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『隠れるしか能のないおまえごとき獣が種子を護ろうなど片腹痛い』

 暗く閉ざされた地面のその下──蒼炎を灯火とし息を潜めるしかないシュラの耳元で、その声は直接囁くように聞こえていた。
 六度の転生、250年余りの人生において、これほど苦戦を強いられたことは未だかつて無い。
 金巻毛の美丈夫の有無を言わさぬ攻撃に、意識のない亮を抱きかかえたシュラは為す術なく逃げ、隠れるよりほか道がなかった。
 かの男の手にした剣より放たれるのは雪白の眩さを放つ業炎──。その威力は凄まじく、触れた大地は瞬く間に溶け落ち、ガラス質の黒いクレーターと化してしまう。
 瞬時に戦況を判断したシュラは男の目を己の蒼炎で眩ませ、跳躍したと見せかけて、男が消し去った丘の跡地へと身を寄せていた。
 数秒の隙を縫い、迸らせた蒼炎で僅かな穴を穿ち、すぐさま入り口を閉じる。その後は奥へ奥へと溶かし進み、十数メートルほど進んだ辺りで息を潜めた。
 肉体が酸素を必要とするリアルとは違い、セラではこういった隠遁術が頻繁に利用される。
 特にカウナーツやソヴィロと言った炎熱系の能力は、高熱で融解させることが出来るため力業で掘り進める時のような土砂が出ない。それゆえ速やかに穴を穿つことが可能であり、様々な作戦で頻繁に使われる手の一つだ。
 もちろん超高熱を伴うわけで、使用者にはそれに耐えうるアルマが必須となるわけだが、シュラはもとよりゲボである亮も十分な耐久性を有している。
 その点に関しては不幸中の幸いといえたが、──状況は圧倒的に不利だった。

『今すぐそれを我に渡せ。さすればおまえは苦しませず、我が浄炎でアルマの海へと帰してやろう。ほんの瞬きほどの間だ』

 男の使う白炎はシュラの持つ蒼炎の相剋に当たり、シュラの炎は根本から断ち切られてしまう。
 それは同じ炎系である為事態は根深く、水を操るラグーツと対峙する時以上の絶対的力関係を有している。パーでチョキには勝てないのと同じようなもので、シュラにとって最も相性の悪い相手だといえた。
 本来、白炎と黒炎は人外の炎である。
 もちろん過去の戦闘で白炎を使うソラスやセラ生命体とやり合うことはあったが、それらの存在はレア中のレアであり、なおかつそこまで強力で純粋な力を持つ者は深度の浅いセラに於いてはいないのが実情だった。
 激甚とも呼べる白炎を操り、六対十二枚の羽根を持つあの男が何者なのか──、シュラには見当が付いてしまった。

「あれがティファレトのソラス──。ミカエルかよ」

 樹根核が作られている場所は生樹の内“ティファレト”と呼ばれる中央に位置する世界だ。生樹を構築する10の世界にそれぞれ一人ずつ、守護するソラスのような者が存在すると言われている。セラのソラスとの決定的な相違は、一つ一つ小さな泡のような細切れ世界の結晶であるソラスに対し、彼らは世界まるごと一つを統べている──ということに尽きる。俗に“天使”と呼ばれる彼らは、遙か昔より多くのソムニア達が転生中の記憶を留めようと試み、辛うじて知った世界の秘密の内、最も有名なものの一つである。
 ソムニア達は彼らにそれぞれ名を付け、それは世界中の宗教へと溶け込み、一般人もそれとは知らず聞き知ることとなった。
 ミカエル──そう名を冠されたティファレトのソラスは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に登場し、悪魔を駆逐し神の法を守る大天使として描かれることが多い。
 人の魂を秤に掛け、圧倒的な戦闘力でサタンをも退けるとされる彼の伝承そのものを、シュラは身をもって知らされたこととなっていた。

『蒼い獣よ。それが何かわかって寄り添っているのか? その子供はミトラの力をこの生樹へと流入させられる取水口のようなものだ。朽ちかけた我らが生樹を再び神の愛する樹へと戻すこともできるはずなのだ』

 ミカエルは姿を見せないシュラへ向かい、説得とも呼べる言葉を送りつける。
 天使といえど得手不得手があり、戦闘特化型のミカエルは視るという能力においてはさして高くはないのかもしれない。シュラと亮の位置を計りかねているのだろう。

『人の子を超える人の子──ビリンバウはそれを見越してこのティファレトへ異物である屋敷を造り、ミトラの種子をこちらへ寄こしたはずだ。我はその子供を護り、生樹を蘇らせ、神の創りしこの世界を再生せねばならない』

 ビリンバウ──ビアンコの人としての名を、彼は口にした。
 天使達にまで名を知られる人間など、どこまで人を超えているのかと上司の立ち位置に呆れかえったシュラだが、ミカエルがビアンコを知っていると言うことは、当然ビアンコも、恐らくウィスタリアもミカエルという天使の存在を知っていたはずだ。
 こういう状況に陥ることも想定内だったとすれば、蒼炎しか持たぬシュラにミカエルをどう迎え撃たせるつもりだったのか──、亮が意識を閉じている現状では彼らに指示を仰ぐことも不可能だ。
 だが、何か方法があるはずだとシュラは思う。
 彼らはシュラを通し、亮を意のままに動かすことを望んでいる。それには、話の通じそうにない“天使”へ亮を渡さないことが必須条件のはずだ。

『種子を我に託せ。崩れかけた種子も我ならば補完することができる。我はミトラの種子に元の姿を取り戻させ、永遠に寄り添い、護ると誓おう』

 亮のアルマを修復できるというならば、すぐにでもそうしろと訴えたい。

 ──だが、亮は渡さねぇ。

 亮をよく知りもしない輩が、また亮を利用しようと考えている。
 彼が必要としているのは亮ではなく──亮の持つ能力に過ぎない。
 苛立ちと怒りがシュラの内側を囂々と焼き、羽根のように軽くなってしまった亮のアルマをぐっと抱きしめた。

「どいつもこいつも……」

 噛み締めた奥歯の隙間から怨嗟の声が漏れ出る。
 シュラの蒼い瞳は爛々と燃えさかっていた。
 自分の腕の中から亮を奪おうとする輩は、何者であろうとも排除する。
 それが人のアルマ浄化を見守り続けてきた天使だろうと、この世界を創り出した顔も見えぬ神だろうと構わない。
 自分の炎が断ち切られるというのなら、断ち切られる前に焼き尽くしてしまえばいい。

「亮……。少しここで待っててくれ」

 瞳を閉じたままの亮の白い目蓋に口づけを落とし、亮の身体に己の赤い上着を掛けると、シュラはゆるりと立ち上がった。
 黒いガラス質に固められた小部屋の壁に上半身を預けるように、亮は眠り続けている。
 亮の足下には蒼い炎が小さく揺れる蝋燭が揺らめいていて、漆黒の暗闇を押しのけ亮の身体を優しく包み込んでいた。
 今一度、亮の姿を目に焼き付けると、シュラは左手にカウナーツを滾らせ、塞いだはずの黒壁に触れる。

「すぐ迎えにくる」





 そうして蒼炎に溶け落ちた壁がシュラを飲み込んでから、きっかり二時間三十分後──。
 宣言通り、眠り続ける亮の元へシュラは舞い戻り、小さな身体を抱え上げると元来た道を戻り始める。
 来るときには両腕で抱かれていた亮は、現在、右手一本で抱えられ、シュラの首元に頭を預けるように眠り込んでいた。

「すまねぇ、寝心地悪いな」

 囁きながら苦笑したシュラの左腕は、根本から先が消え失せていた。
 赤いジャケットの袖は左側だけ所在なげに揺れ、その存在を感じさせない。
 服を脱げば恐らく肩口の辺りに黒く焼けこげた腕の痕跡のみ、見ることができるだろう。
 じんわりと額に脂汗を滲ませながらも、シュラは残った右腕にかかる幸せな重みに笑みを浮かべる。
 長く暗いトンネルより外に出た瞬間、乾いた風が二人の髪を靡かせた。
 たくさんの月に照らされた荒野の中央──、そこに巨大なクレーターが一つ、口を開けている。
 地の底深くから巻き上がるように熱風が吹き抜けていった。
 すり鉢状にえぐり取られた大地の直径はおよそ二キロメートル。
 ここでどのような戦いがあったのか、当事者であるシュラが語らずとも、見る者が見ればこの光景だけで察することができるだろう。
 地平の彼方を見据えたシュラは、今一度、亮の身体を抱え直し、クレーターを背にふらつく足取りのまま歩き始める。
 さきほどより亮のアルマは重さを増しているように感じた。
 それはシュラのダメージによるものだけでなく、実際、亮のアルマが僅かずつ力を取り戻している状況の表れだ。

「もうちっとマシな場所、探しに行こうな」

 亮の目蓋が震え、うっすらと開くと、黒い瞳にシュラの横顔が映り込む。
 目覚めた少年は言葉もなく微笑むと、細い両腕を持ち上げてぎゅっとしがみついていた。
 その甘えた仕草に髪を撫でてやりたいと思ったが、亮を抱えた状態では最早シュラにその腕はない。
 代わりにそっと頬を擦り寄せ、そのまま歩き続けた。

「俺のこと、わかるか?」

 しがみついたまま声を発しない亮に、シュラはそう問いかける。
 しかし少年は言葉の意味が通じているのかいないのか、きょとんとした表情でシュラの顔を見返すばかりである。
 その様子に一度静かに目を閉じたシュラは、歩きながら、こつんと頭を亮の額にぶつけていた。
 いたずらめいた仕草が気に入ったのか、亮は嬉しそうに声を立てて笑った。

「いいんだ。なんでも。おまえが元気ならそれでいい」

 クラウドリングの深度を最大まで上げたとウィスタリアが言っていたことをシュラは忘れていない。
 恐らく今の亮は会話もままならないに違いない。ひょっとしたら記憶も定かではないのかもしれない。
 それでも自分に対し恐れを抱かず、むしろ好意を寄せるように身を預ける亮に、シュラは胸が締め付けられるような愛おしさを感じる。
 月に照らされた二人の影は長く伸び、どこまでもどこまでも歩き続けていく──。