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 彼女は科学という絶対的価値観のもと、人類の平等を重んずる正義の人だった。
 王も奴隷も、凡夫も天才も、悪人も善人も、美女も醜男も、死にかけた老人も生まれたての赤ん坊も、そしてコモンズもソムニアも――。
 全てのアルマは等しく希少で高潔であり、そこに差を見いだすべきではない。
 彼女の知識も能力も、地球という惑星に発生した奇跡の知的生命体――人類への愛のために振るわれる。
 アメリカの天文学者フランク・ドレイクが提唱した、所謂ドレイクの方程式によれば10^22個存在する銀河の星々の中、宇宙を通して交信可能である人類同等以上の進化を遂げた生命体のいる星は、厳しい見解の数字を入力したとしてもほぼN>1になるという。
 しかし彼女はそれら数字に賛同しない。
 否――宇宙交信可能であるレベルの生命体というだけであれば、アメリカ政府に地球外生命体探索のための予算を引き出すことに成功したこの方程式を肯定することも出来るだろう。
 だが、人類。地球へ生まれたこの知的生命体の奇跡がそれだけではないことを、ソムニアであり探求者である彼女は知ったのだ。
 それは人類が重濃度のアルマを持ち、肉体の死後もそれを維持したまま、11次元に構築された別の流体系を巡った後、肉体を得てこの3.5次元時空へ再誕するという事実だ。
 何百年もの間、錬金術師からソムニアの変遷のなか刻苦で見いだされ、彼女が昇華させた新たな因子を加えた方程式の解は、常に限りなく0に近いN<1となる。
 11次元に構築された別の流体系――それを彼女たちソムニアは“生樹”と呼んでいる。
 3.5次元のこの世界でアルマは多くの経験を経ることにより威力を増し、生樹を巡る間に濃縮されデフラグを施される。
 これを繰り返し続ける内にアルマ一つ一つが成熟し、ある一定の濃度に達したとき、別の体系のアルマへと昇格し枝分かれする。
 昇格したアルマは生樹の輪から抜け出し、ダァトの向こうにある別の世界へ向かうということを、彼女は突き止めることに成功した。
 この特殊な動きをする循環を持つ星が現在の宇宙全体でどれほどの数存在するのか。生樹に巡るアルマの総量を計算し、それから導き出された答えに寄れば(全ては試算の域を出ないが)その数は片手の指で余るほどでしかないはずだ。
 それほどに地球に生まれた人類という存在は尊厳なものなのである。
 だから彼女は絶対に守らなければならないと思ったのだ。

「運命は我らに手をさしのべました。カヤ。おまえも再び十二年後、変わらぬ転生を経てこの世界へ戻ることができるでしょう」

 錆色の大地から幾筋も黄金の光帯が伸び螺旋を描いて絡み合い、バラのように反り返った萼の中心へと吸い込まれていく。
 空中に浮いているとしか思えない巨大な花を彼女は見上げる。
 小さなモスクほどもありそうな花弁の塊は鞠のように丸くペイルグリーンに輝き、ゆらゆらと波打って見えた。
 大気が水中のように濃く分厚いためそのように見えるのだった。
 彼女の長い金の巻き毛も水に揺れるようにふんわりと広がり、彼女の幼く丸い顔を神々しく彩っている。

「驚いた。ネツァクに作ったダリヤが咲くなんて奇蹟だ。君の想いがそうさせたのなら、やはりヒトは凄いよテーヴェ」

 テーヴェと呼ばれた少女の隣に立つ真っ白な少年も、その残された水色の右目で仰ぎ見る。
 白い髪、白い眼帯、白いダッフルコートに白いブーツ。そしてその背に三枚の白い翼――。
 元は六対あったであろうそれらは、歯の欠けた櫛のように互い違いにかろうじてついているようにしか見えない。
 主翼に至っては右側に折れてちぎれた半分の残骸があるだけで、左側には何も残されていなかった。
 包帯に覆われていた手や脚は、透けるようなその肌をさらしている。否。透けるような――ではなく、透けているのだ。
 彼は身体の至る所がほつれ、繊維のように毛羽立ち、周囲の大気に溶け出していた。
 以前、久我にエリヤと名乗った少年は、その細い首に重そうな金属の輪をつけ、両手首にも錠を嵌められたまま、光を放つ蒼い隻眼で上空五メートルの位置で開きつつある黄緑の花弁を見上げる。

「賭けは私の勝ち。オルタナティヴツリーに打ち込んでおいた小さな楔は力の飽和に連動して発動し、ティファレトからネツァクへの葉脈が貫通した。数多の無垢のアルマで作られた渠は無駄ではなかったのです」
「けれどやはり僕はヒトの世を救うためにヒトを滅して溝を作る方法は矛盾していると思うんだ」
「自分たちの世界を守るために自分たちの命を平等に使う。一番自然で最も人道的な方法です。世界を守ると言いながら世界の構造そのものをソムニアで独占しようとするビアンコは悪ですし、新たな世界を作り出す秀綱は破壊者でしかない」
「一番自然なのはこのまま静かに滅んでいくこと――じゃないのかな。上の存在は僕らにもう興味がないのさ。だから以前のように手出しをして助けをよこしたりしないんだ」
「3300年前、ヒトを無理にやめさせられて、その“助け”にされたことが未だに不満なのですか?」
「未だに――は正しくないよ。ここ最近、だ。僕らはずっとそれが当然だと思っていたから。こんな姿になるまでね」
「エリヤもエノクも元はヒトなのです。耐用年数は随分前に切れてしまっている。本来なら生樹の管理など1000年が精一杯のはず」
「確かに2000年前一度チャンスはあったんだ。でもうまくいかなかった。僕らの交代要員は君らの言うところの“ソムニア”として目覚めてしまったせいでその後の運命を知り、拒絶した。僕らみたいになりたくなかった」
 それ以来神は手を引いてしまったらしい。だってもう誰も何も送られてこないんだもの――。
 そう続けながらエリヤはくるりと少女に背を向けた。
「これでもう僕には用はなくなったよね、テーヴェ。二つの贈り物。翼もあげた。心臓も渡した。君は君の望む存在に近づけた。完全ではないけれど――」
「それでもこれでもう1000年は持つはずです。その頃には再び私の意志を継いでくれる何者かが現れるのを期待するしかない」
「僕が消えたら兄さんも消えてしまう。オルタナから流れ出た因子を吸収したおかげで、僕の残りのアルマを使ってダリヤを咲かせるなんて危ない橋を渡らなくても良くなった」
 エリヤの言葉に少女はそばかすの浮いた頬を僅かに緩め、目を閉じた。
 生樹の中心で生樹自体を管理する彼の兄――エノクが消えるとき、人類のアルマ全てが行き場を失うときなのだ。
 ダリヤが稼働する前に生樹が崩壊した場合、その間死亡したアルマは永遠に失われることになる。
 その危険を冒してまでエリヤのアルマを絞り尽くす必要はもうない。オルタナの崩壊は彼らにプランBをもたらした。
「ええ。――こういう、ことでしょう?」
 ガチャリと硬い音がしエリヤの手から枷が滑り落ち、首からはずれた輪も彼の手によって錆色の床へ放り捨てられる。
「君に全てを使われずには済んだけれど、心臓を失った僕が消えるのも時間の問題だ。消える前のほんのひとときくらい、好きな場所で好きに過ごしたい。――本当なら兄さんに会いたいんだけど……、ケテルは遠いから」
「私の動かす生樹のどこかで会えますよ。あなたが肩入れしていた亮の世界では無理でも、私の生樹ならば、きっと」
 全てを入れ替え混ぜ込み再構築する新世界では、何者をも以前の個を保つことは出来ない。
 だが彼女のダリヤから行われる現生樹の制御ならば可能性はある。それこそが彼女の望みだ
 現・現実世界の守護天使サンダルフォンにして管理者――エリヤは、その役目を終え、うつむき何事か聞き取れないほどの声で呟くと、姿を消していく。
 テーヴェはそれに振り返ることもなく、二枚揃った見事な翼を大きく広げ飛んだ。
 ペイルグリーンに輝く花の中央へ。
 仕事はこれで終わりではない。まさに今から始まるのだ。
 彼女の纏うオレンジ色のワンピースにはポケットが左右に一つずつついていた。
 その右側のポケット。そこからテーヴェは三つのビー玉を取り出す。
 深紅の輝きを放つ小さなガラス玉を真っ先にダリヤの花の真ん中へ投げ込むと、閉じていた中央の花弁が僅かに開かれる。
 三粒の血の色は瞬く間に飲み込まれ、それを追うように彼女は背中から中央へダイブした。
 二本の純白の翼にペイルグリーンの花弁が絡み合っていく。
 強烈な痛みと熱。
 そして倒錯が彼女のアルマの奥を切り裂き、そして組み合わさった。
 テーヴェは遂に今、完全にヒトを辞めた――。



 ダリヤのある『ネツァク』と『イェソド――煉獄――』との狭間である亜空間。
 そこから初めて降り立った真のネツァクは、薄暗く乾いた緑の大地だった。
 草木が茂っているわけではない。荒涼とした岩場が広がるその全てが、くすんだ緑色に認識できたと言うだけだ。
 このネツァクの守護天使はハニエルと呼ばれ、愛と美と調和をもたらす存在である。
 本来ならこの世界はきっと美しかったはずだ。
 管理者の弱体化は生樹を今にも枯らしてしまう寸前なのだと改めて認識する。
 これからテーヴェは一人、この場所から生樹をコントロールしていかねばならない。
 恐らく成坂亮はこの作業の端緒を無意識で見つけ活性化をこなしていたのだろうが、ヒトであるテーヴェにそれはできない。だが、彼女には亮の持ち合わせていない絶対的な知識がある。人類としての矜持がある。
 千年の長きに渡りそれをやり抜く自信は揺るぎない。
 彼女が行うべき最初の作業。それは――

「さすがに早いですね、ビアンコ」

 陽炎揺らめく中からゆるりと現れた白い衣の偉丈夫。
 十二メートル手前に立つ彼は小さく手を上げ、しばらくぶりに会う友人に相対するかのごとく挨拶をよこす。

「してやられたな。こんな手品をオルタナに仕込んでいたとは」
「ふふ……。興味の偏りが激しいミスルトゥでは気づくはずもないでしょうから」
「うむぅ。有伶なら気づいてもよさそうなものだったが――、前局長にはまだまだかなわないということか」

 ゆったりと歩み寄る彼の足が八メートルを残して止まる。

「それで――ここからはどんな仕掛けが飛び出してくるのだろうね」

 オルタナからの力の流れを追ってきたビアンコは、今まで入獄不可能だったダリヤポイントに初めて入り込むことに成功し、その瞬間、ダリヤそのものを確認する前にこのネツァク内部へ招かれている。
 後半は完全に己の意志で移動したわけではない。呼ばれたのだ。
 ここはテーヴェのテリトリーだった。

「仕掛けも何も、私もたった今ここについたばかりですから」

 そう言ってテーヴェは少女特有の透き通るような笑みを浮かべた。

「今一度、私の話を聞いてもらうことはできないか? やはり君の力はIICRと共にあってこそ最大限に発揮されるはずだ」
「ソムニアによるコモンズの支配――。そんな禍々しい世界、私には許容できません」
「言い方一つだよ。支配ではない。調整だ。転生の波を僅かに調整するだけで世界から不要な争いはなくなる。飢餓も貧困も緩和され、この星はもう一段階先へ進めることになる」
「傲慢ですよ。迫害された側の詭弁です。コモンズたちの生まれ出る権利すら奪おうとするあなたは、コモンズ達に嬲り殺され続けた遙か昔のソムニアの怨念そのもの――私にはそのようにしか見えません」

 ビアンコは大きく一つ息をつき、うつむいた。

「残念だ。テーヴェ。君も私と近しい時を生き、同じ景色を見てきたはずだ。同志として悠久の時を協心戮力してきた君を討ちたくはなかった」

 ソムニアの王はもう一歩、智の巨人に近づいた。
 だがテーヴェは動かない。
 ビアンコの右腕が優雅に振り上げられた。
 その時――。
 一陣の勁風が彼らの間に吹き過ぎる。

「――ハニエルか」

 彼らの前に降り立ったのは美しい女性の姿をした、身の丈七メートルは優に超える翼を持つ者であった。
 ハニエルと呼ばれた彼女は足下で対峙する二名の人間を見下ろし、すぐに少しだけ大きな方へ視線を定めた。
 ダリヤによってネツァクへ繋がったテーヴェはすでにこの世界の一部だ。
 異物はビアンコただ一人。

『小さき者よ。ここではあなたがあなたとしての形を保つことを許されてはいません』

 穏やかな澄んだ声が彼の脳内に響き渡る。
 愛と調和を司るとされるハニエルはそれにふさわしい柔和さでビアンコにむけそう警告すると、その手に持つ巨大なロッドを――音速をもって打ち下ろしていた。弁解する余地も撤退する時間も与えられない。
 だが見越していたかのようにビアンコは身をかわす。
 彼の立っていた岩場は轟音を立て砕かれ、さらにえぐり取られた大地は砂塵となって消え失せていた。
 空中でそれを確認し、己の虎の子を出そうとビアンコが身構えたときだ。
 ハニエルから離れた岩場に降り立った彼の前に、次々と新たな風が吹きつける。
 彼の動じない黒瞳が僅かに見開かれた。

『おかしいな。香りが随分と違うが――これはこれで貴重な養分となりそうな個体だ』
『まぁいいだろう。ヒトの形を保ったままとは見過ごせない』
『越境するのは骨が折れたが、我が世ですりつぶすよりも害がなくてすむな』

 上空に浮かぶ月から吹き下ろされた風より、三者三様物騒な会話が聞こえる。
 この世界の守護者ハニエル以外の何者かが彼の前に現れようとしていた。

「っ――まさか」
「何のためにヒトのアルマを集めたと思っているのです? しかも亮本人の残した因子を利用できた。これは我が矜持がもたらした幸運としか言い様がありません」
「渠は一本にあらず、ということか」

 彼女が何らかの手を用いて他のセフィラから各守護者を召喚したことは明らかだった。
 ネツァクと繋がるセフィラはティファレトを除いても(すでにジオットによってミカエルは消失している)3つ存在する。
 そこから全ての守護者を召喚したとなれば――。
 守護天使一名ですらヒトの力で勝てる相手ではない。それが一度に四名。
 喩えビアンコとてこれに敵うわけはない。
 テーヴェの管理者としての最初の仕事。それはビアンコを消し去ること。
 彼女はダリヤに繋がる瞬間に、全ての手を打っていた。
 ネツァク内部に入り込んだと同時に、他セフィラへの回線を開き、なおかつ久我から奪った亮の因子とオルタナから流れ込んだ亮本人の因子を同時に流し込んだのだ。
 まるでゲボの血に群がる異神のごとく、ミトラの因子に守護天使は寄せられる。
 次々と現れる異形の影に、ソムニアの王の姿は押しつぶされていく。

「――っ、テーヴェえええええっ!!!!」

 乾いた緑の大地に王の声が轟く。
 少女はそれを表情一つ動かすことなく眺めた。