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「どうして駄目なの? お天気いいしすぐ乾くよ?」
 ローチは電子レンジから取り出したジャガイモをボールに入れながら、キッチンカウンターの向こう側でタオルケットを抱えたままぶるぶると首を振りまくる亮に苦笑を浮かべてみせる。
 今朝、洗濯機の初仕事を行うべく家中の洗濯物を集めて回ったローチだが、どうしても一つだけ回収不可能なものがあった。
 服、シーツ、枕カバーやクッションカバー、果てはシドの下着まで、あらゆるものを洗濯槽に放り込むことに成功したのだが――
「これは、いい。自分で洗う」
 抱えられ逃げ回られる亮のタオルケットだけはどうしてもゲットならずだったのだ。
「昨日もそう言ったよ? ここに来てから5日は経ってるんだし、臭くなっちゃうよ」
「まだ臭くねーもん! いいにおいするしっ」
「ふ〜ん。じゃ、嗅がせてみてよ」
「・・・・・・断る」
 やたら大人ぶった口ぶりだ。
 にも関わらず唇をとがらせまたもかぶりを振ると、腕の中に抱えたタオルケットをついに背中に隠してしまう。
 ローチはプフッと吹き出しながら、熱々のジャガイモの皮をむき始めた。
 やはり亮の安心毛布は持ち主の許可がない限り指一本触れさせてもらえないようだ。
 完全なるタオルケット症候群重症者の亮にとって、自分のタオルは絶対領域であり、その手触りや匂いが変化してしまうことを極端にいやがる傾向がある。
 子供にありがちなこの行動は病気ではないが、大人でも大きなストレスを抱える者に起こりがちであり、その点亮は十二分に要因を持ち合わせていると言える。
 まるで犬がお気に入りタオルを咥え、守ってうなる様のようで、ローチはニヤニヤ笑いを抑えることができない。
 しかも大事な宝物を死守したい反面、ローチの今やっている料理にも興味津々で離れることができないらしい。
 結果、背中にタオルケットを隠したまま、キッチンの片隅から離れて顔を覗かせるという面白い状況ができあがっていた。
「はぁ。しょうがないなぁ。じゃあ明日はちゃんと洗ってよ?」
 ローチがやれやれという体で譲歩して見せると、ようやく亮は「うんっ、わかった!」と元気よく返事をし、今は奪われなくなったらしいタオルケットをバタバタとベッドへ返却に走って行った。これは明日も同じやりとりだなと思うと声を出して笑ってしまった。
 当の亮はすぐに取って返すと、今度こそローチの横に齧りつきで手元をうかがう。
「何作ってんだ?」
「ん〜? 何だと思う?」
「ジャガイモいっぱいだし……、マッシュポテト?」
「ぶっぶー。惜しい!」
「ええ〜? じゃあなんだろ、あっちにあるオレンジとかも使う?」
「あれはサラダに使う材料だからポテトとは関係ありません」
「えっ、ポテトはサラダじゃないんだ。うぅ〜……、ヒント。ヒントちょうだい。最初の字は?」
「それ言ったらわかっちゃうよ〜」
「最初の字だけだから!」
「んじゃぁ、特別だよ? ……最初の文字は『が』です」
 今度は新鮮なエシャロットや艶のいいプロシュートを刻みながらそう提示してやれば、亮は「がぁ!? ジャガイモで? そんな料理あるか?」とますますうなり始める。
「ね、二番目の字は?」
「最初の字だけって言ったのに」
「いいじゃん! 二番目だけ!」
「残念もう時間切れ〜。正解は、ガトーディパターテでした」
「…………が……ガト……。っそんな料理知らねーよ! 最初の字言ったらすぐわかるって言ったのに、うさぎさん嘘つきだ!」
「はぁ〜い、うさぎさんは嘘つきでぇす」
 繰り返してやれば亮の顔が赤く染まる。
 ついうっかり口が滑ってローチのことを違う名で呼んでしまうことがあるのだ。
 『古本屋さん』呼びはともかく『うさぎさん』呼びはどうも言った本人も恥ずかしいらしい。
 あえてそれに気づかぬふりで、ローチはガスレンジの上でフライパンを温め始める。
「うさぎさんからお友達の亮くんにお願いでぇす。そこのポテトを全部完膚なきまでにツブしてください」
「もぉっ、わかったからそういうのナシ! ホント、ローチ性格悪すぎだ」
 真っ赤な顔でほっぺをぷっくりさせたままビニール手袋を付け、棚からマッシャーを取り出した亮が全力でジャガイモを潰しに掛かる。
 あの頃の亮の記憶は、ヴンヨの力に当てられたまま幸せな想い出しか残っていないらしい。よって亮にとってローチはいつの時代も良き理解者であり好きな人なのだ。特にうさぎさん時代は幼児退行していた自分がとんでもなく恥ずかしいらしく、それに付き合ってくれたありがたい大人として認識されている。
 ローチとしては亮を公衆便所扱いした極悪人として記憶されていてもそれはそれで面白いと思ったが、こうやって懐かれれば懐かれたでそれもまぁいいかと思う。何よりこのほのぼのした空気に辺りを凍らせんばかりの苛立ちを覚えているらしい男の存在に、料理をしながら治まらない勃起がまた格別だ。こういうときセラでの普段着・長衣は動きやすくて本当に助かる。
 若干動きの制限された下半身のまま、フライパンの中にオリーブオイルを入れエシャロットとプロシュートを炒めていく。
「アハ、ごめんって。そんなハコフグみたいに膨れてないで、そこのパルミジャーノめいっぱいおろしておいて。あとモッツァレラチーズの水切りもお願い」
「……ハコフグ」
 ますます唇を尖らせつつ、言われたことを黙々とこなす亮。
 元来こういう身体を動かして何かを作ることが嫌いではないのだろう。
 ローチが指示するまま、オレンジを剥いたりニンニクを刻んだりする内にすぐに機嫌は回復していく。
「ローチはほんとに料理上手だよな。古本屋さんのお弁当マジ美味かったもん」
「ふふ、ヴンヨなのにハガラーツ並みに手先が器用なのが僕のウリなんだ。あ、そこのガラス皿取って」
「これ? 耐熱?」
「そう、オーブンで焼くわけよこのお料理は。これにバター塗ってパン粉まぶして」
 指示しながら、亮が下ごしらえをしたオレンジとにんにくのサラダの味を調え完成に持って行く。
「あ〜あ。こんなの修にぃにも食べさせてあげたいな……」
「昨日のアレはもう解決したじゃない。ここはサザエさん時空だから、ここでいくら時間が経っても現実世界では全く時は経ってないんだって。だからお兄ちゃんも心配いらないよ」
 昨日、亮は両手をズタズタにして血みどろになっていたにも関わらず、車での帰還ではなくシドに抱きかかえられアスワドに揺られて帰ってきた。
 アブヤドはその後ろを心配そうに付き従い、ローチはそのさらに後ろを家電一式を乗せた軽トラを運転しついて行くという面白イベントが発生したのだ。
 大きな静脈やへたをすれば手の腱すらカットしていそうな大怪我をしたというのに、今日はこうして(ビニール手袋装着ではあるが)元気に料理しているなど亮のゲボとしてのポテンシャルは折り紙付きだ。
 原因はシドとのケンカらしいが、そのケンカの原因はというと亮がべったりの血の繋がらない兄に対してだという。
 下手をすればこのセラへ永遠に閉じ込められることを覚悟で居残ったローチは完全に勝ち組だ――と、この顛末を聞いてセクシーなため息がこぼれた。
 毎日こんな面白いことが起きるのは、初回転生以来ではないだろうか。
「そうだけど、でも、やっぱ修にぃに会いたいなってオレが思っちゃうのはしょうがないだろ」
「お兄ちゃんにだけ? お父さんやお母さんは?」
 亮と両親の間には、肉親にも義父にもなにやら溝があることは調査によってわかっている。それを敢えて素知らぬふりで攻め込めば、ダイニングの向こうに見えるソファーの上からビリビリと恐い空気が流れてきて、ローチはその形の良い唇を尖らせ熱い息を長々と吐いた。
「成坂の方の父さん、は、多分、オレのことあんま好きじゃないから、料理しても食べてくれないかもなぁ。あ、でも、諒子は食べてくれると思う。そんでめっちゃ褒めるしキスとかしてくる」
「リョウコってお母さん? シドの妹弟子とおんなじ名前だね」
 ガツンとした冷気がローチの頬を叩いた。
 さすがに亮すらそれに気づき、皿にまぶすパン粉を削りながらそちらへ視線を飛ばす。
「シド? おなかすいた? ご飯まだかかると思うぞ「ブフッ」
 だがその内容までは理解していなかったようだ。
 思わず被せるように吹き出してしまった。
 シドと兄妹弟子の諒子が亮の母であるという情報をローチが仕入れたのは、亮がセブンスより戻る以前のことだ。
 シドとしては兄弟子として妹の子に手出ししたようなもので、あまりバツがよろしくないのだろう。今後そこを中心にシドをチクチク責めてやろうかとも考え、ローチはますます楽しくなってくる。
「汚ねーなぁもう。何で笑うんだ? サラダ作りながら唾とばすなよ」
「ヒヒヒィ、ご、ごめんごめん」
「てか、おんなじ名前じゃなくて“同じ”なんだと思うけど」
「……へ?」
 あっけらかんと言われた言葉に、一瞬。本当に瞬きの間、沈黙とも言えないほどの空白が空く。
「だから、オレの母さんの諒子は、シドの兄妹弟子の諒子ってこと。な、そうだよな、シド!」
 思わずローチはソファーの上で古書を構えたままのシドを眺め、次にすぐ横の亮の顔を見た。
 返事もせず完全に動きを止めているシドに比べ、亮はシドとの会話が続いていないことにすら何の感慨もなさそうに、真剣にパン粉作りにいそしんでいる。
 ローチは藪をつついて蛇を出してしまった事実に「ひぇっ」と小声で息を呑んで、おそるおそる先を続けた。
「あれ、嘘、なに、亮くん、それホント? 誰かに聞いた?」
 日頃から説明不足が板に付いているシドが言いにくいこの話を亮にしたとは思えなかったし、デリケートなこの話をセブンスからこちら精神的に追い詰められる状況の続いたこの子供にする大人がいるとは思えなかった。
 それ故ローチも核心に触れる言い方を避けてからかいの材料にしたわけなのだが、どうやら当の本人はすでに真実を知っているらしい。
「だってさすがにわかるよ。シドも何度かリョウコの名前言ってたし、ガーネット様からも聞いたことある。ただ同じ名前だけだったらこんなにみんなしてオレに諒子のこと言わないだろ?」
 誰に決定的な何かを言われたわけでなくとも、たとえお勉強が苦手なタイプの頭の作りをしていたとしても、本能的な勘で子供は悟ってしまうものなのだと、部外者であるローチはしみじみと亮を見た。
「…………つまり――父さんはシドを弟子だって言ってたから諒子もそうだってことだよな。師匠と弟子で結婚かぁ。……うーん、でも師匠が弟子に手出すのって良くないんじゃないのか?」
 思わず手にした菜箸が落ちボールに跳ねてカラリと作業台に転がった。
 今亮がなんと言ったのか――。
 いや、これだけ自分の出生について悟ってしまう彼ならば、そう考えるのも当然だとわかってはいても、大人二人は言葉を失う。
「……え、だって、『朱天』ってシドのことだろ? こないだ会ったとき父さん、オレの太刀筋がそっくりだって言ってたもん」
 気まずいような空気を敏感に感じ取り、取り繕うように亮がモゴモゴと口ごもった。
 何かを言おうとした気配が離れたソファーから上がったのはわかった。
 だがやはり、声にはならない。
 シドにしてみればまさか秀綱がシドのことを直接亮へ伝えているとは思いも寄らなかったのだろう。
 改めて突きつけられる、亮は全て知っているという事実。
 大好きな母親も、そしてさも縁もゆかりもない子供を保護してきたかのような顔で振る舞っていたシドすらも、本当は亮の不幸の元凶に深く関わる存在だった。――その事実を知った瞬間、彼は何を思ったのだろうか。
 ローチは黙したまま落とした箸を流し台に放り込むと、サラダに必要以上にゆっくりとラップを掛ける。
 なんと答えるのが最もシドにダメージを与え、最も亮をからかえるのか。
 いつものように幸せな回路をフル回転させてみるが思うような解答が浮かぶことはなく、やれやれ自分もいよいよ薄気味悪い庇護欲とやらに毒されてきてしまったらしいと改めて絶望する。
「……違う? でもなんか聞いたとき、すぐそうなんだって思ったからオレ……」
 そんな彼らの罪悪感など少年には知る由もない。
 自分の解釈が違うのかとおそるおそる問いかけるその顔に、影は微塵も見られない。
 この中にあってただ一人少年は戸惑いの向こう側に達しているようだった。
「……正解。昔シドはお師匠さまに、そんなどっかの鬼みたいな愛称で呼ばれてたんだ。それに気づいちゃう亮くん、鋭い」
「っ! やっぱ当たり? だよな! 気づいた時はちょっとびっくりしたけど、まぁそっかって思った」
 得意げに手作りパン粉を振りかける亮の頭に、なぜか手が伸びていた。
 柔らかな黒髪をくしゃりと撫でる。
 自分が“幸福”について鈍感であるのと対極にこの子は“理不尽”に対して感受性が麻痺しているんだと感じ、撫で続ける。
「……なに? ローチやめてよボサボサにすんな」
 それをいつもの嫌がらせと受け取り文句を垂れる子供の手からパンくずを取り上げると、彼は手を洗うように次の指示を出す。
「後はオーブンに入れるだけだから、シドを構ってやって」
「え、もうおしまい? 意外と簡単じゃん。どんな料理に仕上がんだろ」
 ワクワクを隠せない様子で手袋を外し傷をよけつつ手を洗う亮を背に、わざとソファーまで届く声で続けた。
「ほんと、さっきの話、言われてみればそうだよねぇ。あの師匠にしてこの弟子あり。公序良俗違反流剣術なんて習うのやめたら?亮くん」
 ブンと唸りをあげて貴重な古書が彼方から投げつけられ、背後からは「なんて?」とさわやかな声が聞こえた。