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 ローチが古めかしい真鍮製の鍵を回せば、大仰な音を立て閂が落ち、二百年ぶりにその屋敷は現主を迎え入れた。
 門から玄関までの長い長いアプローチに辟易しながら、ローチはこの先のさらに一段高い場所にそびえる屋敷を見上げる。
 石木で造り上げられた二階建ての古めかしい家は、彼らがここを見つけたとき既に建てられていたものであり、家と言うには些か大きすぎる嫌いのあるものだ。
 大きく取られたアーチ状の窓のいくつかには荘厳なステンドグラスがはめ込まれ、薄曇りの空を灰色に反射し、くぐもった色で彼らを見下ろしている。
 中央には尖った屋根が三つ大小中と合わせて並び、屋敷の広さをアピールしている通り、四つのベッドルームと五つのバスルームを持ち、そのうち二つはスイートマスターとして各々二百平米に近い広さを持っている。
 さらに右手奥には小振りながら数万冊の古書を収められた尖塔まで作られており、建築されたであろう時代を色濃く反映するゴシック色の強い建造物だ。
 無言のまま白い石の敷かれたアプローチを昇っていけば、数分掛けてようやく玄関ポーチへとたどり着く。
 扉には古式ゆかしいウォード鍵の鍵穴が開いており、同じ鍵束に着けられた小振りの鍵を差し込み回転させると、両開きの重々しい木製ドアは経年による濃密な外観とは裏腹に軋みもせず、滑らかに彼らを薄暗い室内へ招き入れた。
 灯りを点けようとローチが玄関スツールへ置かれたランタンを手に取るが、シドはお構いなしに亮を抱えたまま奥へ奥へと進んでいく。
 窓の大きな造りであるため夜目の利くシドには問題などないのだろうが、それでもこの屋敷の広さからすると薄曇りの光源では奥まで賄いきれず、久しくここを訪れていないという条件を考えれば、もう少し視界を確保すべきだとローチはマッチを擦った。
 吹き抜けの広い玄関ホールの左右には装飾の少ない木戸が着いており、正面にも二つ、大きな扉が閉まっている。
 その扉の左右から弧を描いて幅の広い石造りの階段が巡っているのだが、シドは迷わずその階段を上り、二階へ進んでいくようだった。
 時折踏みしめる足を止めるのは、あの男の身体も限界をとうに越しておりふらつく身体を支えるためであろう。
 単純に樹根核まで生身で飛んだダケの自分ですら平衡感覚がグズグズだというのに、焼けただれた上にどこからか出血し続けているらしいシドが少年とは言え人を抱えたまま歩いているなど、ゾンビの行進でしかないとローチは眉を寄せる。こんなになっても弱みすら見せず当たり前のように動いているあの男のなんと可愛げのないことか。
 ささやかなランタンの明かりに浮かび上がったのは、ブルーグレーを基調にした石作りの室内だ。千二百年代のゴシック様式が基盤となっており、以前の持ち主が錬金術師であったこともあって美術的価値はあるがかなり雑然とした雰囲気であったものを、シドがこのセラを手に入れた二百十数年前、当時の様式に合わせてローチが好きに改築を施した。そのため主要な室内はかなりすっきりとしたモダンなものに作り替えられている。
 しかしそれでも大昔の話だ。それ以来訪れる者のいなかったここは二百年前で時を止めている。
 それだけの間風も通していなかったというのに、ほこりっぽさもかび臭さもないのは、このセラの特徴が顕著に表れている証だろう。
 とは言え、非電化であるこの住居に暮らすのはしばらくは不便かもしれないなと肩を竦めて、ローチはシドの後を追った。

 だだっ広いスイートマスタールームは暗く闇に沈んでいる。
 天井より吊されたシャンデリアも、部屋のあちこちに立てられているオイル式スタンドライトも、火を入れていない今はただのモニュメントに過ぎない。
 右手正面に三面、奥に二面取られた大きなアーチ状の窓も、天井から吊された天鵞絨のクロスカーテンにより容赦なく光を遮られ、その隙間から僅かに差し込む淡い線の残滓によりようやく、部屋の中央に設えられたディレクトワール様式の大振りなソファセットや、扉逆側に作られたアイランドキッチン、そして中央壁側に寄せて置かれたキングサイズのベッドらを黒々と浮かび上がらせていた。
 どさりと重い音が聞こえローチがそちらへ視線を寄こせば、今まさに195センチの上背がベッドの上に倒れ込んだ瞬間であった。
 ランプを掲げたまま近づくと、亮の身体を抱え込むようにして横たわるシドがいる。
 血と体液で汚れきった毛布が申し訳程度に腰の位置へ絡まってはいるが、二人とも何も身につけては居ない。
 地中海性気候に近いこのセラは比較的気温が温暖で安定しているとは言え、どうやら季節的には夏を過ぎた辺りのようであり、宵闇が差し迫ったこの時刻にはシンと乾いた肌寒さを感じずにはいられない。
 ローチは事々しい溜息を一つつくと部屋の角に造り付けになっている暖炉へ火を入れて、その足で中央奥にあるキッチンセットへと向かう。
 今どき風のアイランドキッチンを二百年も前に造っていた自分のセンスに改めて感激しながら、同じく己の発明である氷冷式の冷蔵庫を開ける。
 木製のそれは上段に氷を入れておけば下段が冷えるという原始的な造りとなっていて、主にシドがいる場所で使うには最適の道具であったものだ。
 二百年前に入れた氷など当然のことながら溶けてなくなっているはず──なのだが、その上段にはほんの数時間前に入れられたかのようなガッチリと硬く締まった純度百パーセントの氷塊がしっかりとおさまっている。

「おっと、これはループが効いてるわけね。助かった」

 期待しないで開けただけに、嬉しい誤算でローチは思わず笑みを漏らす。
 ということは、下段にも期待が持てるはずだ。
 案の定、下段には硝子瓶に入れられたよく冷えた水が数本収められており、コルク栓を抜いて一口含んでみれば、爽やかな軟水が喉を潤していく。
 ひとまず自分でそれを一本開けると、中に収まった一本を手にし、ベッドまで引き返す。
 いつの間にか見慣れたタオルケットを抱え込んだ亮は、背中の羽根が邪魔なようで俯せに丸まるように眠り込んでいる。
 その身体を抱え、小さな丸い頭を胸の内側にしまい込んだシドは、今度こそピクリとも瞼を揺らすことなく意識を閉じていた。
 その額にも着痩せするしなやかな筋肉のうねりの上にも、じっとりと油汗が滲んでいるのがわかる。
 肌に触れずとも呼吸の荒さから高熱を出していることが見て取れた。
 ここに来る途中、車内で応急処置だけは行ったが、所詮は薬箱レベルの治療に過ぎない。
 ざっと見るだけで火傷の範囲は身体の25パーセント以上に及んでいるし、左脇腹には赤黒い染みが常に滲み出している。樹根核行きで内臓もダメージを受けているだろうし、通常この状態なら即入院、ICU行きなのは明白だった。
 内臓ダメージだけでも看過できないものであることは同じ状況であるローチには痛いほどよくわかる。だが現状、ここを出て病院に行くなどできるわけもない。
 樹根核に囲われていた秘匿の少年をIICRから奪い去った男が生きていける世界など、おそらく地球上のどこにももうないのだ。
 しばし状況を眺めていたローチは思いついたようにこう言った。

「おい、シド。僕は帰るからな。お前が死んだらここから出られなくなる」

 シド達の行く末を見届けようと思ってはいたがここまで状況が悪いと話は別だ。
 ソムニア転生が不安定な今、ここでシドが死んでしまってはローチは最悪、永遠にこのセラから抜けられなくなってしまう。
 その前にこの“ループザシープ”を禅譲してもらうことも出来ないではないが、シドがそれを許すわけはないし、何より今のこの体調でそんな真似が出来るとは思えない。
 そうなれば亮はこのセラでたった一人永遠に生きていくことになるわけだが、ローチもさすがにそこへ付き合う酔狂さは持ち合わせていなかった。
 一旦ここから出れば、シドと共に移動する以外このセラのエントランスを抜けることは出来なくなる。
 つまりふらっとここへ戻ることも難しくなるということだ。
 ベッド脇のナイトテーブルに水の瓶とささやかな手持ちの薬を放り置くと、もう一度振り返った。
 もしかしたらこれが最後になるかもしれないし、珍しい寝顔の一つでも見ておいてやろうと思ったからだ。
 しかし、思わぬ事に、目が合った。
 固く閉じられていた瞼が開き、琥珀の瞳が剣呑にこちらを眺めていた。

「帰る、って言った」

 無言のまま、面倒そうにシドが片手を振って追い返す仕草を見せる。
 死にかけてなお可愛げがない、とローチは片眉を上げた。
 昔なじみに背を向けると、

「生きてたら連絡よこせよ」

 とだけ言い置いて、ローチは部屋を後にし、携帯電話を取り出していた。







 酷い肌寒さにシドは目を覚ました。
 同時に強烈な不安が胸を焼き、だがすぐさま腕の中にある温もりに身を寄せ、安堵する。
 しっとりと汗ばんだ髪に鼻先を埋めれば、彼のよく知る甘やかな香りがくすぐり、身体を這い回る悪寒は少しだけ和らぐ気がした。
 大事なものが確かにここにある感触に、朦朧とした意識のまま熱い息をついた。
 ベッドの硬いマットレスへ腕を立て力を込めると、砂袋のように重い身体をどうにか引き起こす。
 辺りは暗い。
 状況も時刻も判然とはしないが、それでも部屋の隅から届く暖炉の灯りが微かに揺らぎ室内の稜線を際立たせて、ここが遙か昔入り浸っていた不可侵の特殊なセラであるということはわかった。
 視線を下げると、紫黒色のシーツに埋めた亮の白い身体は稀い灯りの中でもぼんやりと浮かび上がり、細い肩がゆるゆると上下動を繰り返している。
 どうやら自分はあの永久牢獄とも言うべき隔絶地から亮を奪い返すことには成功したようだった。
 見慣れたシーグリーンのタオルケットを抱き寄せた少年の呼吸は規則的で、安らかな寝顔は血色も悪くない。
 ほっと息を吐きそれを確認すると同時に、彼は己の身体が寒さで震え続けていることにようやく気づく。
 指先は痺れ感覚がおかしいし、爛れた素肌に当たるシーツの感触も鈍い。
 状況から察するにかなりの高熱を発しているだろう事はうかがえ、全身を締め付ける寒さはこれからさらに熱が上がるだろう事を彼に予感させた。
 ベッド脇のナイトテーブルの上に、灯ったままのオイルランプとその橙光を跳ね返す硝子瓶を見つけたシドはゆるりと手を伸ばし、一口水を呷った。
 その水が大丈夫なことを確認するともう一口含み、抱き起こした亮の唇へ己のそれを重ねる。
 白い喉が小さく動き、少年は与えられた水を飲み下していた。
 少し湿らせるだけでもと考えての事だったが、確かな生命を感じシドの口元が微かに緩む。
 ふと、亮の瞼が僅かに震えた。
 薄らと開かれ、黒く大きな瞳にシドの顔が映し込まれていく。

「っ──」

 シドが思わず抱き寄せる腕に力を込めると、少年は不思議そうにそれを見上げ、幾度か瞬きをし──、一粒ぽろりと雫をこぼした。
 シドがその名を呼ぶ前に、亮は両腕を上げわずかにシドの胸を押す。
 その動きが何を意味しているのか、シドにはすぐにわかってしまう。
 「亮」と名を呼べば、少年は小さくかぶりを振り、「ちがう」と声に出した。
 力のまるで感じられない弱り切った腕の動きは、今の亮にとって精一杯の拒絶であった。
 その「ちがう」の意味に、シドの全身から血の気が失せていく。
 シュラを護るため震えながら銃口を向けてきた亮の姿がフラッシュバックした。
 やはり、戻っていないのだ。亮の記憶は。
 亮の記憶もアルマも「亮を救う」という名目で奪われ、違う事実を入れられ、かき混ぜられられた。
 シドの記憶など粉々に砕かれ、形をなくしてしまったのかもしれない。
 否、シュラの言葉が確かなら、亮のアルマは己の崩壊から自身を守るため、自らシドの記憶を消し去ってしまったのだ。
 何度も何度もかぶりを振り、「ちがう」を繰り返す目の前の亮に、シドは為す術がない。

 おまえの亮は寂しくて寂しくて消えてなくなってしまったのだ──。

 そうシュラが今も耳元で囁き続けている。
 ここに居る亮はシドではなくシュラへ求めて泣いている。
 自分は“ちがう”のだ。
 シドではないのだ。亮が求めるのはもう違うのだ。
 足下が為す術なく崩れていく感覚に、目の前が赤く染まる。

 何度も亮が自分に通話要請をしていたことを知っていた。

 だがシドはそれを受けることをただの一度もしなかった。
 それは亮を救うため彼にはやらねばならない仕事があったから──。
 それは自分にしかできないことだったし、亮のそばには自分以外にも彼の慰めになる者がいるとそう知っていたから──。
 そして、自分は亮自身さえ無事であるなら、それだけで構わないと思っていたから──。
 だがその認識は果たして真実、その通りだったのか。
 正体不明の翼のこと。シドでは手も足も出ない亮の聖痕症状。ビアンコの言葉。秀綱の存在。己の執着と無力──。
 かき混ぜられ揺さぶられたのはシド自身だったのではないか。
 そこに目を背け、背け続けるために、シドは亮を手放した。
 自ら手放してしまった。
 シドと共に在った亮を殺したのは、シド自身だ。

「──亮。俺は……、おまえを……、」

 視界が歪んだ。
 何も言葉は浮かばなかった。赦しを乞うことすら無意味だ。
 己の愚かさを嘆く隙間もない。
 歪んだ視界は揺れ、二百数十年──転生後ただの一度の経験もない熱が琥珀の眼を煮え立たせる。

「ちがう、しってる、……いや、だ。きえろ。はやく、きえて──」

 力の入らぬ手足を突っ張り顔を背ける亮の声が、錆びたナイフのように鈍く深くシドの胸を抉り続ける。
 シドはその衝撃を全て受けながら、ただひたすら小さな身体を抱きしめ、縋り付くより他何も出来ないでいた。
 訳知り顔で亮の想いを子供の刷り込みだと軽んじた結果は無様なものだった。
 悔悟とはこれほどに身を焼くものなのかと初めて知る。
 
 ひたすら縋り付き、
 ひたすら抱きしめる。
 崩れ落ちていく意識を止める胆力など根こそぎ失っていた。
 夜の闇の水底にシドは深くひたりと沈んでいった。

















「──何やってんだか」

 その状況を黙したまま見つめていた人間が一人、ランプスタンドへ肩を寄せるように宵闇の中立っていた。
 呆れた溜息を漏らしベッドへ近づくと、強く抱きしめられたまま再び眠りに落ちていった亮の濡れた頬を指先で拭ってやる。
 セラ外で待機していたグイドに携帯で単独帰還を命じたローチは、己の馬鹿さ加減を嘆きながらも結局彼ら二人に付き合いその場に残ったのだ。
 ローチ自身もダメージ回復のため別の部屋でしばしの睡眠を取ったが、様子を見に来て早々世にも珍しい場面に遭遇することになった。

「可哀想に。まだ夢の中にいるんだね」

 そう声を掛けたのは昔なじみの男に対してではなく、最近知り合ったばかりの子供にだ。
 少年は自分を見下ろすシドの顔を見て「ちがう」と言った。そして続く言葉は「知ってる」と「消えて」だ。
 何が違うのか。何を知ってるのか。
 それをシドは「己が求められてないが故の言葉」だと理解したようだったが、彼より幾分体調のいいローチには別の意味があるとわかる。
 死にかけ男は決定的なそれを聴き取る前にぶっ倒れてしまったため知ることができなかった。
 だが亮は確かに「ちがう、しってる」の後こう続けたのだ。
「──シドはここにいない」と。

「ここに居るんだよ、亮くん。キミを抱いてるのは本物のシドだ」

 亮は典型的なナイトメア症候群だと、ソムニア歴の長いローチにはすぐに看破できた。
 ナイトメア症候群は覚醒したてのソムニアが陥りやすい、明晰夢とセラ内部の出来事の区別がつかなくなる現象だ。
 特に精神的に追い詰められたソムニアはその症状を引き起こしやすい。
 亮は目の前に居るシドが本物ではないと──夢であると、そう思ったのだ。
 目を覚ませばまたシドはいない。その寂しさに耐えきれず、シドの夢を見ることすら拒絶していたに違いない。
 だから自分の心を護るため、「これが本物のシドではないことを知っている」と、樹根核にいる間、いつも何度も自分に対し予防線を張っていたのだろう。
 つまり亮の言葉は「シドを拒絶しての言葉」ではなく──

「シドに向かえに来て欲しかったんだね。こんなになってまで」

 涙を拭い、髪を撫で、ローチは目を細める。
「僕の甥っ子ちゃんはホント、僕に似て呆れるくらい男を見る目がないな」
 涙で束になった前髪をよけ小さな額に口付けていた。