■ 5-69 ■





 石造りの床をペタペタ音を立てリビングソファーに駆け寄ってきた亮が、その勢いのまま膝に飛び乗ってきたのをシドは揺るぎない安定で受け止める。
 途中テーブルの足下へ転がった由緒正しいハイヤーンの古書を回収した亮は、キッチンへ向かいそれを放り投げた本人であるシドへ手渡す。
 向かい合わせで上からシドの手にした古書を覗き見る亮に「読みたいのか」と問えば、「絵がないしいい」と無表情で首を横に振った。
 オーブンに火を入れたローチが「ワイン買い足しに行ってくるから、オーブン30分したら出しといて」と言い置いて出て行ったのはついさっきのことだ。
 そんなわけで現在広い屋敷に二人きり、昼下がりのゆったりとしたひとときである。
「それ何語? ニョロニョロした変な字だ」
 精神的に少し落ち着きを取り戻した本日、亮はあからさまにローチの前でくっつくことはしなくなっている。
 だがその目がなければ以前の亮ではあり得ないほどシドとの距離感がないに等しいことには変わりない。
 今も亮は向かい合わせに身体を預け、シドの首元へ頬を寄せてシドの手元をのぞき込んでいる。以前の亮が見れば悲鳴を上げそうなほどの接近ぶりだ。
 シドは返却された書を再び閉じると床へ落とし、己の肩へ添えられていた亮の両腕を取る。
「昨日の傷はどうだ、見せてみろ」
 肘から拳に掛けて無数に入った傷跡は盛り上がり引き攣れを起こしているが、どれもすでにふさがりかけているようだ。
 赤みを帯びた腫れもおそらくあすには引き、三日もすれば痕一つない元の透き通る肌へと戻っていくのだろう。
「もう痛くないし、平気だって」
 じっと眺められる行為に居心地悪そうに頬を染め、亮は腕を引いてちょっとした抵抗を見せる。
 しかしそれを許さず、シドはその熱を持つ傷口を冷やすように唇を当てた。
 食むように傷の畝に沿ってちゅっちゅと唇を落としていく。
 亮は思いも掛けないその行為にくすぐったそうに笑った。

「ふひひ、何すんだよ、シドここに来てから変!」
「なにがだ」
「だってオレのこと好きみたいなことする」
「好きだからな」
 パチリと音のするほど瞬きをし、亮がシドを見た。
 自分の耳が何を捕らえたのかわからないといった顔だった。

「好きだ、亮」

 シドの眼も、今は膝上にいるせいで少しだけ高い位置にある亮の大きな瞳にひたりと据えられる。
「…………!?」
 完全に固まってしまった亮の様子に構うことなく、いや、敢えて気づかぬふりで、シドは再び作業を続行し、次々と亮の身体の部位に唇を落とし始めた。

「ここも」
 腕。
 指先。
「ここも」
 肩。
「ここも」
 胸。
 ゆっくり、ゆっくりと口づけていく。

「シ……」
「そのマヌケな顔も――」
 大きな手のひらで頬を掬い、じっと見上げる。

「――愛しくてならない」

「っ!? ぉ、オレのことからかってんな!? そういうの最低だぞ!」
 照れと怒りがない交ぜになった朱が亮の頬をみるみる染め上げ、シドはその様に乏しいはずの表情を緩ませた。
 相手を凍てつかせ血肉を砕く武骨な腕が亮の細い腰へ回されると、柔らかく拘束を施す。
 動きを封じられ、亮はシドを見下ろすことしかできない。

「おまえの心もアルマも――全部、欲しい」

 反射的に亮は顔を背け、逃げだそうとする。わけもなく身体が勝手に動いていた。
 だがシドは絶対的な膂力で捕らえ離さない。ぐっと後頭部をつかむと泣きそうな亮の顔を三センチの距離まで引き寄せ、

「逃げるな」

 と、犬のしつけでもするかのように短く叱咤した。
 亮は耐えきれずぎゅっと目を閉じる。
 その震えるまぶたに口づけし、今度は柔らかな声でささやいた。

「目を開けろ」

 三秒待って、亮はそろそろと言葉に従った。
 シドが自分を見上げている。深紅の睫の束が数えられるほどの距離だ。
 いつもの亮をからかう意地悪な顔じゃない。
 睨まれるだけで凍り付く琥珀の狼眼が柔らかに亮の顔を映している。コーヒー花のはちみつみたいな色だと亮は思った。

「そんなの、うそだ」

 声にならない声が擦れて唇からこぼれる。それを掬い上げるように頬に添えられたままだったシドの手が髪をすく。
 胸が波打つほどに心臓が跳ね続けていて、それをシドに知られたくない。だけどそんなのとっくに気づいているんだろうな――と亮は頭の片隅で人ごとのように思う。
「なぜ信じない」
「っ、あたりまえだろっ! オレが入院してるとき、電話にも出てくんなかった。また来るって言ったのにずっと来なかった。好きならいっぱい忙しくても声が聞きたくなるってルキは言ってたし、フレズさんはルキといつも電話してた。のに……、」
「――俺が愚かで体裁と胸底の区別も付かない男だった時の話か。そんなヤツはオルタナで炭にされて焼け死んだ」
「……へ?」
「亮。あの時、俺はおまえのそばに居続けるべきだった。樹根核などにおまえをさらわせず、病状が落ち着いたらすぐにでもここへ連れてきていれば良かった。――おまえがここにこうして俺の腕の中にいることこそ、何よりも重要だったとあの時俺はなぜ自覚しなかったのか」
 臆面もなく繰り出されるありえない言葉の羅列に、亮は目を白黒させ、目の前のこの男が本当にシドなのか――なんならセラに生息する人をだます生物か何かが化けてるんじゃないのか――とまで考えて、身を固くする。
「な……、なに、言って……、っ、シドがそんなこと言うわけねぇもん! だって、シドは、オレがおまえの弟子だから助けてくれるだけで、オレのこと面倒くさいガキだと思ってるの、オレちゃんと知ってるしっ」
「助けるのは弟子だからじゃない」
「じゃあ、オレがシドの師匠の子供だから、助けてた……んだ」
「その事実を知る前からおまえには面倒掛けられているぞ」
「…………ぅ、ほら、やっぱり、面倒くさいんだ」
 眉尻を下げ少しばかりしょげながら、このつっけんどんな言い方はやはり間違いなくシドだと亮は実感する。
「面倒なのにおまえがそばにいないと駄目になったと言っている」
 そっと抱き寄せられ耳元で囁かれた亮は、逃げだそうと力のこもっていた身体からへたりと力が抜け、倒れ込まないようにシドの胸へ手を突いた。
 手のひらからシドの鼓動が伝わる。
 いつも緩やかな彼の振動が、セックスしている時のようにリズムを刻んでいる気がするのはなぜなのだろう。
「っ、……そんなの、変だ。急に変だ」
「急じゃない。今までの己自身を引きずり過ぎて……気づくのが遅れただけだ」
「意味わかんねぇ。フツー好きになった時、好きって気づくだろ……」
 シドは一瞬目を見張ると、少しだけいつもに近い意地悪な微笑を口もとに取り戻し先を続けた。
「おまえはどうなんだ、亮」
「へ?」
 思いもしなかった反撃に亮の声が裏返った。
「すぐに気づいたか?」
 「気づくのか」ではなく「気づいたのか」。――過去形でなされる問いかけは、すでに答えはわかっている言い回しだが、亮はそれに気づかない。
 はくはくと息を乱し言葉に詰まる亮の赤い顔を見上げながら、意地の悪い尋問を続ける。
「俺のことをどう思ってる」
「……っ、ど、どうって……、そんなの」
「好きか?」
「っ……」
「俺が――欲しいか?」
「!!!!???? な、なな何言って」
「欲しいなら全部やる。頭のてっぺんから足先まで。心臓もイザの力も何もかも、アルマごと全部おまえにくれてやる。亮――」

 ――だから俺を欲しがれ。

 声なき声で囁かれた亮はついに翼を羽ばたかせ、跳ねるようにシドの腕をすり抜けると、
「っ、い、い、いいいらねぇし!!! シドのくせにキモいんだよっ!!!」
 大きく翼を羽ばたかせてリビングを飛び出していく。むき出しの腕や脚までも見事な桃色に染まっているのが淡い午後の光に浮かび上がって見えた。
 その背を見送ったシドはソファーに再び背を投げだし、虚空をにらみつけるとため息を一つつく。
 空気が細く凍って紫煙のように立ち上り、きらきらと溶けていった。

「録画は今すぐ消せ」

 誰に向かっての言葉かそう呟いたシドの声に呼応し、下品な笑い声が響いたのは亮が飛び出していったドアの向こう側からだった。
 ひぃひぃと涙を浮かべて笑いながら扉を開けたローチの手には、スマホサイズのコントロールパネルが携えられている。
 どうやら昨日照明や家電導入に合わせて勝手に設置したカメラを存分に活用しているらしい。
「おまえが口説くとこ初めて見たw」
「……ワインの買い出しはどうした」
「へたくそ過ぎてウケんですけど」
 ソファーの傍らまで近づきシドの顔を真顔で眺め降ろしたローチは、再びぷすーっと吹き出し笑い出す。
「あと、あれで謝ってるつもり!? 「体裁」だの「胸底」だの――難しい言葉で煙に巻いてやり過ごそうとか汚い大人丸出しで安定のシド・クライヴだったわ」
「・・・・・・。」
 シドは黙したままわずかに眉間にしわを寄せ瞳を閉じた。
「亮くんには「あの時の俺はヘタレで建前ばっか気にした大馬鹿でした、ごめんなさい、自分のキャラが立ち過ぎてたせいで、こないだやっと亮が大事なことに気がついた鈍感野郎です。本当は好き好き大好き亮愛してるv俺以外見ないで嫉妬しちゃうから」くらい直球で言わないと伝わらないでしょ」
 真面目な顔で見下ろしているが声の端々から冷やかしが溢れんばかりのローチに、シドはコメントを返すこともなく渋い顔で目を閉じたままだ。
「ヤりたければいつもは相手から寄ってきてくれてたもんねー? そりゃ色々鍛えられてませんわ。でもお仕事でそういうことやってたんじゃないの? 元諜報局局員さん」
「仕事であんなクソガキ口説くことなどない」
 しばらく真顔でシドを眺めた後、再びぷすーっとローチの薄い艶やかな唇から空気が漏れ出た。
「――おい」
 ようやく身体を起こし、傍らでニヤけながら見下ろしている男をにらみ据える。
 誰もが震え上がるイザ・ヴェルミリオの剣呑な眼光も、しかし当のローチには柳に風で何の効果もない。それどころか苛立ちを隠しきれない彼の様子が小気味良くて仕方がないと言った風情だ。
「ひひひ、ひ、ま、まぁいいんじゃない? 時間は無限にあるんだし、ゆっくりやんなよ。――おまえらには今までまともな時間が少なすぎたんだ。二人っきりでお互いを見つめ直したらいい」
「……おまえはここを出るということか」
 珍しく殊勝な言いぐさを放つ旧知の男に、わずかに毒気を抜かれたようにシドが問い返せば、
「は!? まさか! 気が済むまでいるけど。僕のことはこの家の床か壁だと思ってくれて構わないよ」
「・・・・・・っ」
 通常思いも付かない異常な答えが返ってきて、シドはだらしなく投げ出されていた長い足を振り上げると、傍らの動く壁に向かい蹴りつけていた。