■ 5-53 ■




 朝靄を白く透かしながら、明け方の太陽は辺りを輝かせていた。
 黒く濡れた石畳とそこここに宵闇の影が残る煉瓦造りのビル群が、歩みを進める彼ら二人と一匹の足音を、不自然なほど大きく響かせる。
 白いダウンジャケットに身を包んだルクレチア・メッディは襟元を掻き寄せると、冷えた手に息を吹きかけ空を仰ぐ。
 そばかすの散った頬にふわりと白い結晶が舞い降り、彼女は盛大な溜息をついた。
「寒い寒いと思ったら雪とかホントやめて欲しいわ」
 彼女の言葉を皮切りに、天から舞い落ちる白い欠片は徐々にその数を増やしていく。お下げに垂らした栗色の髪の上にも、その上に被った白いニット帽の上にも、大粒の結晶は次々ととまり、やんわりと色を失っていく。
 横を歩く青年も同じように着ぶくれしたモッズコートの肩を竦め、吐く息で曇りがちになる眼鏡を中指で押し上げると、自分の右横を付き従うように歩く真っ黒の毛色をしたオオカミ犬を眺める。
「トビーは……快適そうだね」
 ぽっちゃりした丸顔童顔の主人──スモールタウンが声を掛ければ、蒼い瞳の大型犬はくるりと首を巡らせ、その通りだとでも言うように鼻を鳴らして見せた。
 オオカミ犬の形状を持つ彼にとっては、このくらいの気温は快適以外の何者でもないらしい。軽快に四本の足を撥ねさせ、石畳を蹴って、冬のブルックリンに似たこの街の散歩を楽しんでいる。
「でも空は明るいし、そんなに長くは降らないんじゃないかな」
「そう願いたいわね。探索ノルマもまだ半分なんだし、こんなとこで体力消耗したくないもの」
「これで4件目……。セラ時間で言うと……何日目になるんだ?」
 指折り数え始めたスモールタウンの少し前を歩くメッディは、苛立つように語気を強め吐き捨てる。
「38日目よっ! はーもう、リアル組に配置されてれば二日で仕事終わってるのに、どうしてアタシらがこんなしょっぱい塗りつぶし作業押しつけられてんのかっ」
「仕方ないよ。今回は武力局と警察局が主導なんであって、僕らテロ特は協力要請に過ぎないんだから」
「何言ってんのよ、環流の守護者を追ってたのは元々私たちじゃない! 私たちの地道な作業で特定しつつあった情報を根こそぎ持ってって、さらに手柄まで横取りなんて、汚いにもほどがあんのよっ。うちのトップがヴェルミリオからスプルースに変わった途端、好き放題っ。女子を舐めてんのよああああもおおお腹立つ!」
 鼻息も荒く拳を振り上げてみせるメッディに、スモールタウンは苦笑を浮かべて周囲を見回した。
「確かに僕ら、虐げられてるよねぇ。このセラも……ハズレ臭がぷんぷんだし」
 見渡す限りただ一人の人影も見あたらない。
 早朝であるため表に人が出ていない──ということもあるかもしれないが、それにしてもこの静けさはないとスモールタウンは思った。
 人の声も、車の排気音も、鳥の鳴き声すら聞こえない。
 このルールィードが人口レッドゾーンの衰滅セラであるという情報が痛いほどにわかる。
 現在、協力を要請されているセラ・テロ対策特別局の就く任務は、二人一組となり、環流の守護者アジトの“参考候補セラ”を巡り、異常がないかを虱潰しに当たる──という、非常に補助的なものとなっているわけだが、割り振られる参考候補セラというものは、以前、守護者の者たちがビラをばらまいて人員を募集していたセラ──であるとか、訓練と称し小規模のテロ行為を行ったセラ──であるとか、その程度のつながりしか持たない本当に“参考”でしかない場所だ。
 今二人が訪れたルールィードも、環流の守護者が発足した当初、街角で信者の一人が説法めいたものを行い人員を集めていたとされる場所であり、人口減少が著しくなった3年前からは彼らの姿を確認できたことはない。かつては数万人を誇り、ニューヨーク州に匹敵する広さを持っていたこのセラも、現在の人口は20〜30人程度、広さはマンハッタン島の周囲数キロまでに縮小が進んでいると言われていて、テロ活動の隠れ蓑にするには不都合なレベルにまで矮小化してしまっている。
「はぁ……。せめて相棒がいい男なら、こんなクソワークもデートと割り切って楽しめるってもんなのに」
 ちらりと振り返ったメッディの口の端はへの字に折り曲げられている。
「見た目だけなら前のジャパニーズの方がマシだったわ。……いやぁ、でも、どっちにしても乳臭いガキだから好みじゃないか。絶対的希望はヴェルミリオ様なんだけどなぁ」
「こっ、こっちだって一緒に回るならアメリアさんとが良かったよ! 金髪でムチムチで美人で優しくてエレガントでソヴィロで……」
「はぁ? あんたみたいなソバカスナードが、アメリアなんてチアリーダー丸出し女子と一緒で会話が成立するわけないじゃない。私みたいな癒し系女子と一緒だったことに感謝しなきゃ」
「癒し系と地味顔はイコールじゃないよ、メッディ」
 言ってやったと眉毛を高くし鼻息を吹くスモールタウンに、メッディはなおも口撃の手を弛めない。
「キモい童貞イェーラがキラキラなソヴィロに相手にされるわけないって言ってるの」
「どっ、どっ、童貞のイェーラがファミリア持てるわけないだろっ! 撤回しろ! ぼっ、ぼっ、僕にはちゃんとトビーっていう立派なファミリアが」
「犬とヤったのは経験人数にカウントされないに決まってるでしょっ」
「っっっっ!!! いぃぃいいい、犬となんてヤってない! トビーは犬型だけど、僕のファミリアを造ってくれたのは、ちゃんとイェーラ専属のファミリア胎生班のコモンズのお姉さんで、僕だってお給料三年分つぎ込んで──」
 一瞬言葉を詰まらせ、その後に怒濤の如く捲し立てるスモールタウンの様子を興味なさげに振り返りながら、メッディは肩を竦めてみせる。
「そ。スモはシロウト童貞なのね。相棒が獣姦マニアじゃなくて安心したわ」
「っっっっ……ぅぅううううっ」
 この一月半チームを組まされてからというもの、ほんの少し先輩のこのウルツ種女子にスモールタウンは一度として勝てた試しがない。IICRのれっきとした正規構員であるはずの彼だが、海千山千の出向組である彼女の方が一枚も二枚も上手であるとしか言いようがなかった。
 そんなわけで、うめきながら、垂れてきそうになる鼻水をすすり上げることしか今の青年にできることは何一つない。
「僕はスモールタウンだ。スモとか変な略称で呼ぶのやめてって言ってるのに」
「あっ、いい男!」
 ぼそりと呟いてみせたささやかな抗議の声も、ほんの3メートル先の彼女の耳には届いていないようだ。
 目を輝かせ、伸び上がって朝靄のビル群路地へ視線を向けていて、相棒である彼の存在などまったく意識の外である。
 スモールタウンはむっとした顔を隠さぬまま、「どこにも誰もいないよっ!」と声を荒げていた。
「いたんだって! ちらっと背中が見えたのよ、黒髪で背の高いニューヨーカーが」
「なんでニューヨーカーなんだよ。それにちらっと背中見ただけでイケメンかどうかなんてわかんないだろ!?」
「わかるわよ、私クラスになると背中で顔がわかるのっ。あれは相当な美形よ。黒いトレンチコートに黒いボトムス。黒ずくめなんてイケメンニューヨーカー以外の何者でもないわよ」
 そう鼻息も荒く言ってのけるメッディは、足早にその男が向かったと思われる路地へ向かい始めていた。
 この無人に近いセラで住人と遭遇したとなれば追う必要があることは確かなため、スモールタウンもそれ以上は文句を言わず相棒に付き従ったがしかし、傍らを同じ歩調で歩くトビーは何の反応も示していない。
 犬型という特性を生かした彼のファミリアの嗅覚は一般的な犬の数万倍を誇っており、記憶させたあらゆる臭いを数キロ先からかぎ分けることが可能である。
 今回の任務に就くに当たり、トビーには今までIICRが集めてきた環流の守護者関係の押収品、全ての臭いを学習させている。
 当然それらには触った人間の汗や皮脂、微量のアルマ粒子などがこびり付いているはずで、そこから捜査関係者の臭いを引いたものを追うように指示していた。
 彼の自慢の犬はきちんと主人の指示を理解できる知能も持ち合わせている。
「トビーは何の反応も示してないし、そのイケメンニューヨーカー、メッディの願望が見せた幻覚なんじゃないの?」
 それでもどうにか一矢報いようと唇を尖らせて呟いてみるが、その呟きは「ブシュッ、ブシュッ」というトビーのくしゃみ二つでかき消されていた。
 二人と一匹は路地を抜け、ビル群に見下ろされながら雪のちらつく石畳を小走りに進む。いつしか街中を過ぎ去り、彼らは木立に囲まれた緑の芝光る公園の中へと迷い込んでいた。この冬色のセラにあって広大な芝地は不思議と緑を保っており、かつてこのセラが整えられた美しい場所であっただろうことを彷彿とさせた。
 明るかったはずの空は次第にどんよりと暗く沈み、空から降りしきる雪の欠片は大きさを増して無数のゴミのようにすら見えてくる。
 完全に黒い人影の背を見失ったらしいメッディは立ち止まりぐるりと辺りを見回して白い溜息をつく。
「駄目だ。こりゃ見つからないわ。こんだけ隠れる場所ないとこで人っ子一人見あたらないとか、聞き込みすらできないじゃない」
「ホントにこのセラは消えつつあるんだね」
「もう引き上げた方がいいわね。ここはハズレよ、間違いない。私の勘がそう言ってるもん」
「えっ!? 駄目だよ! 一つのセラで最低でも12チェックポイントは巡ることになってるだろ? まだ指示書の教会、一カ所しか見てないじゃないか」
「12も回ってたらまた5日間はここで足止めじゃない。時間の無駄よ。雪も酷くなってきたし」
 最後のが本音だろうなと眉を寄せつつ、スモールタウンがこのやる気のなくなってきた女の子をどうにか説得しようと口を開きかけた時だ。
 彼の右側に寄り添い空に向かって鼻先を突っ込んでいたトビーが、スクリと立ち上がると走り出す。
 黒い獣は不服そうに立ちすくむメッディの脇をすり抜け、芝の大地に爪先を抉り込ませ、見事なスピードで木立の奥へ消えていった。まさに黒い弾丸だ。
「っ、トビー!? どうした!?」
「あんたのバカ犬、また雌犬でも見つけたんじゃないの? 早く連れ戻して!」
 任務開始後、初っ端のセラで駆けだしたトビーに「すわテロリスト発見か」と色めき立ち後を追った顛末について、彼女は今更持ち出したようだ。結局あの時追いつき二人が目にした光景は、犬型のセラ生命体にマウンティングし腰を振っているトビーの情けない姿だった。ファミリアの使役者として人生で一番恥ずかしい瞬間だったと、四日経った今でも頭を抱えたくなる。
 もうあんな失態はしてくれるなよと心の中で唱えながら、スモールタウンは木立の奥──朝露に湿った草むらを掻き分け自慢のファミリアの姿を探せば、今まさに黒い尻尾が小さな建物の中へと消えていく瞬間だった。
 緑の中で突き出すように建てられた物置小屋のようなそれは、屋根部分が鍵型に湾曲し、先端には鉄格子が嵌められていて、内部から低いモーター音が振動を伴い吐き出されているのがわかる。
 コンクリートとステンレスで造られているそれは全体がくすんだ灰色がかっていて、この人気の無いセラに於いてさらに寒々とした印象を覚えた。
「なに、この建物。地面から生えてるみたいだけど……この辺りの管理小屋かしら」
 追いついたメッディが背後から訝しげに建物を見上げている。
「いや──たぶんこれ、換気塔だよ。ブルックリンには地下トンネルがいくつも走ってる。このセラも同じ構造になってるのかもね」
「地下、ね。また面倒なもの見つけてくれるじゃない」
 不服顔を隠そうともせずメッディは建物の扉に近づくと、僅かに開いたままになっているそれを指先で押していた。
 軋んだ金属音を立てスイングした扉が黒く沈むその先を二人の前に晒し、かび臭い風がメッディのお下げ髪を揺らす。
「ドア、壊れてる」
 メッディの言うとおりドアノブは根元の部分が歪んでいて、若干傾いでいるようだ。
「あんたのワンコロ、意外に器用ね」
「いや、トビーじゃないな。誰か別の人間が壊して入ったんだ」
「……じゃあ住人じゃないわね」
「うん。ここを利用しているソムニアがやったのかも」
 セラの住人ならば入れる場所にはきちんと正規のルートで入れる手段を持っている。そして彼らは入れない場所へは“行こうとしない”ので壊す必要などない。つまり、こんな風に形状ごと破壊して侵入する行為は住人以外の何者かが行ったこととなる。
 二人は顔を見合わせると確認するようにうなずき合い、そろそろとドアの中へと進んでいく。
 もしかしたらここは当たりなのかもしれない──、そんな緊張感が二人の足取りを慎重なものへと変えていた。
 一歩中に入れば視界を奪われるような暗闇が当たりを包み込むが、ジージーと耳障りな音を垂れ流す蛍光灯のおかげで、部屋の奥に続く下り階段は仄かに浮かび上がって見える。室内に入れば寒さも少しはマシになるかと考えた二人の期待は見事に裏切られ、湿気を帯びた冷気が刺すように剥き出しの手や顔を赤くする。
 薄暗い小部屋の奥についたコンクリート製の階段は幅も狭く、人一人が通るのに精一杯で、小突くように押し出されたスモールタウンを先頭に二人はゆっくりと下っていく。
 そうして濡れて滑りやすい階段を何度も折り返し、五分ほどかけてようやく広い空間へ出ることとなった。
 左右へ伸びるトンネルの足下には錆びた線路が二本、柱の列を隔てて走っており、ここが以前地下鉄として機能していたことがうかがい知れる。先の見えない暗闇から低い地響きのような振動が途切れることなく聞こえ、冷たいくせにかび臭い、ぬめりを帯びた風が吹き抜けていく。
「これ、もう走ってないわよね?」
 ブーツの先で錆びた線路を蹴ってみせるメッディに、「多分ね」と肩を竦めて歩き出したスモールタウンは、寒さにコートの襟元を掻き寄せフードを被った。
 天井が高いせいかトンネルだというのに声は響かない。
「急ごう。トビーはけっこう先に行っちゃってる。絶対何か見つけたんだよ」
「はぁ……、長時間探査はダルいけど、なんか見つかったら見つかったで面倒くさいわ。早く片付けて暖かいシャワー浴びたい」
 文句タラタラで足取りも重いメッディを伴って、スモールタウンは駆けだしていた。
 足下の悪い線路の上を飛ぶように疾走する二人が停止を余儀なくされたのは、それから700メートルほど進んだところだった。
 最初は前方から飛来する小さな羽音を時折聞いただけだった。
 しかしそれは次第に間隔を狭め耳元を掠めるようになり、気づけばその飛来物をかわしながら走らねばならないレベルへと達していた。
 点々と途切れたハロゲンの黄色いランプに浮かび上がるのは飛来する拳大の小さな影であり、避けようと振り上げた右腕に鋭い痛みを感じて視線をやれば、モッズコートの袖は切り裂かれぱっくりと口を開けてだらしなくぶら下がっている。滲んだ血によってカーキのそれは黒く色を変えていく。
「うわ、いって……」
「何やってんのよ、不用意に手なんか出して! こいつらの羽、ステンレスみたいなもんだわ、簡単に腕落っこちるわよ!?」
「ごめん、表面かすめただけだから」
 叱責するメッディが背後から踊り出すや否や、スモールタウンの前で右手に掴んだ鉄骨を構えていた。錆び付いたそれはどうやら足下に走る線路の一部らしい。ブンブンと音を鳴らし振ってみた結果一本では足りないとみるや、彼女は屈み込み左腕一本でコンクリートに打ち付けられた線路を一本剥ぎ取る。
「私虫嫌いなんだよねぇ」
 彼女の言うとおり、時速200キロで飛来するそれは大きな甲虫の形をしており、明らかに二人を目指して体当たりをしてくるようだ。敵対的セラ生命体の特徴とはいえ、任務中の遭遇は面倒なものである。
 砲弾のように撃ち込まれるそれらを、両手に構えた線路により巻き込み弾き返すメッディは不機嫌顔のまま背後に庇ったスモールタウンに声を飛ばす。
「ちょっとこの数は異常だわ。一旦引いた方がいいんじゃない? 何かこの先あるなら援軍呼んだ方が得策だって」
「消えかけてるセラだから蟲の湧き具合が度を超してるだけで、環流の守護者に関わりがあるって確証はまだつかめてない。もう少し根拠を探さないと本部は動かないよ」
「あーもう。確かにあんたの犬が追っかけてったってだけじゃ、また雌犬とよろしくやってるだけかもだもんね」
「うっ……」
 容赦ない嫌味に言葉を詰まらせたスモールタウンの耳へ、威嚇するようなトビーの吠え声が届いたのはその時だった。
 緩やかにカーブしたトンネルの先──、見えないその向こうの意外と近い位置からうなり声が響き続けている。
「しょうがない、行くわよっ」
 ウルツの強力をもって振り回す鉄骨の先は音速を超え、耳に聞こえぬ衝撃波を生み出して数十の甲虫をたたき落とす。
 僅かな隙を突き走り出した彼女の後を追い、スモールタウンも走り出していた。
 50メートルは走っただろうか、勇ましく鉄骨を振り回しながら疾走するメッディを呼び止めたスモールタウンは、右手にある脇道へ飛びこんだ。
 トビーの気配はこの通路の先にある。
 通路の中はびっしりと小さな羽虫が敷き詰められていて、彼の無骨なスニーカーが一歩踏み込む度にザワザワと道を開けた。
 この地下トンネルに降りてきたのと同じ作りの脇道は、そのまま突き当たりが階段になっており上へと続いているようだ。
「いやぁぁっ、何ここ最悪!」
 一歩遅れて踏み込んできたメッディが悲鳴と共に立ち止まっていた。
 羽虫たちは攻撃こそしてこないものの、その数は見る見る増し、黒光りした羽根が幾重にも折り重なって二人の足下を埋め尽くしている。
「蟲の数、ほんとにすごいね。崩れの場所が近いのかもしれない」
「巻き込まれないうちにやっぱ戻ろう! 犬は残念だったってことで!」
 もうこれ以上一歩も先へ進むものかとメッディがくるりと方向転換する。この羽虫の群れに比べれば、弾丸甲虫を打ち返しながら進む方が百倍増しだと彼女は声高に主張した。
「いやいやいや、残念ってなんだよ、トビー置いていくなんて駄目だからっ! とにかく二人行動が鉄則なんだから勝手に一人で戻るなよ!?」
 叫んだスモールタウンの声に反応するように、上階から犬の吠え声が再び響いた。
 そんな抗議をものともせず再び坑道へ飛び出そうとしたメッディの足が不意に止まる。
 説得が聞いたのかと声を掛けかけたスモールタウンにも、それが見当違いであったことがすぐにわかってしまった。
 足下を揺るがす地響き。
 それと同時に外からざぁざぁとノイズのようなものが聞こえ始める。
 それらが水の音だと判断する前に、坑道側の狭い出入り口からちょろちょろと水が流れ込み始めたのだ。
「嘘だろ……。このトンネルの上、運河だけど……」
「上っ、上に上がって!!!!」
 最早羽虫が気持ち悪いだとか言っているレベルではないと判断したメッディは、きびすを返すとあれほど嫌っていた虫たちを踏み散らかし、呆然とするスモールタウンを追い越して階段へと駆け上がっていく。
 水音は音量を増し、坑道から流れ来る水は瞬く間に足首を越していた。羽虫の浮いた水は黒々と波打ち、否応なく嵩を増していく。河の水だと思っていたが、当たりには濃い潮の香りが充満し始めていた。河口付近であるため海水も流入しているのかもしれない。
 水を避けようと飛び始めた黒い大群を手で払いのけながら、スモールタウンもメッディの後を追う。
 交わす言葉すらなく蟲に埋め尽くされた黒い階段を必死に駆け上がっていく。背後からは地響きを伴ってひたひたと水面が迫り上がってくるのがわかる。
 ジジジと断末魔の音が聞こえ、背後の蛍光灯が次々と消灯していた。
 どのくらい走ったか、目前を走るメッディの姿が明るい場所へ飛び出して静止し、思わずその背中へぶつかりそうになって彼も足を止める。
「なに、どうした……」
 口を開き掛けたスモールタウンが目を見張り、息をのんだ。
 そこは地下鉄の駅でも換気塔の出入り口でもなかった。
 ビュ……と湿った風が彼らの髪を嬲り、メッディのお下げ髪を忙しなく揺らしている。
 外に出たのだ──と自覚すると同時に、彼は辺りをぐるりと見回していた。
 そこは大きな吊り橋の上。自分たちが昇ってきたのは橋を支える橋脚部分だったらしい。猊下には巨大な運河が渦を巻くように流れ、すぐ側の海は遙か水平線の彼方で白く滲んで消えていた。
 ブルックリン橋に似たこのセラにおける観光スポットは、荒ぶる水流に耐えその身を震わせている。しかし土台部分が水没し始めたこの状況では長くは持たないだろう事は明らかだ。
「あれ、なに」
 短い言葉が眼前の相棒から漏れた。
 言われて彼女の身体の向こう側に隠れていた『ソレ』を、ようやく視界に入れる。
 橋の先が白く光っていた。
 向こう岸──リアルならばマンハッタン島に到達するはずの橋の先に、すでに陸地はない。いや、あるのかもしれないが、輝きが強すぎてそちらを正視することができないのだ。
 その光に滲むように、四人の人間と一人の男が対峙している。
 こちらを向いているのは恐らく、女だ。露出の高いドレスと肩口で切りそろえられた美しい黒髪を風に遊ばせ、背後の人間を庇うように立ち尽くしている。
 彼女の後ろには何やら棺のようなものを抱えた男が三名、彫像のように動かず静止していた。
 こちらに背を向けて立つ男は黒い髪と黒いコートを靡かせて、一歩ずつ女達へ近づいていく。その手に構えられているのは白銀に光る日本刀だ。
 ゴミのように舞い散る雪が、その切っ先に触れては消えていく。
「トビー!」
 スモールタウンはすぐそばで唸りを上げている大事なファミリアの姿を見つけ、声を掛けた。
 勇ましく唸ってはいるが、彼の耳は若干下がり、しっぽも後ろ足の間へ丸まってしまっている。
 主人の声を聞きつけ、オオカミ犬はホッとしたように彼の足下へ寄り添った。
「やだ、あれ、さっき見たイケメンニューヨーカーじゃない……」
 呟いたメッディは辺りをキョロキョロ眺めると、自分たちが飛び出してきた橋脚のタワー部分へ身を寄せ、今更ながらに隠れていた。
 彼との距離はほんの二十メートルほどであり、あまり意味のある行為には思えなかったが、スモールタウンもそしてトビーもそれに習って石造りのタワーの影に身を潜める。
「これ、いくらなんでも当たりでしょ。早く本部に連絡とってよ」
「……うん、そう思ってさっきからレシーバーのスイッチ入れてるんだけど……、ノイズが酷くて全く繋がらないんだ。トビーにエントランスまで走ってもらってSOSを知らせようか」
「走るって今から? ジェット噴射とかで飛べないの?」
「無理だよ、犬だよ!? 無茶苦茶言わないでくれ。それでも僕らが移動するより格段に早い」
 スモールタウンはトビーの耳元で指示を出すと、トビーは任せろと言わんばかりに鼻を鳴らし、橋を逆方向へ走り出していた。
「この状況で、走るしかないとか……。せめて鳩とか出せないわけ?」
 声を潜めて不服を唱えるメッディは、文句を言いつつも状況を探ろうと聞き耳を立てているようだ。
 彼らにとって幸運なことはただ一つ。対峙している女も、そして背を向けている男も、こちらを気にするそぶりが一切無いことだった。
 トビーがあれだけ吠えていたのだ。気づいていないわけではないだろうが、女も男も、スモールタウン達の存在をその辺の蟲と同じ程度にしか考えていないのかもしれない。
 それが即座に理解できてしまうほど、目の前の人間達は圧倒的な存在感で空気を張り詰めさせている。

「ここから先へは行かせられない。お前の相手は私だ」

 女のセクシーなアルトボイスが風に乗って聞こえてくる。それだけでスモールタウンの背筋がぞくりと総毛立った。
 耳朶から染み込む彼女の声は濡れた紫で脳内をじわじわと浸蝕し、震える溜息が彼の唇を突いてこぼれ落ちる。
 すぐ横でメッディも身を震わせ、そばかすの散った頬を薔薇色に紅潮させていた。
「まずい、わね。あれ、ヴンヨ使いでしょ? しかも相当のランクがあるわよ」
「流れ弾でも当たったら身動き取れなくなるよ。とりあえずイヤーマフだけでもしよう」
「あんなレベルじゃ効果あるとは思えないし、私はやめとく。それよか話聞きたい」
「えぇっ!?……無理にとは言わないけど、動けなくなったら置いてくよ?」
 助けを呼んだ今になって情報収集が何の役に立つのかと唇を尖らせ、スモールタウンは支給された折りたたみ式イヤーマフをベルトから引き抜くと装着する。確かに音は聞こえづらくなるが、それでも精神系ソムニア能力に対しては格段に防御力が上がるのだ。とにかく今は自分たちの安全を第一に考えるべきだ。
 メッディの噂話好きも時と場合を選ぶべきだとスモールタウンは眉を寄せた。
 そこから先は彼らの話し声は一切聞こえない。
 だが、傍らのメッディの声だけは近いためどうにか聞き取れる。
 女が何か言葉を発し腕を振れば、淡い紫の光が舞い飛び、男が刀を一閃すればそれらが全て白く凍り付いて霧散する。
 この冷気はセラの天候などではなく、眼前の男からもたらされているのではないかと疑うほどに、その威力は絶大だった。
「あー、そっか、あの後ろの男達、凍っててもう死んでるわ多分」
 メッディの呟きが聞こえ、スモールタウンも納得する。
 棺を抱えた男達が彫像のように動かないのはまさに凍り付き、石膏像の如く固まってしまっているからに違いない。
 あの棺の中には何が入っているのだろうか。
 女の様子を見れば、棺の中身を男へは手渡したくないようだ。
 次々と繰り出される女の攻撃は、氷の刃に射落とされ、その距離は徐々に詰められていく。
 傍らのメッディは酷く興奮したように呼吸を荒げながらも、彼らの動きから目を離したりしない。
 宙を舞った男が女の攻撃をかわし、くるりと身を回転させた。
 それだけの動きで、放たれた冷気が女の左腕を直撃する。
 男の流れる黒髪の奥に琥珀色の瞳が光り、スモールタウンは思わず息をのんだ。
 狼のような瞳に、ヴンヨに当てられかけた身体も凍り付きそうだと思った。
「ほら、やっぱり超かっこいいじゃん、私の目に狂いはなかった……。けど、誰だっけ、知ってる気がするんだけど、あんなイケメン忘れるはずないのに」
 ぶつぶつと呟くメッディはますます身を乗り出し、もはやタワーからほぼ身体をさらけ出してしまっている。
 集中するあまり本人は気づいていないようだが、相当ヴンヨの流れ弾に当たっているに違いない。
「メッディ、しっかりしろ、駄目だって!」
 スモールタウンは必死に彼女の腕を引っ張ると、これ以上ふらふら前に出て行かないように、しっかりとしがみついた。
 男が女に迫る。女が残った右手を胸元に入れ、不意に何やら動かした。
 その瞬間。
 女の背後で業炎が上がる。
 吊り橋のアーチをも超える火柱が、棺の中から上がっていたのだ。
 棺を抱えていた男達も瞬時に燃え落ち、木製の橋のプレートまでも焼いて、炎に巻かれたその棺はぐらりと下へ落ちていく。

「…………っ!」

 男が何か叫んだ。
 瞬間、女の身体が弾け飛ぶ。
 男の放つ凍気に耐えきれず、朱の欠片となって飛び散ったのだ。
「シュウジ? 誰?」
 男が叫んだであろう名前をメッディが代弁し、首をひねる。
 その名を聞き取り、スモールタウンは目を見開いた。
 確かその名は探索リストに載っていたコモンズの名だ。
 環流の守護者に勧誘され洗脳された128名のコモンズの一覧にあった、どうと言うことのない日本人名だが、相手がコモンズと言うことで殺さず連れ帰るように指令が下っている。
 そんなたかが一般人の名をどうしてこんな場所で聞くのだろうか。
 あの棺の中に入っていたとでも言うのだろうか。
 女の姿が消え、スモールタウンはようやくイヤーマフをはずすと状況を確認すべく身を乗り出す。
 男から氷の柱が地を這い、炎ごと凍らせて抜け落ちた穴を塞いでいく。
 棺はうねる運河へ落ちる寸前で停止し、白く凍り付いたまま光っていた。
 男が身を躍らせそれを回収する様を、メッディもスモールタウンもただ眺めるしかない。
 トビーが戻るまでここで男の行動を張るべきか、それとも引き返すべきか──ぼんやりとしたまま考えられないのは、イヤーマフをしていても女のヴンヨに当てられていたせいであったとスモールタウンが気づくのは、このセラから救出され丸一日経ってからのことだった。