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 これよりおおよそ22時間47分前──
 天は眩い黄金に塗りつぶされ、地は無数の黄金沼に覆われ、宙は黄金柱が吹き上がる――灼熱の場所へと変貌した樹根核を、レオンは見た。
 地面が吹き飛ぶかと思われるほど下からの突き上げを受けた観測所は、それでもIICR建築局の意地と誇りの頑健さでどうにか倒壊は免れ、些か傾いだ床上でしゃがみ込んでいたレオンは這うようにして割れ飛び散った窓へ近づいて、覗いた光景に息を呑んだ。
 エマージェンシーを知らせるサイレンが耳をつんざき、状況は全くつかめない。
 ただ前面から吹き付ける熱風と唸り続ける大地に、天災──という言葉が浮かんだ。
 これは人の起こす災厄ではない。
 善人も悪人もない。何者をも殺す世界の転覆だ。
 もちろんこの場所が人の手により無理矢理居住できる環境へ型に嵌められていることを知っている彼なら、これが人災の色濃い瓦解だとわかってはいたが、それでも魂の畏怖が止むことはない。
 吹き付ける熱風がチリチリと肌に染みる。
 不意にガチャリと微かな音が聞こえた。
 サイレンの合間にわずかに混じった異音をレオンの耳は聞き逃さなかった。
 未だ震える足を無理矢理立ち上がらせると、音のした扉へと駆け寄り、そっとドアノブを回してみる。
 案の定ノブは抵抗なく回転しレオンは数日ぶりの廊下へ出ることができた。
 緊急事態状況下で建造物のロックが自動解錠されるシステムはありふれたものだが、それでも明らかに監禁目的で作られたであろうこの部屋から抜け出ることができるのは思いも寄らないことだと思った。
 最悪ここで閉じ込められたまま焼け死んでもおかしくない状況だったはずだ。
 ここが樹根核である限り部屋を出られてもリアルへ戻れる可能性はゼロだが、それでもじっとしていられるわけもなく、レオンは赤い緊急灯の点滅する廊下を走り出す。
 ここが二階の一室であることだけは窓から見える景色でわかっていた。
 目指すのは亮とルキの居室のある三階だ。二人と運良く出会えれば現在の状況を確認し今後の予定を立てることも少しは可能かも知れない。
 運動不足にかけては自信のあるレオンは階段を駆け上がり始めて最初の踊り場で息を切らしながら、それでも必死に足を持ち上げる。
 その間所員の誰ともすれ違うことはなく、これはハズレかなとの予想通り三階には人っ子一人おらず、今度はすぐに一階ラボを目指す。
 喉の奥が不快なほど塩辛くなる。酸素を取り込もうと肺で激しいガス交換が行われ、血流の中の鉄イオンが溶け出しているんだなと、どうでもいい医学知識が脳裏を掠めた。まったく、この程度で息を切らす自分がソムニアだというのだからお笑い草だと自嘲する。
 一階に到着したレオンの前には所員達が幾人かかたまって駆け回っている光景が広がっていた。
 防塵マスクを装着し物々しい装いで動き回る彼らは、インカムから流れてくる上司からの指示でこの観測所を護るための業務に忙しく、階段を転がるように降りてきた白衣の男一人になど全く目を向けていない。
 これ幸いと彼らの流れの隙間を縫ってラボの方向へ進む。時折こちらへ視線を向ける所員もいるが、レオンに対し何らアクションが起こされることはない。
 しかし、地下へ向かうラボエントランスに近づけば近づくほどに熱気は強まり、所員の数も増えていく。
 辺りには怒号が飛び交い、邪魔だと言わんばかりにレオンの身体がはじき飛ばされ、通路の端へ追いやられる回数が増え始めた。
 よろけた先で何者かに強く腕を引かれた。
 すわ捕まったかと思わず身体を固めたその瞬間、先ほどまでレオンの身体があった位置に轟音が落下する。
 耐熱合金製のハッチが恐ろしい速度で閉じられたのだ。
 こんな無茶な閉まり方をする非常用ハッチがあろうとは、危険地帯への配属が今まで一度もなかったレオンにとって寝耳に水、青天の霹靂。とにもかくにも一瞬遅れて訪れる恐怖感にぺたんと尻餅をつく始末だ。

「ドクター!」

 見下ろす影が聞き知った通りの良い声でそうレオンを呼ぶ。
 そこでやっとレオンを救ってくれた人物が誰か気づき、オクターブ高い声を上げた。
「ルキくん! 無事、だったの!? よかった……」
「僕は三階の奥の部屋にずっと監禁されてました。先生も閉じ込められていたんですよね? 同じ階ですか?」
「私は二階の西側の部屋だ。キミもこの状況でロックが外れて脱出できたのかい?」
 立ち上がり、ハッチの影に身を寄せて人の流れをやり過ごしながら会話を続ける。
「いえ僕はその前から──、ヴェルミリオとここまで来たんですが」
 言いよどんだルキは眼前に水の幕を張り、レオンと二人姿を隠すように覆い始める。
 どうやら彼はこの状況下に於いて己の水膜により熱と視認の両方から身を守っていたらしい。
 人目に付くのを顧みず、レオンを救うために一旦水膜を引き払ったであろうルキに感謝の念を抱きつつ、それ以上の驚くべき情報に礼を言う前に事実確認に入ってしまう。
「シドと!? え、あいつ来てるの? この騒ぎはあいつが起こしてるってことか」
「はい、間違いなく。ただ、ヴェルミリオがラボへ乗り込んでからもう三時間近く経ってます。ラボの出入り口は完全に熱で溶け崩れていて誰も出入りできない状況になってるし、中がどうなっているのかはわかりません。ヴェルミリオや亮くんが無事なのかも」
「あの地震が起きてから三十分強ってところだよね。あいつが簡単に死ぬわけないとは思うけど──」
 地下のラボがおそらく震源地である。この状況を見れば無傷で居られるはずがないと思い至ってしまうが、二人とも敢えてそれを口にすることはできないでいた。
 苦々しい沈黙がひんやりとした水膜の内側に落ちる。
「これから、どうしましょう……」
 慌てふためく所員の影が右へ左へ揺らめく水面の向う側を眺めながら、ルキの大きな黒瞳が鋭く細められる。
 戦闘職にある彼はこういった危機的状況に身を置くことに慣れているはずだが、今は彼に指示する上官がいない。
 まだ新米ソムニアの域を出ない彼にとって未知の領域に突入しているのだ。
 一方レオンの方はというと彼より幾分か歳は取っているがしかし、このような死地に赴いた経験はない。
 先輩らしい指示も助言もできぬまま、わずかに呻くのが関の山だった。
 それでもどうにか格好の付く言葉を並べるため、自信なさげではあるが声を絞り出す。
「とにかく、あの金色の何かが押し寄せてくるような場所へ行くのは、避けよう。この先リアルへ戻るのを目標にするとしても、命あっての物種だ。身を隠しつつ現場の状況を探れる場所を目指せればいいんだが……」
「……そう、ですね。僕らは監禁されていたんだ、ウィスタリアは敵だと思う他ない状況ですし、ここの人間を頼ることは出来ない。できれば亮くんを助けにヴェルミリオと合流したいところです」
「そうは言っても出入り口が溶け落ちている状況じゃラボへ向かうのは難しい。それに──」
 レオンは最後にウィスタリアが話した信じがたい事実を思い返していた。
 あの後監禁され考えを巡らせる時間だけは十二分にあったが、どれだけ時間を費やして知恵を絞ってみても、話が壮大すぎて常識人を自負するレオンには何の解決策も浮かんでくることはなかった。
 それでもこの内容をルキに伝えることは出来る。なおかつそうして良いものかについての答えは、最低限この数日で覚悟を決めることができた。
「それに、亮くんはもしかしたら今、このラボを離れることが難しい状況に置かれているかもしれない」
「──っ!? どういうことです? 亮くんの炎翼の成長はもう止まっていますし病状も安定しています。外に連れ出しても問題はないと思います。また暴走を起こすかも知れないという懸念はあるけど──でも、ヴェルミリオがそばに居てくれるならそれも大丈夫なんじゃないですか?」
 若干喧嘩腰にすらなりながらレオンへ問いかけるルキは、心から亮を心配していることを全身で表していた。
「そこじゃないんだ。もっと──根源的な問題が亮くんには起きている。炎翼はそれ自体が病根なのではなく、別の根源から生じた枝葉のようなものだ」
「あれが──亮くんの命すら奪おうとした恐ろしい炎が枝葉? そんなこと……っ、あれ以上の何が亮くんの身体に起きてるっていうんですか? なんでそんな酷いことばかり──」
「そう、だよね。私もそう思う。ただ、IICRはそれを知っていて。初めから知っていて利用したんだ。私たちはその片棒を担がされた」
「──っ」
 ルキが絶句したその時だ。
 二人の姿を隠してくれていた優しい水の膜が、一瞬にして小さな水滴へと収縮し、そして──消える。
 ルキがそうしたのではない。
 その証拠に彼は状況を理解できぬままわずかに腰を落とし、レオンを庇うように戦闘モードへと体勢を切り替えている。
 だが次の瞬間、そんな彼の挙動も停止し、見開いた眼をずいぶん上の位置に向けたまま惚けたように固まるばかりとなっていた。
 同じくレオンも口を開けて眼前に現れた彼を見上げる。

「ルキ・テ・ギア。おまえに新たな仕事を任せたい。本日付で獄卒対策部から移動してもらえるか」

 白い長衣を纏った黒い賢人はその堂々たる体躯をかがめるようにして、小柄なルキへと向き合っていた。
 突如現れたソムニアの長――オートゥハラ・ビアンコに、ルキは言葉も出せないでいる。
 現状IICRは彼らにとって最良の保護者ではなくなっている。だがそれでも彼らはその組織のメンバーなのだ。
 周囲の人の流れも停止する。
 ビアンコの姿を認めた所員達はざわめくことすら辞め、わずかに頭を垂れことの行く末を見守っている。

「移動――? ビアンコ様。それはどういう……」
「研究局局長付第三補佐として、ウィスタリアの下についてもらいたい」
「僕が研究局……? そんな知識も能力も僕は持ち合わせていません」
「期待するところはルキ。おまえの持ち合わせる鬼子としての変異アルマだ」
「――っ、ビアンコ、まさか、それは」

 レオンは瞬時にビアンコの言わんとすることをくみ取っていた。
 今し方ルキへ明かそうとした事の真相が、長の口から語られようとしている。
 
「オルタナティブツリーの新たなエンスフェランが、新たなおまえの務めとなる」

 聞いたことのない単語の羅列にルキはすぐには応えることができず、黙したままビアンコを見上げる。
 しかしビアンコは構わず続けた。

「これからしばらくリアルに戻ることは叶わなくなる。苦労を掛けることとなるがこの世の全てのソムニアのためだ。共に歩んで欲しい」
「――しばらく、とは」

 どのくらいなのか。聞こうとするルキの言葉にビアンコはある数字を答えた。
 それはシュラが提示された年月であり、受け入れた数字でもある。
 その途方もない時の流れにルキは目を見開き、レオンは言葉を失った。
 逃げ場は、ない。





 傾いだ椅子に背を預け、手にしたコーヒーを口に含む。
 蒸気に曇る眼鏡もそのままに空を見上げると、群青の空に月が二つ昇っていた。
 有伶の頭上には文字通り空が広がり湿った風が乱れた髪をかき混ぜていく。
 崩落した硝子天井。飴細工のごとくうねり黒々としたシルエットを浮かび上がらせている梁の一部。
 煙る空気は未だ燻った臭いが入り交じる。
 冷却水の残滓が水蒸気となって辺りに立ちこめていた。
 彼の書斎でもあった自慢の植物園は、いまや朽ち果てた廃墟の庭園に様変わりを果たしていた。
 秀綱襲撃後ですら威厳を保っていた巨木も、遙か深層セラから取り寄せた異界の薔薇も、得がたい薬効を秘めた新種の蔦も── 一部を残して黒い硝子質へ変じ、月光をキラキラと弾き返す。
 三日前まで仮眠すら満足に取らず忙しく動き回っていた所員達は、一部夜勤の者を除いて夢の中だ。
 有伶はもう一口熱いコーヒーを啜ると、不機嫌そうに口を尖らせる。

「いい加減臍曲げるの止めてくれないかな。このままじゃこの先の方針も相談できない」

 地下ラボのエロハの泉が裏返り、オルタナティブツリーが甚大な被害を受けた“ヴェルミリオ襲撃”の後処理をほぼ一人でこなした有伶は、かれこれ三日間、彼の宿主であるスルトと会話を為せていない。
 研究に夢中で無視されることは過去に幾度となくあったが、今回のような彼にとっての“雑事”の後、彼が引きこもることは経験がない。

「オルタナの損壊は修復可能なレベルだ。ルキくんの端子接続手術も下地の準備は整いつつある。計画は多少ずれ込むが、材料はPROCが大量に持ち帰ってくれてるし、玄関の封が解ける前には稼働できるはずだ」
『よくもそんな口がきけたものだ。トオルを失うなどあってはならん失態だ。今回の件、おまえの甘さが招いたものだという自覚はあるのか』

 ようやく己の口から聞こえた彼の声に、有伶は肩を竦めて見せた。
 やはり今回、彼の大家は相当切れているらしい。

「別に僕は甘かったつもりはないけどね。実際僕の計画通りヴェルミリオをこっちサイドへ引き入れていられれば今回の事態は起こらなかった。最初からシドをここへ招き入れていれば良かったんだ。彼の反乱にビビってPROCになんておいやったレドグレイとあんたが悪い」
『己の失態をこちらになすりつける気か。結果が全てだろう。やはり最初からあんなものは53号施設で焼き殺しておけばよかったのだ』
「あんたの計画通りやってたら樹根核に来る前に亮くんは暴走して秀綱側へ渡ってたさ」
『トオルなど何もわからん子供だ。いくらでも騙しようがある。ヴェルミリオのアルマコピーでもあてがっておけば、あとはジオットあたりが何とかしただろう』
「その亮くんの暴走で今回オルタナが半壊してるんだけど。あんたは人間のくせに植物みたいな物言いをすることがある」
『どういう意味だ』
「感情がシステマティックだって言ってるんだ。その辺の葉っぱを寄生させすぎてアルマが枯渇でもし始めてるんじゃないのか?」
『ならばおまえが吸い過ぎているんだろう。たかがヤドリギの分際で、私に隠し事をするほどだからな』

 有伶の眉がわずかに揺れた。
 彼の宿主が何を言おうとしているのか、お互いの頭の中は見えなくとも伝わってくる。
 彼らは違う生命体だがその根は繋がっているのだ。

『有伶。ヴェルミリオをここへ運んだであろう男――ローチ・カラス。なぜヤツの情報をビアンコへ伝えない』

 包み込んだ手のひらの中で、ハーブの入ったオリジナルコーヒーがゆっくりと冷めていくのがわかる。
 ほんの数秒言葉を選んだ時間が、やけに長く思えた。
 有伶の葉脈の中を旧知の男の顔が駆け巡る。
 プラチナブロンドの髪とアメジストの瞳を持つ鉱物の結晶のような男だ。
 シドがこの樹根核に現れたと知れたとき、真っ先に浮かんだのがこの男のにやけた美貌だった。二人は数世代は絶縁状態だったはずだが、在野にあってこれほどの破天荒な技術を持つ人間は彼しか思い当たらなかった。
 彼の名や人となりはスルトも知っている。だが彼らが以前拠点にしていたセラの場所を始め、詳細な情報は有伶しか持ち合わせていない。
 はるか数世代前の古い情報ではあるが、それをIICRへ伝えれば何らかの足跡を追う材料にはなることだろう。
 だがなぜかそれを有伶は明かすことができないでいた。
 ずいぶんと顔を合わせていないローチにも無理難題を押しつけられてばかりいたシドにも、特段の感情はわいてはいない。
 もちろん出会ったばかりの亮にも情はないと思う。
 此の世を再構築するためのパーツとして生み出された彼が、その務めを全うすることは当然の成り行きだ。
 それを言ってしまえば何の関係もなかったルキの方が、優秀な鬼子であるという一点のみでヒトをやめざるを得なくなるなど、理不尽だし気の毒だろうと思う。
 有伶の植物としての情報処理機構には動物的な「情動」と同義のものが存在しない。
 にもかかわらず、である。
 有伶は長年のパートナーであるはずのスルトにすら、亮とシドの行き先を匂わせるであろうローチの情報を共有させていない。
 一つ、理由を付けるなら。――情はないが興味があったのだ。
 己と同じ“他者がなくては存在し得なかった者”。
 有伶は寄生者。亮は殻。
 がっちり型に嵌められた人工的な楽園でモニタリングされながら生きながらえるのではなく、野に放たれた亮がどうなっていくのか。どうなってしまうのか。
 一つの計画が崩れ去った今──有伶の求めたのは恐らく、祈りにも似た観察だ。 

「ローチさん器用だけどさすがに無理があるでしょ。アクシスを使わずに樹根核へ直接アタックできる者なんて、ビアンコか秀綱くらい人外じゃないと」

 有伶はスルトの問いに対しそう応えると、手にしたカップを片手で持ち、不意に逆さにし中身を全て焼けた地面へと零していく。
 黒の硝子質に変じた“土であった場所”は、ジョロジョロと小さな音を立て黒い液体を跳ねさせる。
 同時にもう片方の手が、湿気を吸い梵天のように膨れた有伶の天パを掻き上げて、前髪を後ろへと流していた。

「さて」

 そう言った有伶の声はいつもよりわずかに低く、立ち上がりざま白衣の裾を靡かせて歩き出す。
 カップは傾いだ木製テーブルの上に放り投げられ鈍い音で転がった。
 歩きながら彼は髪を後ろで一つ結びにし、眠たげな丸眼鏡をはずすと、それもわずかに残された緑の低木の向こうへ投げ捨てる。
 蝶に似た蒼い木の葉たちが数枚、ひらりひらりと彼の後を追う。
 だがそれに一瞥もくれることなく、彼は彼のガーデンを立ち去り、よどみない足取りで三階へと向かった。
 未だエレベーターは稼働していない。
 階段を上って行く内、すれ違う所員から何度か目礼を受ける。
 恐れを持って向けられる部下達の目をいつものように歯牙にも掛けず進み続けた彼は、目的の自室へたどり着くと扉を閉じ、鍵を掛けた。
 そしてそのまま一言も発することなく、薄暗く奥まった場所にそびえる壁一面の薬棚の前に立つ。
 銀製のハンドル横に取って付けたように貼り付いた電子パネル。そこに128桁に及ぶ英数記号を打ち込んでいく。
 淀みない右手の動きは何やら新しい楽器を奏でているようだ。
 小気味いいほどの速度で右手が動ききると小さな電子音が正解を告げるように鳴り、白木と硝子で作られた薬棚の華奢な扉から物々しい金属音が響く。
 まるでその美しい意匠とそぐわぬその音は、牢獄の閂が落ちる重さを彷彿とさせた。
 彼は当たり前のようにその扉を開き、正面中央に収まっていた白色の試薬瓶を取り出す。
 古風な広口の硝子瓶から磨りガラスで作られた蓋が、彼の手に導かれるままサリサリと気持ちの良い音を鳴らし引き抜かれる。
 中には真っ青な溶液が揺れているのが、白い磨りガラスを通して見て取れた。
 それを覗き込んだ彼は無造作に指を突っ込み、中から細く小さな糸屑のようなものをつまみ上げる。
 青い水溶液に漬けられていたそれは同じような青に染まり彼の指先で丸まっていたが、数秒もしないうちにそのほつれを自らほどき、ボウフラのような動きを見せ始めた。
 それに満足した彼は糸くずを己の右目へと運ぶと、なすりつけるように眼球へと落とす。
 彼の茶色い眼球の上で踊る線虫は球面を泳ぐように滑らかに身体をくねらせると、瞼の内側へ潜り込み、すぐに姿を消してしまう。
 その瞬間――彼の内側で声にならない怒号が響いた。

「研究方針の不一致だ。おまえの残した資料は使わせてもらう
 
 彼の名は、ミスルトゥ・ポクラカ。
 スルト統括と呼ばれる彼こそ真実のエイヴァーツ・ウィスタリアであり、寄生木怪物を意味するその名が本名なのか異名なのか、IICRのレジスター登録課ですら把握していない。
 彼の中に充ち、彼のアルマを数世紀にもわたり共有していた寄生木が、スルトにもわからないセラ言語で彼の内臓を震わせ、叫びながら食われていくのを感じる。
 あれほど有能な寄生木はなかなか見つからないものだが、彼の大事な研究材料を故意に放逐されたのでは溜まったものではない。
 新しい種はどれが良いかと薬棚を見上げながら思索を巡らせ、左の下段隅に置かれた褐色の試薬瓶を手に取る。
 有伶を取り込んだときどちらにしようか迷ったもう一方の種子だ。
 全く違う傾向のセラで採取した全く違う傾向の植物。
 有伶は蔓だったがこれは双子樹タイプだ。
 大きさから言えばかなりの能力を裂かねばならないはずだが、あれからずいぶんと時が経ち、スルトの能力も比較にならないほど躍増している。
 今ならこのサイズも問題ないだろう。
 次第に内側の声も途切れ始めていた。
 数分後には彼の中に静寂が充ち、蔓のざわめきは全て潰えることになる。

 ──早いほうがいいか。

 植物は育つのにそれなりに時間を要するものだ。
 これからオルタナを復活させルキをヒトでなくし、ビアンコと共に次の計画を実行しなくてはいけない。
 同時に亮の探索は続けさせ、もし見つかったときはダブル――いや、トリプルコアで動くシステムも面白いかもしれない。忙しくなるこんな時こそ、寄生木の力は必要である。
 枯れた有伶の欠片を食い荒らしつつその身を太らせていく線虫を、別の寄生植物に捕獲させ体外へ排出する。
 パカリと口を開けたスルトの喉奥からミミズにも似たぬめる枝が這い出し、枝の先端に刺さった青い虫を床へ投げつけた。
 薬指サイズに肥大した虫は先端から消化液を吐き出し更なる獲物を求めうごめいていたが、スルトはあっさり安全靴で踏みつぶすと、つまんだ種子をクッキーでも頬張るように口の中に放り込む。
 薬棚を離れ、ポケットから取り出した有伶の携帯をいじりながら予定表を眺め、今し方枯れた寄生木の居室へ向かう。
 ふと、その口から長々と溜息が漏れた。
 カレンダーは上から下までびっしりと文字に埋め尽くされている。
 楽しげな実験が続くのは良いことだが、まずは雑事を担当させる相手を早めに育てなくてはと、少しだけあの寄生植物を始末したことへの後悔が湧いた。