゼロではない」
「…………」
「それにね、ジオット。亮くんはこうして意識なく眠っているように見えるけど、実際は僕たちの声を聞くことができるんだよ。もう少し元気になればしっかりとした会話をすることも可能だし、数年に一度はオルタナのメンテのために、亮くんを泉の外へ引き上げることも可能だ。その時は亮くんの知り合いをここへ招待すればいい」
 信じられないといった面持ちのシュラに対し、ウィスタリアは目の前のコンパネに手を触れていた。
 旧式のスイッチがぱちんと上げられると、室内上部に取り付けられたスピーカーから、微かな泣き声が聞こえ始める。
 シュラは息をのんで咄嗟に亮の名を呼んでいた。
「マイクに向かって声掛けてあげて? ジオットの声なら届くかもしれない」
 ウィスタリアに渡されたヘッドホンマイクを付ければ、耳元から先ほどよりも鮮明なすすり泣きが聞こえてくる。
「亮っ、亮、なのか!?」
 ウィスタリアの言葉など構うことなく、反射的にシュラはそう問うていた。
 モニターに映されたモノクロ画像の人物像が、僅かに揺らぎ、少しだけ少年の姿を取り戻す。
 その様子に研究員達一同がざわめいたが、それすらシュラには聞こえなかった。
「凄いな。さすがジオットの生声だ。合成音源とは反応が違う──」
 呟いたのはウィスタリアではなくスルトだ。ウィスタリアの姿のまま、無遠慮に声を漏らすほどの驚愕が彼にあったのだろう。
『…………だ、れ?』
 ノイズ混じりに聞こえた声はシュラの求めてやまない少年のもので、シュラは震える唇を噛み締めて、今一度彼の名を呼んだ。
「亮、聞こえるか? 俺だ。わかるか?」
 その声が届いたのか、少年の泣き声は少しだけ大きくなった。
「また、泣いてるのか? 大丈夫だ、俺がそばにいる」
『…………っ、ら……。しゅらぁ……』
 研究員達のざわめきが更に膨れあがった。
 この状態で信じられない──という感嘆の声がそこかしこであがる。
「くそっ、どうすりゃいいっ、亮っ──」
 焼かれるような焦燥感に駆られシュラは拳を握りしめるしかない。
 その掌からじんわりと血が滴り落ちるのを、ビアンコは静かに見つめていた。
「亮のそばに行きたいか」
 問いかけるビアンコに対し「当たり前だ!」と吐き捨てるようにシュラは言った。
 今すぐにでもこの制御室を飛び出して、黄金の泉へ飛びこんでしまいそうだ。
 だがあの泉が恐ろしい超超高熱を有していることを、ここへ来る間にシュラは知ってしまっている。
 己のカウナーツですら耐えられない温度を誇る泉に飛びこめば、亮を抱きしめる前にシュラ自身が消えてなくなってしまうだろう。
 そうなれば亮を助ける事の出来る人間は、いなくなる。
 胸を掻きむしるような焦りを抱えつつも、冷静さを失わない彼の部下に、ビアンコはある提案をした。
「泉の水と端子の接続に耐えうる者であれば、亮と同じ夢を見ることが可能だ」
「どういう……ことだ」
「ジオット。お前の肉体は生樹とシンクロこそしないが、現在エロハの波に耐えうる強靱さを備えている。その為のエリクシエルだ」
 目を見開き、シュラは背後の長身を振り返っていた。
 深遠な黒い瞳が一直線にシュラの姿を映している。
「あんた……最初から俺にそれをさせるつもりで……」
 単なる外傷治療のためだけに、稀少な薬を使ったわけではない──。
 IICRの長は初めからシュラを泉に投入することを考えていたのだ。
「しかしエリクシエルといえど永劫ではない。エロハの泉は人の身にはきつすぎる代物だ。おまえが亮と寄り添えるのは百年と行ったところか。その後は徐々にアルマごと融解し、泉と同化してしまう。転生もかなわん」
「……それでも百年、亮を守ってやれるのか」
「一人にさせないということが同義なら、そうなるな。その間、おまえには亮を安全に生かし生樹を動かす補助をしてもらうことになる。……おまえがうまく亮を導ける限り、オルタナのシステムにより二人の世界を守ることを誓おう」
「……一つだけ、聞いていいか」
 既に覚悟を決めた顔つきでシュラが問いかけ、ビアンコは小さく頷いた。

「シドには──この話行ってるのか」

「あれが知ればこの話は頓挫する」
 その一言で全て秘密裏に行われていたのだとシュラは悟る。
「ある男から亮を守れってのは──要するに」
「この任を受けるのなら、今すぐ入泉テストの準備をさせよう」
 シュラに皆まで言わせず、ビアンコがウィスタリアへ視線を向けた。
 スピーカーからはシュラを呼ぶ亮の泣き声が聞こえ続けている。
 シュラは片方だけ口角を上げると、
「テストなんざいらねぇ」
 そう言い置いてヘッドフォンを投げ捨てると、制御室を駆け出していた。
 背後でウィスタリアの慌てたような声が聞こえた気がしたが、その瞬間にはもうシュラの身体は宙を舞い、勢いよく黄金の泉へダイブする。
 灼熱の飛沫がマグマのように飛び散って、キラキラと輝いていた。
 一瞬、あまりの高温に自らと世界を分ける境界が蕩けたように感じたが、それもわずかのこと。
 見開いた蒼眼にたゆたう少年の白いからだが映り込み、シュラは足を蹴り、手を伸ばした。
 下方へ向けて飛びこんだはずの泉の中では上下が逆転しているのか、輝くあぶくと共に上へ上へと昇っていく。
 触手のような端子に絡め取られた細い腕を捕らえ、そして小さな身体をその胸に抱きしめる。
 泉に飛びこんだ瞬間シュラの衣服も溶け去って、素肌にそのまま亮の肌の感触を感じていた。
 こつんと額をくっつければ、白い目蓋が僅かに揺れて、シュラの顔を映し出す。
 その瞬間、シュラはどことも知れぬ蒼い大地に身体を投げ出され、その身を焼いていた泉の熱も消え失せたように感じた。
 生ぬるい風が渺々と吹いていた。

「シュラ……?」

 白い病衣を着た少年が、ぼろぼろになったタオルケットを抱えたまま目の前にうずくまってこちらを伺っていた。
 大きな黒い瞳は信じられないと言ったように見開かれ、次にぽろりと大粒の涙を溢れさす。
「ほんとに、そばに、来てくれた。シュラ、ほんとに、シュラ!?」
「──っ、亮! 大丈夫か? 痛いとこねぇか?」
 這うように駆け寄り抱きしめると、亮は堰を切ったように泣き始め、震えながらしがみついてくる。

『ジオット、無茶苦茶だよ! 泉との端子接続も亮くんとのシンクロテストもナシで──このままじゃ百年どころか三日で干上がっちゃうから、端子だけでも着けさせて欲しいんだけど』

 夜の空を思わせる暗闇に星が瞬き、それと合わせるように微かな声が響いてくる。
 恐らくウィスタリアの声だ。
「勝手になんでも着けといてくれ。任せる」
『はぁっ!? ……ちょ……、はい……、かりましt、こっちで……』
 二言三言何か向こうで会話があったのか、音声が混濁した後、再びウィスタリアの声が聞こえた。
『さしあたってこっちで何とかしておくから、ジオットは亮くんのケアをお願い。お仕事の訓練は亮くんがもう少し落ち着いたら始めることにする。……しばらく通信は切るけど、そっちの声はモニタリングしてるから、何かあったら声を掛けて』

 了解の旨を告げた後、どこまでも続く荒野の真ん中で、たった二人抱きしめあう。
 こんなに何もない暗闇の中、わけもわからずただ一人投げ出されていた亮はどれほど恐ろしい思いをしたのだろう。
 震えていた亮の身体から徐々に力が抜け、小さな寝息が聞こえ始めた。
 意識の混濁かと一瞬焦ったが、シュラの腕に抱えられた亮の顔つきは穏やかで、心地よさげな眠りを貪っているようだ。
 疲弊しノイズで姿さえ不鮮明になっていた亮のアルマを思い出し、シュラは苦しげに眉を寄せた。
 いつも亮の側にあったタオルケットも、見るも無惨なほどのぼろ切れと化していて、その疲弊度をまざまざとシュラに見せつけていた。
 前髪を避けるように額を撫でつければ、亮はむずかるようにシュラの腕にすがりつく。
 恐らくこうして少しずつアルマを回復させていくのだろう。

「もう大丈夫だ。俺がそばにいるからな。ずっと、ずっとだ──」

 安心しきったような寝顔を見下ろし、膝枕をしたまま身を折ってそっと額に口付ける。
 これから百年──いや、この身体が滅び崩れようとも、千年だろうと万年だろうとこの子を守り続ける。
 そう決意したシュラの瞳は、限りなく甘く揺れていた。