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 中空へと固定された白い棺の角へ、男が右掌を添えると五指に準じた穴が穿たれる。重さにして300sを優に超えそうなそれは、そのまま右手の握力だけで掴み上げられ、膂力をもって橋上まで引き上げられていた。
 雪の積もる木製の路面で、棺は銀空を反射し輝いている。素材が何であるのかは定かではないが、あれだけの業炎を発し焦げ付きすら見られないそれは、その重みと風合いから陶器か何かで出来ているように見て取れた。

『シド! 修司さんは!?』

 左耳に装着されたイヤホンから秋人の切羽詰まった声が鼓膜を震わせる。
 その質問に答えようと開きかけた薄い唇が再び引き結ばれ、凍り付いた棺の側面に刀の切っ先を差し込み下方へ力を掛ける。
 氷の割れる心地の良い音と共に、氷結癒着した蓋が開き僅かな隙間を作っていた。
 棺自体に焼けこげは見えないがしかしそれを抱えていた人間二人が発火し、箱の周囲に巡らされていた固定用のロープが瞬時に延焼したことから、棺そのものが超高熱を発していたであろう事は容易に推測できる。中に入っていた人間が無事だとは到底思えなかった。

 シドの手に入れたリストの中から秋人が目星を付けたセラの内、7カ所目でついに彼らはテーヴェが潜伏するアジテーティングポイントと思われる場所へたどり着いた。リストへ挙げられていたセラの数が参考ポイントも含め100近く在ったことを鑑みれば、決して悪くはない確率だったとは思う。
 しかしシドがここへ到着し彼らの背後を取ったと思った時には既に、テーヴェは姿を消していた。
 しかもセラエントランスから正規の浮上ではない。
 崩壊中であるセラの中心部に空いた巨大な綻び──そこに異質なゲートが開き、テーヴェはそこへ身を投じたと思われる。
 思われる──というのは、シドが彼女へ追いすがったと思った時にはもう、彼女は光の中へ姿を消した後だったためだ。
 それはほんの数秒の差だったのだろう。現に、彼女と共にこの場を去ろうとしていた彼女の腹心と、彼女が如何にしても持ち去りたかった“何か”は未だこの場にあったのだから。
 その“何か”は光沢のある純白の箱へ収められ、二人の男に抱えられ運ばれていた。
 そして今、シドの眼下にある純白の棺の蓋は外されようとしている。
 彼らに「IICRに奪われるのならば焼き尽くしてしまおう」と考えさせた何か──それは、恐らく。

「…………っ」

 中から現れたものは赤黒い煤と肉の塊。
 全身を強ばらせ手足を丸め、胎児のように丸くなったそれはずいぶん小さく見えたが、恐らく元の背丈は170センチ代後半はあろう成人男性のものだ。
 修司。と声にならない声でシドの薄い唇が動いた。
 形を保っているのが奇跡だとでもいいたくなるほど彼は損壊していた。
 弟と仲睦まじく笑い合っていたその姿が脳裏へよぎり、唇を噛み締める。
 既に何者かも判別できない無残な姿を瞬きもせず見下ろした琥珀の瞳に、だが、有り得ないものが映し出されたのは次の瞬間だった。
 焼けて貼り付いた“目蓋だったであろう部分”に煤を割って切れ込みが走り、赤く開いた肌の下、ぎょろりと黒い眼球が動く。
 熱傷による皮膚の萎縮による現象ではない。なぜならその眼球には明らかな命の火が灯って見えたのだから。

「そこの男。両手を地に着き一歩も動くなっ! 棺の中のものをこちらへ引き渡してもらおう!」

 背後から大勢の靴音を従え、大音量のハンディスピーカーをがならせて、何者かが橋上へ駆け込んできたのがわかった。
 先ほどからうろちょろしていたガキどもが応援を呼んだのだろうと、シドはすぐに理解した。知った顔ではなかったが、物々しい意匠の施された軍服に身を包んでいる所を見れば武力局でも将校クラスに違いない。
 ガチャリと物騒な音を立て二十を超える銃口が一斉にこちらへ向けられる。
 シドはそちらを視線の端に映しただけで、棺の内側に腕を差し込むと、黒い肉界を躊躇無く肩に担ぎ上げる。
 触れた先からぼろぼろと焦げた欠片が舞い落ち、積もり始めた雪の上に点々と染みを作った。

「貴様、何者だ! 動くなと言っている! すぐにその遺体を引き渡せ!」

 入獄の際、最も目立つ髪色を秋人の言で黒く変えたことは一定の目眩ましにはなったようだ。
 威嚇の弾丸が数発足下に撃ち込まれ、砕けた床版が木くずを巻き上げる。
 だがその時には既に黒のトレンチコートは空を舞い、背中から、緩やかなカーブを描いて橋下へと落ちていく最中であった。
 その行く先はセラ崩壊の嵐に荒れ狂う河口。
 銀空から無数にひらめき散る雪の中、灰色の波頭へ吸い込まれるシドの黒髪が棚引いていた。
 橋上からは驚愕のざわめきと怒号。そして的外れに撃ち込まれる銃の音がやかましく乱れ飛んでいたが、それも一息後には掻き消える。
 シドの耳は風切り音と頭下の波音を拾った後、着水の衝撃で全てを塞がれていた。
 表層をうねる波に運ばれぬよう一旦深くまで潜水し、闇に呑まれた水底に足を着くと、強靱な脚力を持って急浮上を掛ける。
 水圧に耐えきれず、ついに肩上に担いだ彼の足がボロリともげて吹き飛んでいくのが見て取れた。だがシドは構わず水塊を掻き分け白く浮かんで見える水面を目指す。
 次の瞬間──淡い輝きが肩上で弾けた。
『シド、どうなってる!? 状況を説明しろよ! 修司さんは無事なんだよな!?』
 耳元で秋人が何度も問いかけてくるが、水中を進む今は答える術がない。
 だが、シドは現在の自体を既に正確に把握しつつあった。
 IICRへ拐かされたと思しき成坂修司を救出するため、あらゆる命令を無視し独自ルートで割り出したセラは大当たりであり、だが救うはずであった修司を救うことは叶わず、そして──。
 水面へ浮上したシドの肩口で激しく咳き込む男の声がした。

「無茶苦茶だぜエドワーズ……」

 弱々しく抗議するその声は、数ヶ月前、日本の高校へ潜入捜査をした際に使用したシドの偽名を呼んでいた。
 今では先ほどまでの悲痛な姿など幻であったかのように、白く健康的な肌に戻っている。

「無茶はおまえだ。どうせ昏睡させられていたのだろう。それでよくも短時遡航が使えたものだ」
「ヤバイと思って眠らされる前タイマー掛けたからな。あの棺桶の中、意識消える仕掛けになってるってわかってたし、10分置きに契約結ぶように宣言しといたんだ。っつってもあとどんだけ力が残ってるかわかんなかったし、完全に肉体死んでからじゃ効果ないしで賭けではあったんだが……。燃えてる最中再生させられたときはマジ終わったと思った。けど、まぁ、助かったぜ。礼は言っとく」
「おまえを助けに来たわけではないんだが──もう一度潜る。しっかり息を溜めておけ」
「へぁ!?」

 ずぶ濡れで情けなく垂れた癖毛が再び極寒の水面に沈み、荒れ狂う海を猛スピードで運ばれる。
 頭上からはライフル弾の流星がいくつもいくつも降り注いでいた。
 数分後、コンクリートで固められた岸壁に口を開いたトンネルへ、二人は上陸を果たすこととなった。 このセラは地下トンネルが縦横無尽に張り巡らされており、来るときも大いにその迷宮ぶりを利用させてもらった。ここもその一画である。
 シドの横で四つん這いのまま咳き込む彼へ、シドは羽織っていた黒のトレンチを投げかける。
「久我。何故お前がここに居る。成坂修司はどこだ」
 着ていた衣類は全て燃え尽くしてしまったため素っ裸で震える久我は、掛けられたびしょ濡れのコートに眉をひそめつつも、何度か振って水を切りそれを着込むと、少し考えたように間を置き静かに首を振った。
「成坂修司……。成坂の兄ちゃんだよな。……その人も捕まったのか? あいつが──テーヴェが兄ちゃん欲しがってたのは知ってるが、俺は見てない」
「お前はどのくらいテーヴェの元へ居たんだ」
「捕まったのは多分11月17か18日辺りだったはずだが、今が何年の何月何日かもわからねぇ。セラなんだかリアルなんだかもわかんねぇ場所をふらふらさせられて、ほぼほぼ眠らされてたんだ。なんかのチェックの為にたまに起こされるだけで、あいつんとこに居たのが長かったのか短かったのか──感覚的にもピンとこねぇ」
「今日は一月四日だ」
『久我くん!? なんで彼がそこに!? 修司さんは!?』
 耳元から聞こえる立て続けの質問へ、
「後で教えてやる。今はバックドアへのナビが優先だ」
 すげなくシドは斬って捨て、秋人はブーイングを表明しながらも、彼のリクエスト通り的確に進むべき方角を指示し始める。
「……年、明けてたんだな」
 うつむきながら歩き出した久我の足取りは覚束ない。
 11月半ばからの監禁となれば今日まで、現実時間で一月半近く経過していることになる。ましてやセラ時間ともなれば3年半以上、拘束期間が続いたはずだ。
 その間ずっと眠らされるかそれに近い処置を行われていたのだとすれば、肉体側の筋肉はかなりのレベルで落ちているに違いない。
 こうしてどうにかシドの後をついて歩けるのはここがセラであり彼がソムニアであるお陰でしかなく、現実に戻ればしばらくはリハビリ生活が待っているだろう。
「成坂の兄ちゃんがあいつに捕まったんだとしたら、俺のせいだ。俺が成坂を裏切ったから……」
 とぼとぼと歩きながら紡ぎ出される声は痛惜に震え、最後の方は聞き取れないまでにか細くなっていく。
「何があった。わかるように話せ」
「俺には見えた、から。テーヴェの言う、虹も月も、太陽も……全部。俺が、テーヴェの羽根に必要なもの、情報も、力も、全部渡してしまった。成坂にもらった血、あいつに抜かれて……、そんで……、生樹を……新世界、を……テーヴェが……」
 シドの質問に答えているようで答え切れていない久我の呟きは、最早独り言でしかなかった。
 一時のショックで覚醒していたものが、極度のアルマ消耗により再び意識混濁に向かいつつあるのかもしれない。
 だがその中に聞き捨てならない情報が一つ、紛れ込んでいた。
 シドはその単語を聞いた瞬間、背筋にぞくりと冷たい氷柱が突き立つのを感じた。
「羽根……。テーヴェの羽根、だと?」
 立ち止まって振り返り、久我の肩を強く掴む。
 朦朧としていた久我はその痛みで一瞬顔をしかめると、わずかばかり理性を取り戻しシドの顔を見た。
「あの女になぜ羽根など生えている。やつも同じ病だとでもいうのか」
「病気……って感じはなかったな。何せもともと片方にしか生えてなかった羽根を、両方そろえたがってたからよ。 俺から取った成坂の血で、左右、揃ったのは、確かだ。テーヴェは契約の端子って呼んでた。偏ったビアンコには任せられないとか、これで新世界を作るとか……、サイコなこと、抜かしてて……」
「契約……、新世界……」
 久我から吐き出されるいくつかの単語がシドの記憶と噛み合い、合致し、一枚の絵として仕上がっていく。
 宗師・秀綱の欲しがったもの──この世の枠組みを知ること。異神との融合。看過できなくなったこの世の転生障害。
 テーヴェもIICRも修司を手に入れようとし、久我はテーヴェに監禁されていた。どちらも亮と縁の深い人間だ。
 そして何より突然亮の背に現れた巨大な炎翼。
 あらゆるものが亮を中心に動いているとしか思えなかった。
 テーヴェの背に現れたという羽根とは、亮と同じ炎翼だったのではないのか。
 だとすれば、IICRが。否、ビアンコが亮の羽根の正体に気づいていないわけはない。
「アレの羽根を除去するなど、最初からするつもりはなかったということか……。ビアンコも……」
 有伶も。
 正体不明の症状に全力で取り組んでくれていると信じていた旧知の人間は、友などではなかった。
 亮の痛みも苦しみも目の当たりにしながら、葛藤有伶は研究局の長として亮を利用することを考えていたということだ。
「おい、エドワーズ。大丈夫か?」
 時でも止まったように動きを止め、凍てつく視線を強くするシドに対し、瀕死の久我が戸惑ったように声を掛ける。
 だがそれにシドは応えることなく駆けだしていた。
「ここから出るならついてこい」
 その一言が最低限の彼の思いやりだったらしい。と同時に、ここからアルマ脱出を手伝いはするが、そこから先は知らないという宣言でもある。
 ふらつく足の久我は、疾風の如く闇を駆けるシドの後ろ姿を追うのが精一杯だ。
『シド、なに、どうしたんだ!? 状況の説明を求める!』
「あの炎翼は病ではない。……必然だった」
『……は!? なに言って、亮くんの羽根のこと!? あれは現在治療中で』
「亮を奪い返す」
 自己完結に近い呟きに、秋人はさらに質問を繰り出そうとするが、ブツリと無粋な音を響かせて通信を解除する。
 シドは予定通りのコースを駆け抜け、既に廃墟と化している地下鉄の駅改札に仕込まれたバックドアへ飛びこんでいた。
 少し遅れて久我もそれに続く。
 シドの姿がリアルのIICR本部へ現れるのは、それから約13分後のことであった。