■ 5-58 ■





 実際はほんの数分の出来事だったのだろうと思う。否、時間という概念もなく一足飛びだった可能性すらある。
 だがその体感は恐ろしく間延びし、数十分にも数時間にも感じられた。

 最後に見た光景はヴィーナスダイスの灼熱に燃え盛る金色の大地と、金色の大気の中をエントランスに向け駆け戻るローバーの上げる砂煙だった。
 小さな車影が指先ほどの黒点に変わる頃、「歯ぁ食いしばってろよ」という呟きが密着した背中から振動として響く。
 背中合わせで立つ昔なじみの性格破綻者が、左手に嵌めたリングへ瓶の中から滴り落ちる黒い炎を受け止めたその時。世界はジグソーパズルのピースが欠け落ちていくかの如くばらばらと崩れ去り、暗闇の中砂塵にも似た光点が無作為に身体を突き抜けていくヴィジョンに見舞われた。
 穿たれた無数の穴から己の内側が漏れ出て行く感覚は、吐いた息が霧散するかのように、ぞっとするほど速やかで無痛だった。
 しかし次の瞬間一気に身体が重くなる。
 腹の中央、左頬、右大腿部、右掌小指側──それらを皮切りに、次々と身体を構成するパーツが熱を持ち全身に広がっていく。
 足はすでに大地を踏みしめてはいなかった。暗闇に光点という概念だけが存在する寄る辺ない空間に投げ出され、ずっしりと重い身体は無数の穴から裏返されたり戻されたり、忙しなく構成を変える。全身をシェイクされ攪拌され、脳の神経細胞が腸の中で繁殖していくような──痛みではない猛悪な悪心が身体を雑巾のように引き絞り、声なき叫びを漏らす。

 そして放り出された世界は、青と緑が渦を巻き、倒れ伏した腕に大地と草の冷えた感触だけが確かに生じた。
 腹の奥から熱いものが込み上げ、激しく嘔吐する。そうしてみると、腕を着いたこちらが地面ということなのだ。
 廻り続ける世界をどうにか止めようと頭を振り、膝に力を入れて立ち上がろうと試みる。が、己の腰に結わえられたベルトが隣の重りにより引かれ、思うように動けない。
 ベルトをはずす──という当たり前の行為が今のシドには不可能だった。視界が定まらず手先がぶれ、二度、三度と嘔吐を繰り返す。
 しかしここでうずくまっている時間はない。
 ベルトに添えた手から強烈な冷気を迸らせ、あっという間にそれを粉砕すると、無理矢理身を起こす。
 ふらつく足に力を加え、二歩、三歩と進んだところで、再び腹の奥から熱い塊が込み上がり、膝に手を突くと胃の腑が裏返るほどに吐瀉していた。
 毛足の長い草地にどす黒い赤が咲く。
 僅かばかりの胃液に混ざって大量の血が薄汚く大地を汚していた。
 アクシスを使い肉体ごと上がると、ソムニアは酷い酔いに見舞われると聞いてはいたが、これは酔いというより実質的に内臓のどこかへダメージを受けているのだと悟る。

「おま……、無理だ、ろ……、っ、……落ち着くまで……、待て。……生身で樹根核へ、肉体ごと打ち上げた、んだ。マジで、死ぬよ?」

 背後から嘔吐の合間に吐き出される掠れ声が呼び止め、シドの足を掴む。
 どうやら二、三歩進んだと思った歩みは全くといって良いほど距離を稼げていなかったらしい。
 背後を振り返りその手をはずすべく指を掛ければ、それだけで白い指先は力なく地面に落とされた。
 見れば、いつもいけ好かない笑みを浮かべているローチの顔は苦悶に歪められ、白い面は色をなくしている。
 膝をつき、喘ぐように嘔吐した後、顔を上げたローチは口元を手の甲で拭い、そこについた血痕を確認して片眉を引き上げた。
 いつもならここでくだらない軽口の一つも叩いているのだろうが、今の彼にはその余裕もないらしい。

「帰還……ポイントは、ここで、いいのか」

 己が吐血したという事実に顔をしかめるローチへ、シドは必要事項の確認をする。
 亮を奪還した後の退路をどうするか──。絶対的に必要なはずのその点すら確かめないで突き進もうとした自分ののぼせ上がった思考回路に、改めて冷静になるべく大きく肺から熱を吐き出す。
「ああ。……ここを、封鎖されたら……、実質、手詰まり、になる。見つかる、前に……戻れ、よ」
 ヴィーナスダイスで落ち合ったとき、この男が解説した樹根核への侵入条件を思い出してみれば当然の解答だった。現在彼らはゲートリングを利用し、IICRが設定したこの世界のエントランスを間借りして無理矢理入り込んでいる状況になる。彼らの技術・身体的耐久力の両面からそれ以外の方法はなかったわけだが、その分、セキュリティに引っかかり発見されるリスクは高い。
「時間は」
「リングの冷却に、最低3時間……っ、ぅぉぇっ……、っ、ふ……、それまで、は、どこへも逃げられない。……っ、けど、冷却完了、したら、すぐにここを出る。3時間後に、このゲロ跡に、集合。今、16時52分、だから……、19時52分には、出る」
「わかった。3、時間だな」
 懐に入れられた携帯電話を確認する。
 何重にも見える数字を強引に網膜に固定した結果、ローチの持つ懐中時計と現在の時刻は一致していた。
 秋人特製の小型端末はあの空間転移の荒波にも負けず、見事に機能しているようだ。
「有伶が……、ここ、仕切ってんでしょ? ……3時間見つからない、自信が持てないなぁ」
 ひとしきり嘔吐を終えたローチは震えるように息を吸うと、珍しく弱気な発言をし仰向けに草の上へ転がる。吹き抜ける風が纏った白いトガの裾と、プラチナブロンドの髪をザワザワと揺すっていた。
 天へ伸びる石柱の長い影が、黒く、二人の上に差し掛かる。
「とりあえ、ず、お道具、使って隠れてる、から……っ、……。戻ったら、呼んでくれ」
「わかった」
「3時間しか、待たない、からな。おまえが、呼んで出ない時は、もう、僕は、自宅で……風呂に、入ってる」

 うなずくとシドは再び立ち上がる。
 最初の数歩はふらつくように。しかしその後は確かな足取りで駆け出していく。
 ごろりと寝返りを打ったローチはその背中を見送りながら、呆れるね──と声も無く呟いた。
 ──ここから先、どうやってあの子を取り戻すつもりなのか。勝算ゼロのこのモチベでよく走れる。
 そこまで考え自嘲気味に笑う。
 そんなあいつによく自分も付き合うものだと思ったからだ。
 シドと共に捕まれば蒸散刑。ストーンコールドの頭だと知れればそれに拷問のおまけが付く。生身で樹根核往復という頭のおかしい所業で道中に寂静という可能性も高確率だ。
 ──そうは言ってもすかした顔が人間並みに歪むのは何度見ても面白いんだよなぁ。
 悪い癖だとはわかっているが、彼は楽しいことに逆らえない。厄介な性だがヴンヨの自分が快楽と幸福を求めずして何とする、とも思う。あり得ない物をこの目で見て感じる行為はローチの生きる証だ。
 そう考えると趣味で付き合う自分は酔狂ではあるが、狂人ではない。非業の最期を遂げたとしても、それは自業自得だと笑って逝ける自信はある。起こる事象を理解して、その全てを愛でているのだから。

「戻って来いよ」

 遠ざかっていく背を眺めながら呟いたローチは少しばかり目を閉じ、そうじゃなきゃつまらない──と続けた。
 


 ぐらぐらと揺れる廊下を駆け抜けていく。
 身体は泥のように重く、数歩進むごとに込み上げる悪心に歯を食いしばる。
 樹根核観測基地と銘打たれたその建物の外観は、煉瓦造りのどこにでもある古い役所のようであり、硝子張りの正面玄関以外にいくつも侵入経路が存在していた。
 シドが選んだのは右舷の裏手に位置する小さなガレージだった。
 環状列石と行き来するだけであろう小型のピックアップトラックとバンが止められたそこは薄暗く、乱雑に積まれたメンテナンス機材もしばらく使用された形跡がない。
 見上げれば天井近くの一画に監視カメラが起動しているのがわかる。出入り口付近を狙うそれの死角へ潜り込みながら、様子を伺う。
 ほんの数分呼吸を置くが想定通りセキュリティが動く気配はない。樹根核に在籍する所員の人数を鑑みるに、おそらく人の力で建物内全てを監視することは出来ていないに違いない。
 あの有伶が仕切っている場所であるが故に、オートで何らかのプログラムが走っている可能性も否定は出来ないが、アクシスを使用しなければ来ることの出来ないこの施設内において、内部のセキュリティはそれほど重要視されていないことにシドは賭けた。
 潜入任務をこれまで何百、何千回とこなしてきたが、現在の決して万全とは言えない体調をも考慮して、どこかに隙を見つけねばこの建物の攻略は不可能だ。
 そして一番の問題は亮の居場所と現在の状態の二点について、何の情報も得られていないということだ。
 ともすれば朦朧とする意識をこじ開け、PROC任務中脳内に叩き込んでおいたこの施設の見取り図を思い起こす。
 秋人のサポートがないこの状況で、唯一シドが得ているのは、諜報局時代に得たこの建物の簡単な施工計画書のみである。
 それはここを造り上げた構築局建設課から掘り起こした古いものであり、増改築を繰り返しているであろう現状とはかなり構成が変わっているに違いないが、それでもこれを元に目標地点をいくつか巡るしか方法は無い。
 エレベーターを避け、階段を使ってまずはゲストルームの置かれているであろう三階を目指す。亮の居室もそこにある可能性が高い。
 そこかしこで赤いランプを灯すカメラの存在を忌々しく思いながら、その死角を考慮したコース取りを意識し、移動する。
 一歩進むごとに体重が倍加していくようだ。全身が砂利の詰まった麻袋のように感じ舌打ちが漏れる。空気を取り込もうと、口中に残る血塊を飲み、途切れる呼吸を無視して一気に駆け上がった。



 時計の針が17時を回る頃。いつも通り夕食の配膳がやってくる。
 それはここに軟禁された7日前から、厳格なまでに変わらぬルーティーンだ。
 テイラーくんがノックをし鍵を開け、ワゴンを押して中へ入ってくる。
 僕はいつもと同じようにそちらを見ることもしないで、ベッドへ座ったまま窓の外を眺めていた。
 偽物の太陽がそれらしい顔をして赤く色づいていくのをぼんやりと見ていたら、不意に名前を呼ばれた。
 僕は弾かれるように声のする方を振り返る。
 だってその声はテイラーくんのものじゃなかったから。
 それどころかこの樹根核に居るはずのない人の声だった。
 振り返った僕の目の前には、予想もしていなかった、いや、ある意味予想通りの人物が居て、僕を見下ろしていた。

「ヴェルミリオ……、なんで」

 どうやってここへやってきたのか、来られるはずのない人の登場に言葉をなくした僕の前で、ヴェルミリオは小脇に抱えたままだったテイラー君の身体をドサリと床へ放り捨てた。
 呼吸をしているようなので生きてはいるみたいだけど、彼の痩せた身体は伐採後の木の枝みたいに床へ伸びている。

「亮はどこに居る」

 吐き出された息に混じるように、ヴェルミリオは言った。
 よく見れば顔色が酷く悪い。呼吸も荒く、時折何かを堪えるように眉がしかめられる。普段は汗一つかかなそうな額から、幾粒もの水滴が滴り落ちていくのを見た。
 この症状には僕にも覚えがある。アクシス酔いだ。……だけど研究局の許可を得てアクシスを使ったなら、テイラーくんが床で伸びている道理がわからない。逆に許可が出なてないのならここにヴェルミリオが居るはずがない。そしてアクシス酔いして立っていられる道理もわからない。
 なにがどうして目の前にイザのクラウンが立っているのかわからないまま、僕は首を横に振った。
「わからないんです。一週間くらい前、亮くんのお父さんが……お父さんだと思うんだけど、やってきて、それで、亮くんがまた暴走して……」
「っ、亮は、秀綱に、連れ去られた……というのか!?」
 ヴェルミリオの声が悲痛に擦れる。
 ヒデツナ──という名に聞き覚えはないが、ヴェルミリオはあの黒ずくめの綺麗な人を知っているようだった。
「それは大丈夫、亮くんはここに居るはずです。その人はいつの間にか消えちゃったし、亮くんも正気に戻りました。ただ……」
 先を促すように刺すような目が僕を睨む。
「あれから僕はこの部屋に軟禁状態で、誰とも面会できずリアルとの交信もさせてもらえません。ウィスタリアやドクターレオンとも会えないし、亮くんの情報は、怪我はたいしたことない、すぐ僕も会える──その一点だけで……」
「亮を連れて行ったのは、ウィスタリア、なんだな?」
「おそらく。居場所はこのフロアじゃないかも……。食事の配給時の感じや周りの音を聞いてみても、この部屋の近くには誰も居ない気がします。三階フロアには反対側にも部屋があるからドクターはそっちに居る可能性もあるけど……、亮くんは焼除治療を行ってた一階の専用処置室にいるんじゃないかな……」
「わかった。鍵は開けて、おく。あとはおまえの、好きにしろ」
 そう言い置いてきびすを返したヴェルミリオに、僕は待ったの声を掛けた。
 ベッドを飛び降りると靴を履き、軽く屈伸をして彼の横へ並び立つ。
「案内しますっ」
「いや、いい。一人の方が、目立たん」
「この建物の間取りも、カメラの位置も、僕は全部把握してます。これでも対策部でやらしてもらってるんで、足手まといにはなりません」
 見上げた僕を見返す琥珀の眼光は、背筋が凍るほどにざらついていた。間近で見れば、ただでさえ白い肌が青ざめ、髪は伸び、以前と比べそぎ落とされた感のある容貌は、やつれている──というより元が整っているだけに壮絶な凄味を増しているように見える。ここに来てふた月ばかり──。アクシス酔いというより、亮くんと会わなかった時間の結果が今の触れれば切れそうなヴェルミリオなんだろうと、僕は震える喉をゴクリと鳴らした。
「時間がない。三分で目的地に着け」
「っ!?」
 シビアなタイムラインに一瞬目を剥いたが、許しを得た僕は「はいっ」と力強くうなずいてみせ、人気の無い廊下へ駆け出した。



 静かな潜行は一階別棟へと続くゲートをくぐった辺りで終了した。
 道中数名の研究員や補佐達を速やかに排除し、声を上げないようルキの創り出す睡眠効果のある水塊へ沈めてきたが、それももう意味の無い作業だ。
 メインラボへのゲートセキュリティはやはり厳しく、シドらが姿を見せるやいなや屈強な警備の人間が二名飛び出してきたかと思うと、全館に轟くアラートが幾人もの人間を召喚する。
 シドはそれらを足止めするかのように腰に擁する長刀を抜き放ち、一閃──。廊下一面に凍気を放った。
 地を走る竜の如く次々と氷塊が膨れあがり、触れた者たちは一斉に動きを封じられ凍り付いていく。
 一瞬たりとも止まることなくその間を突っ切り、閉ざされたゲートの扉中央へ、光る切っ先を突き立てた。
 シドの纏った黒のコートがイザの巻き起こす風圧で棚引き、周囲がチカチカと激しく瞬き始めていた。
 あまりの冷気に空気が凍り付いている──そう悟ったルキが己を守るために水塊でガードし、そして周囲で足止めされている者たちにも同じように守護するための水塊を放つ。そうしなければこの場に居る人間誰でも等しく、死が訪れることは明白だった。
 力押し──という言葉に相応しいその光景の中心で瞬間無音が広がる。
 何の音もしない世界で、セラミック合金製の扉が美しく放射状にひび割れ、刀の挙動に合わせるように弾け飛んでいく。
 圧倒的に色をなくした絵の中に、パッと赤い色彩が飛んでいた。
 シドの口元から放たれた彼の髪色と同じ赤は、刃を振りきった彼の右手に降りかかり、すぐに淡い雪となって消え去った。
 間延びしたような鈍い音が周囲を振るわせた時にはもう、彼を足止めしていた不埒な扉は消え去り、シドの身体は左手一本で刃を横薙ぎにしながら先へ進んだ後だった。
 シドが駆け込んだ通路には、二体の小さな雪像が彼を伺うように、不思議そうな顔をして佇んでいる。

「っ──」

 侵入に際する凍気に当てられて凍り付いた彼らは、亮と同じ顔で駆け抜けるシドを見送っていた。
 アルマコピー──。その単語が脳裏によぎり、シドは忌々しげに舌打ちをする。
 騒ぎを聞きつけ好奇心をそそられた個体が寄ってきてしまったのだろう。彼らは正しく生物ではないとわかってはいるが、それでも胸の奥に湧き上がる嫌忌は抑えられない。
 研究局が──有伶が。亮のアルマコピーを作っていた事実が、シドの想定した最悪な筋書き是であると裏付ける。
 葛藤有伶は亮を治療すると偽って、実際は研究の対象としてここへ連れ込んだということだ。
 亮と同じ顔をした人形達の間をすり抜け、シドが突き当たりの壁から後の行く先を逡巡したその時だ。
 丸太の如き太さを誇る浅緑の蔓が左側地下への階段から走り来て、爆発するかのように眼前で拡散した。
 シドの身体を貫かんとに襲い来るそれらをイザで迎え撃つが、速度は殺せど完全に停止させるには至らない。
 グラグラする視界を強引に縛り付けシドは敢えてその中心に踏み込むと、ひらりと宙を舞い、重力を借りるように下方を目指す。
 食いしばった歯の隙間から血の滴りがこぼれ落ち、赤い氷粒となって消えていく。
 刃から迸る凍気は周囲の時間をも凍らせ、その隙を縫うようにシドは元凶へ向かった。
 広い空間へ出る刹那、眼下に居たはずの白衣の男は、肩に掛かった癖毛を靡かせて背後へ飛び退る。

「ヴェルミリオ。どうやってここまでやって来た。──非常に興味が湧くな」

 男の言う“ここまで”が施設内を移動した事に対してでなく、どうやって樹根核へやって来たか──その一点に絞られることは明白だった。
 襟元までかっちりとボタンを留めた白衣に、オールバックに流した栗色の髪。相手の細胞の奥まで明かしてしまおうとにらみ据える彼は、シドには初見であるはずだがしかし、どこかで見たようにも思えた。

「亮を……引き取りに来た」

 そこをどけとばかりに踏み込み凍気で薙ぎ払う。
 しかし白衣の男の周囲に渦を巻いて巡る蔓は、見事な緑の防護壁となりシドの凍気で凍り付いてなお、その内側から新たな芽を吹き上げてくる。これだけの能力を駆使するからにはエイヴァーツ種の中に置いても相当の実力者であることは間違いない。
 力の抜けかける四肢に力を入れ、熱い息をゆるりと吐いて体勢を整える。

「ふはは……、重度のアクシス酔いで熱発してるようだな。……いや、アクシスを使わずここに来たのなら正確な名称ではないか。どうやってここへ来たかはわからんが、安いゴンドラでの来訪など、ヒトの身で耐えられることはない。おまえの内臓は無事ではあるまい」
「……どうかな。俺は、……秀綱の弟子だ。宗師が道を開いてくれれば、樹根核といえど、セラとさして変わらない」

 シドの言葉に男の視線が剣を増す。
 ルキによる“秀綱が亮を奪いに来た”という情報は正しかったようだった。
 そして案の定、彼ら研究局員は秀綱の侵入経路と方法を、今を持っても確実に把握していないことがわかる。
 シドがエントランスを間借りし、ゴンドラどころか生身というギリギリの方法でもってここへやって来たことだけは知らせるわけには行かない。退路の確保は最重要項目であるといえる。

「ヴェルミリオ。貴様……、あの男の手駒として亮を奪いに来たというのか」

 問われてシドは答えない。
 だがその無言を肯定と捕らえ、男は先を続ける。

「……はっ。なるほど、理解した。貴様は残酷なる新世界を望む者だということなのだな。全てのアルマがリセットされる大破壊を──。己のアルマも消え去るというのに、酔狂なことだ。……いや。あの秀綱の身内となれば、新世界であろうとも己を保存する策はあるということか」

 男の言う単語一つ一つが理解しがたいものであったが、シドは荒い呼吸のまま沈黙を貫いた。

「何をもって新世界の枠組みから外れることができる。それが確約されたという証はあるのか? 亮の中のミトラが新たな生樹を創造し得れば、今ある生樹は全て無に帰し、全てを失くしてゼロから再び進化を重ねる他ないのだぞ。──我らIICRの生み出したオルタナを使えば、現生樹を再利用し、幾星霜使うことができる。それどころか、生樹そのものの管理すら可能になる。ソムニアが正しく世界を導くことができるようになるのだ」

「知ったことかっ」

 男の言葉を打ち切ってシドは一気に間を詰め、刃を打ち下ろす。
 その風檄に新たに芽吹いた蔓たちは凍り付き、その欠片が男の手足を切りつけ血しぶきが舞った。
 奥歯を噛みしめた男はその凍風に前面を白く色づけされながら、凄まじい勢いで数メートルも後方へ押しやられ、溜まらず自ら身を翻した。
 後を追うシドは薄暗い小部屋から黄金の間接照明の灯るホールのような場所へ躍り出る。
 天井は国立の体育館ほどの高さはあるだろうか。しかし広さはさほどでもない。
 目立つものと言えば奥の岩肌に沿うように作られた銀に輝く観測台と、直径50メートルほどの金に輝く水溜まりだけだ。
 明るいと感じたのは照明ではなく、そのプールが放つ光によるものらしい。
 それを取り囲むように据え付けられた無骨な重機が、黄金の光に照らされてギラギラと輝いて見えた。
 火口のような強烈な熱気が周囲を漂い、シドの全身から汗が急激に吹き上がる。

「今さら何しに来たんだよ、あんたは」

 俯いていた男が顔を上げる。
 煩わしげに髪を掻き乱し、顔に走った傷から滴る血を袖で拭くその顔は、眼鏡こそかけていないがシドの良く知る旧知の男のもので──彼が喋るのに合わせて、小指の先ほどの芽が彼についた傷口に次々と吹き、瞬く間に小さな赤い花を咲かせると瞬時に散って枯れていく。
 それだけで彼の全身からあらゆる傷が消え去り、男は気だるげに全身の枯れ葉を払うとポケットから取り出した丸眼鏡を掛けた。

「っ……有伶──」
「研究局やヴァーテクスの押しつける仕事なんかより、亮くんの方が大事じゃなかったのか? 何真面目に働いてんだよ」
「俺は、俺が亮に出来る最善を尽くしたまでだ。あれに必要なものがあれば、何を……どうしても取りに行く。──結果、まんまと貴様に騙されたようだがな」
「PROCの仕事はあんたじゃなきゃ無理で、亮くんのケアは他の誰かに任せておけばいいって? ──逆だよ。全部逆だ」

 有伶の眠たげな目が眼鏡の奥から淡々とシドを見ている。
 何の感情も浮かんでいないそれはシドの知る彼のものではなく、ヒトではない別の何かのようだった。

「たとえレドグレイが何を言おうとも、スルト統括が無理難題押しつけようとも、あんたはそれをうまくかいくぐってここに来ることはできたはずだ。僕はそれを期待した。だから何度もあんたに声を掛けたのに」
「亮を薄気味悪い施設で……っ、実験道具に仕立てた男の言い草とは思えない、な。亮を連れ出す協力をしてくれるとでも、言うのか」

 話しかけながらも周囲に視線を走らせる。
 ここがメインラボだというなら、このどこかに亮が居るはずだと気ばかりが急く。

「まさか。それも逆だ。あんたが亮くんと一緒に1000年、ここで暮らすのさ。あの子のヒトとしての自我をつなぎ止める役は、シドさん。あんたしかいないと僕は思ってたよ。その点、上の連中の考えと違ってたから、僕も思うようには動けなかったけどね。レドグレイもビアンコも──、あんたはあくまでも危険分子で、亮くんの守護者は別の人間を考えてたようだから」
「守護者、だと?」
「ティファレトでたった一人過ごすなんて、今の亮くんには無茶な話だからね。それを護る人間が必要だ。亮くんのアルマは崩れかけてる。今はこの泉の力とクラウドリングの効果で少し持ち直してはいるけど──。ここから連れ出せば、程なく時間の波に削られて消えてしまうだろう。元々、既に亮くんのアルマは消えていて然るべきタームに突入してるんだから。……秀綱の弟子であるあんたなら、彼が何をしようとしていたのか、亮くんがなぜ生まれたのか、見当がつくはずだよ」

 秀綱の名がここでも囁かれ、喉の奥から呻きが漏れた。
 考えぬいた推論の内、最もはずれて欲しい残酷な道筋が有伶の口から語られ続ける。
 もしもこれが事実だというなら、絶望でしかない。

「亮くんの気持ちは幼いが故の気の迷いで、自分は亮くんが手を放すなら、喜んで見送れる──。あんたが時々言っていたあの世迷い言、実行する時が来たんだ。もう、亮くんはあんたを待ってはいない。人間として生まれて、ようやく平安に、幸せに──日々を送ってる。その点で言えばあんたがさっき言った、亮くんの為の最善を尽くした──は、正しかったのかもね」
「──っ、黙れ」
「知ってたでしょ、亮くんがあんたを求めて待ち続けていることを。なのにあんたは逃げた」
「違うっ!」
「相手がビアンコだから? それとも秀綱だから?」

 ギリギリと相手を焼き殺すまでに燃え上がるシドの眼に、有伶は僅かに笑みすら浮かべながら続けた。

「違うね。相手が亮くんだから」

 シドの長刀が一閃され、絶対零度の氷結が弧を描きまるで刃のように有伶に迫る。
 それをすわりとかわし、有伶は笑った。

「──自分が自分でなくなるのが嫌だったんだ。シドさんらしいよ」
「っ──!」

 追いすがるシドの踏み込みを避けるように、有伶はバックステップで飛び退り、泉のほとりで足を止めた。
 悪鬼羅刹の形相でそれを追うシドは続けざまに凍気を走らせ、ラボ全体を分厚い氷に閉ざす勢いで有伶を追い詰める。
 だが、シドの放つ数トンを超える氷塊も、黄金の泉に触れるやいなやジワリと融け、白い霞となって消え失せていた。
 火口並みの超高温を放つ黄金に目を向け、そこで初めてシドは瞠目した。

「──亮っ」

 泉の中央深く──。
 巨大な羽根を周囲から伸びる端子に連結された少年は、頭を下に、まるで飛翔しているかのような形でたゆたっていた。
 その少年に寄り添うように、もう一人良く知る人物が固定されている。

「言っただろ? 守護者はもう決まったんだって」
「──今すぐ、亮をここから引き上げろ」

 唸るようにシドが言う。

「無理だよ。正式に稼働を始めたオルタナを止める命令コードは僕しか知らない。たとえ僕がここで人質に取られたとしても、局員だけじゃ動かせない仕組みになってる。つまり、シドさんが出来ることはもう何もない。生身の人間がエロハの泉に近づくことはできないし、──危険分子であるあんたを、生かしてここから出すわけにもいかない」
「いいから、引き上げろ」
「生っ白い研究員だけじゃさすがにシドさんには勝てそうにないけど──ビアンコには連絡済みだ。すぐにここへやってくる」

 シドは今一度、泉へ視線を向けた。
 奥深くへ沈んだ少年の表情を窺い知ることは出来ないが、揺れる白い足や手のひらは、傷一つなく輝いて見える。

「いっそ泉に飛びこんでみる? いくらあんたのイザが強力でも、恐らく三分も持たないけど──もしかしたら最期に亮くんに触れるくらいは出来るかもしれないよ? ただ、ここで融け死んだら寂静確実だから、死に逃げを考えてるならやめた方が──」

 有伶の言葉が終わる前に、シドは軽く跳躍すると頭からするりと泉中央へ向け飛びこんでいた。
 猛烈な熱がジュワリとシドの存在を飲み込もうとする。それを体内のイザ全てを使い、放出ではなくアルマへ巡らせることで己の身体を包み込む。
 深層セラで最悪の状況に陥ったとき、何度か使った手法だ。
 だがその時の比ではないことが、シドにもすぐわかった。
 深層セラですら何度か循環が可能だったイザが、身体を一度巡りきる前に熱に絡め取られ蒸発していくのを感じる。
 確かにこれは三分どころか、今の体調では一分たりとも持たないに違いない。
 だがそれでもシドは手を伸ばす。
 泉の中は上下が反転しているらしく、頭から飛びこんだはずなのに、上へ上へと昇っていく。
 亮の身体を何者かから護るように抱き寄せたシュラは眠るように瞳を閉じているのに対し、その胸元へ頬を寄せた亮は、ゆっくりと瞬きを繰り返し、ぼんやりと虚空を見つめていた。

 ──生きている。

 亮の姿を目にした瞬間、シドは声に出し、思わずその名を呼ぼうとした。
 だがそれを踏みとどまり、亮の頬を撫で、額を合わせると、次にその燃え盛る羽根へ手を掛ける。
 端子からそれを引き抜き、亮の身体を持ち帰る──
 今のシドに可能なのはその一点のみだ。
 持てる膂力全てを使い、羽根を引く。
 しかしシドが意志を持って動けたのはそこまでだった。
 目を見開き様子を眺めていた有伶は、次第に怒ったような呆れたような複雑な表情へ変わり、ぴたりと動きを止めた白い影へ向かって小さく溜息を漏らす。

「この状況すら想定してたんだとしたら、ビアンコはやっぱり恐ろしい人だよ」

 動きを止めたシドの意識は最早ないに違いない。
 オートで巡っているイザが尽きたとき、彼の存在はこの世界から消えてなくなるのだ。
 腕に嵌めた時計を眺めれば、そろそろ三分を過ぎようとしている。
 本気でこの場所へ亮を取り返しに来た昔なじみの愚行に、有伶は静かに目を閉じた。