■ 5-60 ■







 蒼天を突く純白の巨石に背を預けたまま長い手足を投げ出し、ローチは参ったというようにどこまでも高い空を仰いだ。
 前方から自転車並みの緩い速度で迫ってきたピックアップトラックが環状列石の少し手前で停車し、中より現れた作業着の男二名が、荷台から取り出した野太いロープを持ってこちらへ歩んでくるのが見えたからだ。
 考えていたより派遣された人数が少ないのは観測所の全人員が三桁に遠く及ばないせいだろう。本拠地である観測所を急襲されあらゆる重要施設へ人間を送り込んでいれば一カ所に裂く人数が減るのは物理的に如何ともしがたいことといえた。その点についてだけはこの隔絶された特殊なロケーションに感謝できる。
 トラックが停車する寸前、息苦しさを軽減するためおろしていた群青のブルカを頭からすっぽり被り直す。
 目の位置だけメッシュになった青いヴェールはローチのプラチナブロンドも傾国の美貌をも隠し、さらに不思議なことに草地に伸びる彼の影すら世界から消してしまう。
 通常ブルカはイスラムの女性が髪や顔を隠すのに使われる仮面やヴェールのようなものだが、ローチ特製のこれは装着することで周囲から己の存在を消し去ることの出来る特別なアイテムだ。
 歩んでくる作業員は二人とも肩から重そうなロープの束を掛けている。植物の繊維を編み込んだようなそれは一定間隔で白い紙片が結びつけられていて、日本の神社にある注連縄のような見た目をしている。
 境界を示すことの多いその様式に、かれらはどうやらこの列石を封じるためにやってきたのだろうとローチは踏んだ。
 最先端の科学技術の粋を集めて作られた樹根核にあって、ゲートを閉じる方法が手動で注連縄とはレトロすぎて逆に新鮮だ。
 ローチは投げ出していた手足を畳んで「どっこいしょ」と腰を上げる。
 右手薬指には黒くマットな質感のリングが。左手には重みのあるビニール製のエチケット袋が装備され、ふらつく足でローチは身を起こした。
 しばし考えを巡らせた彼は、口を突きそうになる溜息を押し殺して男達の背後へと回り込み、彼らのすぐ後ろを歩き始めた。

「侵入者ってまたかよ。いったいどうやって来るんだ? ここはアクシスないと来られないっていう鉄壁の防衛ラインがあるはずだろ?」
「さあな。侵入経路は研究局のエリートですらお手上げらしいから、俺らみたいなコモンズの雑用係にわかるわけねーよ」
「でも前回ほどの騒ぎにはなってないな」
「あん時は地上で散々されたからだろ? 今回の侵入者は自ら地下に入り込んだそうだから、スルト統括かウィスタリアかがすでにとっ捕まえてるんじゃねーか?」
「そんじゃ俺らがここ塞ぐ意味ねーじゃん」
「仲間が他にいる可能性考えてのことじゃない? まぁ、前回みたいに抜け穴使って来られてたら意味ないんだろうけど、念のためとりま正面玄関塞ぐんでしょーよ」
「一度塞いだら49日は強制籠城だぜ? この縄切れないし燃えないし編み込んだ術式消えるまで俺たちも外に帰れなくなるってのに……。正直念のための措置ならやめて欲しいとこだけどな」

 深い溜息をつきかったるそうに歩く二人の後ろに付き従い、ローチは彼らの会話を聞き取っていく。
 どうやらシドは地下とやらに潜って、有伶のいるメインラボへ侵入は果たしたらしい。
 彼と別れて一時間ほどが経っていた。まだ指輪の冷却が完了するまでには二時間近く間がある。従って今この正門を閉じられては、最悪一人ででも脱出しようと考えていたローチとしても困ってしまう。
 どうやら自分たちより先んじて何者かがここへ侵入を果たしたらしいが、抜け道なんて特殊なテクニックを使った相手の情報など、正攻法しか使えぬ自分たちには何の参考にもなりそうにない。
 ローチの個人的方針として殺しを犯すことだけは避けたいところだが、自分が捕まって拷問を受けるという未来と天秤に掛けた場合、最悪彼らを始末するのもやむを得ないかなぁと思い始めたとき、作業員の内一人が突然悲鳴を上げていた。
 まだ何もしてないのに──と、いぶかしげにそちらを眺めれば、男の一人がその場にしゃがみ込みもう一人の男を手招きしている。

「ちょ、こっち、これ、これ、おま、これって、誰かゲロった跡じゃねーか!?」
「──っ!!! え、うわ、じゃ、やっぱ今回ここから来てんの確定じゃん! しかも血混じりかよっ。はぁ、最悪。こりゃ相当ランクの高いソムニアが来てんな」
「しかしよく動けたな、この状態で。あんだけ慣れてるウィスタリアだって半日は寝込むってのに、こいつ歩いて観測所まで行って、統括たちにケンカ売ってんだろ? バケモノだ」
「もう冷えてる感じからすると、侵入して1時間は経過してるな。──おっと、こっちにも一カ所。それから……ちょっと先にも見えるが、この配置は移動中だな。量と動きを見ればSSクラス以上は一人で済むか。あとは仲間が居たとしても雑魚のはずだが……」
「さっさと封じてはよ帰ろ! そんなヤツにここ戻られたら俺たちだけじゃ対処できないって!」

 男達はうなずき合うとそそくさと二人で縄を持ち、周囲歩けば大人の足でも15分以上は掛かろうかという環状列石を各々左右に展開し、巡っていく。
 ずっしりと重そうなそれを頭上に掲げ白亜の巨石へ触れさせれば、注連縄から金色の蔓が這い出し、自ら石へと巻き付いていく。
 たった二人でこの巨大なエリアにどうやって結界を張るのかと伺っていたローチは、その簡易でシステマティックな作業に大きく目を見張った。
 なるほどこれならば専門知識を持ち得ないコモンズの作業員でも容易に設置はできるだろう。
 さすが有伶だと舌を巻きながら、ローチは屈み込み、手にしたエチケット袋へ静かに嘔吐した。
 ローチが最初の一回を除いて全てこの袋へ吐瀉物を収めているお陰で、彼らはSSクラス以上の侵入者がもう一人、ここへ残っていることを想定からはずしてくれたようだ。やはりマナーは大切だと己の行儀の良さに一人うなずく。
 唇から引く血混じりの糸を震える手で拭うと幽鬼の如く立ち上がり、男達が白い巨石へ巻き付けていった縄にそっと指先を近づける。それだけでビリビリと強い震動を感じ、触れることなく手を下ろした。
 これは部外者が触れたら即何らかのリアクションを起こす仕様になっているに違いないと悟る。
 巨石に巻き付く黄金の蔓もこの青空の下でも僅かに発光し、ただならぬ霊気をのようなものをまき散らしているし、刃物で容易に切断できる代物ではなさそうだ。

 ──う〜ん、これは縄じゃなくて人間をどうにかするしかないかな。

 指輪の冷却完了まであと1時間38分。この調子でいけば彼らはそれを待たず任務を完了し、樹根核の正門を見事に閉じてしまうに違いない。
 しかし己の能力であるヴンヨは極力使いたくない。彼らが保護されその状態を観察されれば、シドと共にあった人間がヴンヨ使いだということはすぐさま割れるだろうし、そうなれば旧知の有伶がローチの存在を考えないわけがない。
 ここ3世代ほどはシドとローチが絶縁状態にあったことを有伶なら知ってはいるかもしれないが、勘の良いあの男がヴンヨと聞いて真っ先に思い浮かべるのは自分だろう。
 己の足がつけばローチの可愛い可愛い大切な組織コールドストーンにまで火の粉が飛ぶことは想像に難くない。
 娯楽のために家族を窮地に追いやるわけにはいかないのだ。
 相手がコモンズというところは可哀想に思うが、背に腹は替えられまい。恨むならわざわざ苦労してIICRの準機構員試験を受け、あまつさえパスしてしまった自分の能力値の高さを恨んでね。──と手にしたエチケット袋を足下に落とし、一歩を踏み出す。
 重さのあるビニール袋の立てた微かな異音に、注連縄を抱え上げ、蔓が石へと絡みつくのを補助していた男が振り返る。
 消えゆくアルマへせめてもの詫びにヴンヨを使ってやるかと、ローチはブルカをはずすべく頭上に乗った重苦しい装飾品に手を掛けた。
 その瞬間。ぞくりと全身の産毛が総毛立ち、ローチは咄嗟に身を翻して左手へ飛び退る。
 強烈な──だが恐ろしいほど静謐な気配が彼のすぐ背後に、塊となって迫ったのだ。
 体勢を低くし、腰に着けられたアイテムホルスターからデリンジャーを取り出すと狙いを定めるべく構えるが、ローチの視覚には何も捕らえることが出来ない。
 口の中はカラカラに干上がり、全身にびっしりと珠の汗が浮かび上がる。

 ──なに!? 何がいる!?

 何の前段階もなく現れた見えない塊の位置を知ろうと、ブルカの奥でアメジストの眼球がギョロギョロと動き回る。
 だがそんなローチの横を、ためらいのない足取りで作業員は通り過ぎ、草地の上に乗った白いエチケット袋を拾い上げていた。
 どうやら彼には見えない相手の気配を感じ取ることが出来ていないらしい。
 男が今立っているそのすぐ背後に、淡い陽炎が揺らいでいる。強烈な力場で空間がねじ曲げられているのだ。
 暢気な顔であんな場所に重なって立てるコモンズに逆に感心してしまう。
「何だこれ……。こんなもんさっきあったっけか……」
 男が拾い上げたエチケット袋の中を不思議そうに覗き込んだその時だ。

 大地がローチの身体を突き上げた。

 音のない重低音が大地全体を押し上げ、あまりの衝撃に膝を着く。
 たった一度の突き上げは銅鑼の打撃の如く地面を揺らし、大地が水面のように波打っていた。
 風が止まり、次の一瞬で草原が一斉になぎ倒されていく。
 ソニックブームの洗礼にローチは顔を伏せ、布越しに耳を覆った。
 作業員も悲鳴を上げ倒れ伏す。彼の下敷きとなり中身のたっぷり入ったビニール袋はグシャリと濡れた音を立てた。
 何が起こっているのかはわからないが、大地の動きから推察するに震源地は観測所に違いない。
 気づけば今そばにあった謎の力場は霧散している。
 果たしてそれは真実そこにあったのだろうか。白昼夢でも見ていたのではないか──と、己の記憶すら疑うほどに、それは綺麗さっぱり消え失せていた。

「おいっ、何が起きてるんだ!? 本部と連絡は──」

 少し離れた石柱の影からもう一人の作業員がパニックに陥り叫んでいる。
 ローチの目の前の男も「わからんっ! 携帯も電源が入らねぇっ!」と返しながら、取り出したスマホのメインボタンを何度も狂ったように押していた。
 辺りには風に乗って不穏な警報音が高く低く揺らぐように届き始めている。
 これはシドが何かやらかしたに違いない──。そうローチは当たりをつけるが、それが良い方向なのか悪い方向なのかは関知しようもない。

 ──まぁどっちにしてもあと1時間半は身動き出来ないんだけど。

 諦めの境地でしゃがみ込んだまま空を仰ぐ。
 先ほどまで真っ青に晴れ渡っていた空は金属でも流し込んだように色を変え重たい光沢を放ち始める。24金もかくやという見事な輝きが徐々に大地を染めていく。
 見れば観測所の方角に黄金の柱のような何かが立ち上がっていて、空と大地とをつなげてしまっている。正体はまるでつかめない。
 作業員達は地面を這うように移動し身を寄せ合うと、車に戻って無線を使う算段を始めている。
 本来ならすぐにでも観測所に引き返し指示を仰ぐというのが筋なのだろうが、どう見ても震源地であるあの場所へ取って返す行動を彼らは取りきれないでいるらしい。
 できることならせっかく出口付近にいるのだし、このままリアルへ戻れないかという話まで持ち上がり始めていた。
 こちらの希望だけで門が開かないことはわかりきっているだろうに、無理だとわかっている可能性を求めてしまうほどには、現状は絶望的だといえる。
 唯一の好材料はこれだけの揺れにも関わらずストーンサークルは未だその威厳をしっかりと保っていることだ。
 指輪の冷却さえ終わっていれば、すぐにでも脱出するのに。と、自虐的な笑みを浮かべてローチは右手の薬指を目の前にかざした。

 ── ……………………。

「っ、おおぉ!?」

 しばし黙してそれを眺めた後、ローチの口から間抜けな声が漏れ出る。
 黒く沈んでいたはずの指輪表面に、虹色の光が糸くずのように絡まり始めていた。薬指は重くジンと痺れている。
 3時間は掛かるはずの冷却が1時間半を残して完全に完了しており、なおかつ表面を走る電光を見ればエネルギーの充填も完了しているとしか思えない。
 アイテムホルスターへ手を突っ込んでみれば、復路用に準備した黒炎は瓶の封を切られぬままローチの指先をチリリと熱した。
 何が起こっているのか理解はできなかったが、これだけはわかる。

「……あれ、これ、僕だけ帰れるな」

 そう呟いたローチの前を、無線で指示を受けたらしい作業員二名がよろめくように横切っていた。
 口々に文句を垂れながらも彼らは再び注連縄を抱え始める。
 無情にも彼らの上司は、現場に残り正門を閉じる作業を続行させる指示を下したらしい。
 そうこうするうちにも、中央に未だそそり立つ黄金の柱と同じようなものが、観測所側からこちらへ間欠泉の如く吹き上げながら、近づいてくる。
 地下から吹き上げるそれが何らかの液体であることが、百メートルほど手前で吹き上がった柱によりようやく認知できた。
 ローチは込み上げる胃液を今度こそ大地に直接吐きかけると立ち上がり、ストーンサークルの中央へと向かう。
 想定外の事が起こりすぎている。
 足取りさえ覚束ない今の状況で二名の人間を始末し、樹根核ごと沈みそうな天変地異の中、戻るかどうかもわからないシドらを待つのはどうにも愚かな選択だ。
 何より先ほど数センチの距離まで近づいた得体の知れない力の塊が、再び現れないとも限らない。
 あんなものが敵意を向けて襲いかかってくれば、今のローチなど瞬きの間に蒸発してしまうだろう。
 悪く思うなよ──と視界の悪い観測所の方角を眺めると、ストーンサークルの中央ですわりと指輪を撫でた。
 それを合図に黒の指輪へ光の帯が巡り始める。
 やはり起動する。
 これは間違いなく飛べるはずだとローチは確信した。一人で飛ぶならなお確実だ。
 彼の周囲では可哀想な作業員二人が必死の形相で隔離の注連縄を張り巡らせ続けている。
 各々がぐるりと回り込み、彼らの持つ縄が繋がるまでもうあと石柱三本と言ったところだ。
 あれが閉じれば全てが終わる。
 その前に──。
 その前にここを出る。
 指輪が起動した今、三時間待つ約束など守る義務は自分にはない。
 だがローチは右手の薬指を擦ったまま動きを止めていた。
 胸の底が火を噴くように熱い。何度も吐いたせいで食道もひりついている。
 ぐるぐる回る平衡感覚と時折殴りつけられるような頭痛も、無理矢理こんな場所へ飛んできた代償だ。
 こんな目に遭いつつなぜ自分は突っ立ったままなのか。
 意味もなく指輪をアイドリングさせ何キロも先の観測所を眺めているのか。
 強烈な熱波を伴い、サークルのすぐ先で金の柱が吹き上がった。大地は抉れ隕石でもぶち当たったかのような大穴が開く。
 青々と生い茂っていたはずの草地は全て溶け去り、ガラス質のコーティング剤となって黒い穴を縁取っている。
 至近距離の吹き上げで網膜が焼け、目の前がチカチカと緑に瞬いた。

「ああ……、これまずいヤツだ」

 呟きながら感じたのは、どうしようもない苛立ちだった。
 作業員達はついに最後の石柱へ到達したらしい。
 間欠泉の急襲に怯えながらもどうにか注連縄をつなげようとしている。
 今から彼らを狙撃して間に合うだろうか──。
 一時的に奪われた視力もそのままに、再びホルスターへ左手を突っ込んだその時。
 作業員達が悲鳴を上げ倒れ込むのがわかった。何事かと目を懲らし耳を澄ませば、ぼんやりとした影の接近と共に猛烈なエンジン音が耳朶を叩く。
 男達の背へ車が突っ込んできたらしい。
 アクセルベタ踏みとしか思えない速度で迫るそれは、スピードを弛めることなくサークル中央を突っ切り走り去っていく。
 通り過ぎた車が巨石の一つにぶつかり鈍い音を上げ横転した。
 だがローチはそれに目をやることはなかった。
 なぜなら彼の眼前に、一糸纏わぬ白い身体の少年を抱えた、同じく何も身につけていない男が転がり落ちてきたからである。
 しかし男の様相は少年とは大きく異なり、腕も背も、至るところが赤く爛れ、濡れそぼった髪は同じように朱く彼の顔を縁取っている。

「遅いっ」

 理不尽な言葉を投げつけたローチは瞬時に指輪を擦り上げ、彼らを抱き込むと、次の瞬間虹色の閃光を伴って掻き消えたのだった。







 紫のマーキュリーモントレーは、アメリカ南西部のハイウェイを彷彿とさせる岩山だらけの田舎道をひたすら真っ直ぐ走り抜けていく。
 1951年製のその車は、古き良きアメリカを感じさせるアメ車らしい頑健なフォルムに似合わず振動の少ない滑らかな走りを見せ、助手席と、そして後部座席に座る彼らの負担を最小限に留める働きを見せていた。
 USの乾いた風が開けた窓から吹き込み、陽光を遮るために窓へ張られた布製のシェードを小気味良い音でそよがせる。
 そんな穏やかな走りでも助手席に座るローチは時折手にしたエチケット袋の世話になりながら、どうにか目を開けていられるほどの有様だった。
 運転席から彼らの様子をチラチラ眺める若者は、長い道中音楽でも掛けたいと伸ばしかける右手を何度も引っ込め、最終的には諦めたように両手でしっかりとハンドルを握り込む。
 ローチはそんな子飼いの若者を座った眼で眺めると、賢明な判断だと言わんばかりに、旧式のカセットデッキのイジェクトボタンを叩き押した。古びたカセットテープが乾いた音を立て頭を出す。
 車内は重苦しい空気に充たされていた。
 ローチがサイドミラーを覗けば、顔面蒼白で目の下には見たこともないレベルの濃い隈が出来た自分の顔が映っている。
 いい加減自分も酷い有様だがしかし、ルームミラー越しに映るこの男ほどではないと思う。
 後部座席に陣取ったシドは車内に常備されている生成りの毛布に身をくるみ、同じ毛布を分け合って身を横たえる亮の身体を抱き込んでいる。
 全身至るところが焼けただれた皮膚は、車に常備していたベルカーノ印の応急処置薬を使いどうにか薄皮だけは張っている。だが、僅かな摩擦で浸出液が滲みだし、琥珀の雫がぽたぽたと垂れ毛布に黄土色の染みを作っていた。艶やかに伸びていた燃える朱毛は無造作に引きちぎれ、意図しない野性味を持つ髪型へ変えられていた。サイドの髪はこそローチの記憶通りの長さを持っているが、後ろの毛はかつてないほどまで短く刈り取られ、その黒く変色した毛先の状態を見れば、恐らく熱で焼かれたのだろうと言うことがありありとわかる。
 しかしそれらを陵駕しあまりあるほど酷いと感じるのは、その目つきだ。
 辺りを伺う眼光はどいつから殺せばいいのかと順番を決めているかの如き凶光を帯びているし、腕の中の少年を捕らえる目は慈愛とは真逆の光を持つ我欲に塗れたものだ。
 眠る亮の無垢な顔つきとは対照的過ぎるシドの様子は、見ている者を不安に駆り立てる。
 そして、現実に男は凶行に及んだ。
 熱発のため肩で息をつきながらもぎらついた眼を隠そうともせず、腕の中で眠り続ける少年を抱え込み、口付けていた。
 頬を撫でては幾度も幾度も深く、深く、強く、意識のない亮の唇を食むように貪る。
 濡れた音は車内の空気を綴り、乾いたUSの昼下がりを湿った夜更けへと塗り替えていくようだ。
 ついにはその細い首筋に噛み付き、吸い上げ、亮が痛みのためか小さなうめき声を上げた。
 ローチはさすがに眉を寄せ、「おい」と後部座席に待ったを掛けた。
「おいこらシド。何があったか知らないけど飛びすぎだ。やめてくれるかな」
 倫理観の欠如甚だしいローチが制止するほどにシドの行動は常軌を逸していた。
 何より運転席でハンドルを握るローチ秘蔵のライドゥホ種──まだまだ幼気な青少年のグイドくんが、視線だけは前を見て、顔を天井に向けてしまったことが決定的だった。
 彼の鼻の下には一筋の赤い血潮が垂れ落ちている。
「こんな状況でサカルな、うちのグイドに変な性癖ができたらどうしてくれる!」
 手にしたタオルで助手席からグイドの鼻を押さえ、ローチが声を荒げれば、ようやく手負いの獣は顔を上げる。
 濡れた唇が微かに糸を引き、ぷつりと切れた。
「それとも、身体の傷を治すために亮くんの体液を摂取してるのか? 確かに効果は覿面だろうさ。なら止める筋合いもない」
 からかうように言い放てば殺人鬼の如くローチをにらみ据え、その後シドはようやく背をバックレストへ沈めていた。
 それから約一時間。
 誰一人言葉を発することなく車はハイウェイを直進していく。
 重苦しい沈黙に耐えきれなかったのか、若者は手持ちぶさたに後頭部を二度ほど掻き癖のある黒髪を風に靡かせると、青い目を困ったように泳がせてついに言葉をぽとりとこぼす。
「おカシラ、水、飲みます? アームレストの中に冷えてますんで良ければどうぞ。えと……、後ろの方達にも……」
 グイドが浅黒い頬に滲む汗を無意識にTシャツの肩で拭いながらそう伝えれば、ローチは熱っぽい瞳を僅かに細め、無言でアームレストのトップカバーを引き上げ、中からキンと冷えた三本のペットボトルを引き出して、──しばし考え一本はもう一度元の位置へ収めていた。
 ローチが無言でペットボトルを放ると、半眼のままそれを受け取ったシドは物も言わずにキャップを捻り、無言で呷る。
 ローチも同じく冷えた水を喉に流し込み、震える息を吐いた。
 いつものようなアルマのみの存在ではない状態で飲む水は格段に美味く、それは偏に彼らの肉体が脱水症状を引き起こしているからに相違ない。
 煉獄で飲む水も『水』という概念が強固であればリアルで摂取するものと変わらぬ効力を発揮する。
 あっという間に500mlのボトル一本を飲みきったローチは今一度水を取り出すと、同じように空になったボトルを放り捨てたシド向かいもう一本投げ渡す。
 再び呷り終えるとドリンクホルダーへ投げるように僅かに水の残ったボトルを打ち立てる。込み上げてくる嘔吐感をぐっと堪え、もう吐きたくないと目を閉じたローチは、同じような表情で口元を覆うシドを片眼だけでルームミラー越しに確認した。

「死にそうな顔してるけど寝るなよ。おまえの意志がないとあそこには入れないんだからな」

 ローチの言葉に鏡越しに視線を寄こし、わかっていると言いたげに睨みを利かせるシドは、声を出すのも億劫なほど消耗しているようだった。
 亮の背には人の背中に在らざる器官が根付いていて、シドも亮も服すら着ておらず、シドは満身創痍だ。全く声を出さないところを見れば、気管まで焼けただれている可能性すらある。あの、イザ・ヴェルミリオが、だ。
 観測所で何があり亮がどうされ、どうやってその亮を奪還してきたのか。ローチには想像することすら出来なかったが、恐らくここにこの二人が揃って息をしていること自体奇蹟なのだろうということだけはわかる。
 出発地であるヴィーナスダイスから目的の深層セラ──ループザシープまで、グイドの車ならもう一時間も掛からぬうちに到着するだろう。
 この先彼らが何と戦い何を手にし、何を諦めるのか。
 ローチはそれを見届けてやろうと思う。
 それが出来るのはローチだけだという甘美な特権に、思わず場違いな笑みがこぼれた。