■ 5-70 ■





 ひんやりとしたキッチンでローチはマーブル製のシンクを巻かれて行く流水を眺めながら皿を洗い上げていく。
 あの後結局、亮との合作である自慢のガトーディパターテもオレンジとニンニクのサラダも、ローチ一人の胃袋にすっかり収まることとなってしまった。
 最高に不機嫌なシドは冷気を抑えようともせぬままリビングにある気に入りのソファーへ移動し呼びかけに答えることもなかったし、飛び出していった亮は帰らぬまま昼食の時刻を過ぎてしまったからだ。
 一人で三人分の昼食をペロリと食べきったローチはのんびりと片付けに取りかかり、どうせ図書塔に並べられた前持ち主の著書を読み漁るしかできないでいる恋愛初心者を放置したまま、重たいココット鍋をキクロンスポンジで丁寧にこすりつけている。
 無言で家事を続ける様は二名の同居人と同じくローチも不機嫌に感染し、それを態度で表しているようにも見えたが――実のところ彼の頭の中は別の考え事でいっぱいであった。
 普段であればそれを話の種にしてシドなり亮なりをからかいにいくところなのだが、今回はそんな欲求も生まれない。

 ――あれは、どういうことなのか。

 ローチの怜悧な美貌は表情をなくすとますます作り物のようであり、人間味を失う。
 それを自覚しているからこそ、普段の彼は人目がない場所にあっても常に緩い雰囲気を纏っているのであり、特注のアイテムを使用して肉体とアルマの姿を分断させているわけであるが、今現在身についたその擬態を行うことにすら気が回ってはいないらしい。
 とっくになめらかさを取り戻したオレンジ色のココット鍋をゆるゆると磨き続けていたローチは、真鍮製の蛇口より勢いよく流れ落ちる水柱を手の甲に受けながらギュッとスポンジを握りしめる。冷水の粒が白い肌に弾かれ花のように散った。
 顔を上げれば長めのプラチナブロンドがさらりと肩からしなだれ落ち、目を細めて未だ陽光差し込む窓外へ視線を向ける。
 開け放たれた大きめのアーチ窓からは潮風が吹き込み、白い光にレースのカーテンが波打っていた。
 晩夏初秋の空は幾分高く、真っ青だったはずの空は淡い水色へと移ろい始めている。
 夏が好きだと言った亮の求める季節は過ぎ去ってしまったが、だがしかし嘆くことはない。
 秋が来て冬が来てしまってもまたすぐに春を過ぎ夏がやってくる。
 何度も何度も同じ夏は彼らを迎えに現れる。
 ここはそういう場所なのだ。
 だからこそ、彼らはここへやってきた。

「さて。んん……、どうしようかな」

 呟いたローチの声は人生の指針について心底迷っているような真摯な響きにも聞こえたが、夕食のメニューを検討する主婦の日常にも似た気安い響きにも聞こえた。







 夕暮れの厩は赤い陽に色づけられ空気を含んだ晩夏の風に吹かれている。
 夏の名残の長い芝がさざめき、亮は彼らの歌を聴きながら柔らかに差した焦げ色の影に身を潜めて膝を抱えていた。
 顔を上げると心配そうな気配を見せる黒い瞳がこちらを伺っていて、申し訳なさに苦笑が生まれる。
「アブヤド、オレは大丈夫だからそんな顔しないで」
 それに返事をするかのごとく、アスワドの方が鼻を鳴らした。冷静な様子で「大丈夫そうには見えないが」と抗議の声を上げたように思え、亮は「ホントだって」と黒の巨体に頷いてみせる。
 二頭の馬が心配するのももっともで、亮は昼を回ってすこし経った陽のまだ高い時刻からこちら、ずっとこの場所でうずくまったまま外の様子をちらちら伺い続けていた。
 時折突風で低木がざわめくとビクリと身を竦めて息を殺す様は、明らかに何者かに追われている逃亡者としか思えない。
 高度なライドゥホの力で生み出された二頭は本物の馬以上に人間の心を感じる能力に長けているようで、好意を寄せる亮の異常な様子にお互い何度も視線を交わしては見守るように亮を見つめていた。
 ふと、四つの耳が立ち上がり馬たちが首をもたげる。
 うつむきがちな亮は一瞬遅れてそれに気づき慌てた調子で顔を上げたときにはもう、新たな訪問者が厩の中へ足を踏み入れた後だった。
「なぁにかくれんぼしてんの?」
 蜜柑色の逆光に立つ白い影は、さらりとしたシルクのチュニックを揺らしながら近づいてくると亮の横に座り込み顔をのぞき上げる。
 配色が淡く細身のローチはシドといると目立たないが、こうして側に寄られれば190を越える長身を有しているだけにやはり圧は強く場所も取る。結果亮はあっというまに逃げ道をふさがれてしまうこととなった。
「っべ、別に隠れてなんかない……」
 それでもどうにか抜け出せないかと腰を浮かしかけた亮の腕を捕まえたローチは、亮の身体を閉じ込めるように抱き上げ、己の長い足の間に納めてしまう。
「へぇ、そう。それにしては僕のお昼ご飯もすっぽかしてあれから戻ってこないし。白黒たちとそんなに積もる話があるわけ?」
 慌てたようにもがく小さな身体を後ろから体重を掛けるように抱きしめれば、他愛もなく観念するしかない。
「ぅぐ、重いよローチ」
「亮くんのせいでシドがずーっと機嫌悪くて部屋の中が寒すぎるんだけど。ケンカしてるならさっさと仲直りしてくれないかな」
 掛けていた重心を後ろに戻し亮を抱え直すと、亮はローチの言葉に戸惑ったように口ごもる。
「ケンカなんかじゃねぇけど……」
「はい嘘ぉ。僕が買い出し行ってる間なにがあったか知らないけど、シド、泣いてたよ? 亮が構ってくれない〜って」
「はぁっ!? そっちこそ嘘だね。シドが泣くわけねーもん」
 むっとした調子で睨み上げる亮の肩口に顎を乗せ、ローチは整いすぎた面を傾けて亮の顔を覗き見た。
 すぐにからかい半分の意地悪が返ってくると身構えていた亮は肩すかしを食らったように瞬きをする。
「そっかなぁ。……シドだって泣くこともあるかもよ?」
「見たことないくせに適当言うな」
「……見たことあるから言ってんのに」
 突如雷に打たれたように固まった亮は息をするのも忘れたまま、肩先に乗ったローチの白い顔をまん丸の黒瞳に映す。
 ネコのフレーメン反応のようなその表情に吹き出しそうになるのを堪えつつ、ローチは鼻先をくすぐる甘い少年の香りを胸に吸い込んだ。
「っ、なんで? いつ!?」
「さぁ、いつだったかなぁ」
 ローチは昔からシドと一緒に居て自分の知らないシドをいっぱい知っているんだと亮は改めて思い至る。
 唇がへの字に。眉がハの字に。それぞれ下がってしまった亮の頭の上に同じく垂れてしまった耳を想像し、ローチの側は目尻を下げた。
「ずっと前? オレが生まれてない頃?」
「どうだったかなぁ」
 本当はつい一週間ほど前。このループザシープに来た当日、眠り続ける亮を抱えての出来事なのだが、亮の顔を眺めているとローチの悪い部分がうずき出してわざと欲しがる答えを背中の後ろに隠してしまう。
 さてどんな反応がくる? 泣いちゃう? それとも焼き餅ですねちゃう?――そんなワクワクを心の檻に囲い込み涼しい顔で微笑む大人は、次の瞬間想像とは全く違う方角から質問が飛来し、虚を突かれてアメジストの瞳を見開いた。
「ローチは……、なんで助けてくれるの?」
 想定外の質問にどう答えようかと考えた一呼吸で亮が滑り込ませてきたのは、
「……ローチは、……古本屋さんはオレのこと嫌いなのに」」
 更なる地雷発言だった。
 そう言えば亮はTDLでローチが亮を攫おうとしたことをはっきりと覚えていると、以前宣言されたことを思い出す。
 思わず本音で亮を殴りつけてしまったあの日。考えてみればあの時からローチの亮を見る目が変わったのかもしれないと、意地の悪い大人は不覚にも目を伏せた。
「それなのに、樹根核まで来て怪我してこんな遠くのセラまで連れてきてくれて。ご飯も作ってくれるし、怪我も手当てしてくれる。なんで?」
「それは……」

「シドのことが好きだから?」

「…………Uh-on」
 地雷発言の上を行くあまりに核心を突く発言に、ローチの脳裏に(若いって凄いなぁ)という何の解決にもならない新鮮な驚きがぽかりと浮かぶ。

「だからシドのついでにオレも連れてきてくれたんだろ? シドとローチ、昔付き合ってたし」

「…………Whoa! 待て待て待てなんでそうなる」

 この発言にはさすがのローチも看過できず柳眉を逆立てて少年の言葉を押しとどめてしまう。
「…………有伶さんもシドは昔すごい美少年と付き合ってたって言ってたし、ローチは若い頃超可愛かったって自分で言ってた。今のローチめちゃくちゃ綺麗だし多分めちゃくちゃ可愛かったのわかる。だから昔ここにいた頃ぜってぇ二人は付き合ってた。だから色々知ってておかしくない。シド泣いたこととか」
 淡々と言葉を紡ぐ亮は抱えた膝に顎先を押しつけ、じっと馬の足を眺め続けている。
 言おうか言うまいか迷っていたことを遂に口にしてしまったという息苦しさに耐えているような顔に、ローチは小さくため息をついた。
「いやいやいやいや、多分亮くんの言う付き合うとはだいぶ違う付き合い方だと思うよ?」
 有伶何言ってくれてんだとここにはいない昔なじみに盛大な恨み節を贈りつつ、若者らしく突っ走っていく思考に待ったを掛けてみるが、そんなものでは少年の駆け出した思いは止まらない。
 普段真綿の詰まった発泡スチロール並に色恋に鈍い亮が、ことここに来てとんでもない名探偵ぶりを発揮するのはどういうわけだと眉間のしわをもみほぐす。
「ね。……好きって、どんな感じ?」
「いやだからね……」
 そこまで言って亮のあまりに真剣な顔に言葉を止める。
 これは煙に巻いていい感じじゃないなと観念し、年甲斐もない恋バナに身を投じる決意をせざるを得ない。
 それに考えてみればシドとの関係に気づかれたからと言ってなんで自分が焦っているのだろうかとフシギに思う。
 少なくとも学園で古本屋と生徒として顔を合わせていたときは、いつネタバレしてやろうかと舌なめずりし劇的チャンスをうかがっていたはずだ。
 このまだ生まれて15年しか生きていない生命体の感情を攪拌して磨り潰してこね回して、安いプライベートブランドの六枚切り食パンに塗って食べてやりたいと加虐的な思考に酔いしれたものだ。
 だが今ローチの心の中を隅々まで探しても、その欲はパン屑ほども見つかりそうになかった。
 今度は一つ大きくため息をついた。
 天を仰ぐと、腕の中の小さな身体を抱え直す。
「う〜ん、好き、か。僕の場合はまず怒らせて、次に遠くから観察して、結果意地悪されたくなるって感じかな」
 真剣に己と向き合った結果を亮に返してやるが、その答えを受け取った少年はしばし考え込んだ後わずかばかり首を傾けていた。
「よく……わかんねぇ」
「……そうだろうね」
「じゃあやっぱりオレのは違うのかも」
 怒らせたくないし、意地悪されるとムカつくし、そのくせずっとそばに居たいし。とブツブツ言い出す亮に苦笑が漏れる。
 多くの人間はそれを好きというんだとローチは知っている。
 だが世は多様性礼賛の時代だ。改めて考えてみればローチの好きも範疇は超えていない気もしてきた。
「オレは自分がわかんない。自分が何を思ってるのかもわかんねーのに、ローチはシドと昔付き合ってて、ローチは今だってシドが好きでオレはどうすればいいのか全然わかんない。脳みそがぱんぱんになって爆発する」
 誰に聞かせるでもなく己の溢れる感情を冷却するため垂れ流し続ける少年の様子に、ローチは目を細める。
 単純に覚悟を決めてここに来たつもりだったが、
「……この際プランBでいこうかな」
 そう口の中で呟いて下唇をぺろりと舐めた。
 ローチの物騒な方向転換など亮には気づく余裕もない。ただ、ヒトのアルマ波動に敏感な馬たちだけは彼らなりの渋面を作ってローチの方を見ているようにローチには思えた。
「好きは人それぞれ個性があるから正解はないんじゃない? 亮くんの場合はどうなの?」
 回答を促すように抱きしめた腕をほんの少し強く締め付けてみれば、亮は爆発しかけているらしい脳みそを軋ませながら動かし、「オレ?」とわずかに振り返る。
「それがよくわかんないから聞いてるんじゃん!」
 妙な逆ギレを見せられローチは苦笑した。
「シドから告白されたんでしょ? 好きだって」
 亮の顔が爆発したように真っ赤に染まり上がる。
「はっ……ハァ!? こっコクハクなんかじゃ、っ、アレ、ハ、ナンデ、そんなこと、シッテ」
「“おまえが欲しい”って言われてたじゃない」
亮の身体がわなわなと震えだし、真っ赤な顔を覆い隠すように膝小僧を抱え込み丸まってしまう。ローチの背中にゾクゾクとよく知る快感とは別の愉絶が這い上ってくる。
「アレハ、シドがオレをカラカッテ……。…………み、見てたのかょ」
「うん。見てた」
 にっこりと微笑むと茹で上がった亮の赤い耳をつまみ、内緒話でもするように唇を寄せる。
 前々から兆候はあったのだが、こっち側も僕いけるんだな、とうっとり眼を細めた。
「ね。からかってあんなこと言うかなぁ、あのシドが」
「・・・・・・。」
「僕がシドのこと好きだって亮くんは思ってるんでしょ? それなのにその僕にシドとの恋の相談なんて、……亮くんってば性格ワルぅ」
「っ、ちが……違う、そんなつもり、なくて、オレ……」
 思わず上げた顔を片手ですくい上げ、「何が違うの? 小悪魔ちゃん」ふっと熱い吐息を吹き込めば、亮の身体は面白いようにビクリと跳ね上がる。
 抱きしめていた腕を緩め強靱な膂力で亮の身体をわずかに回して横抱きに押さえ込むと、ローチのアメジストが亮の丸い瞳を噛み合うように捕らえていた。
 そして瞬間、亮の動きが止まる。
「僕からシドを奪い取った優越感、気持ちよかった?」
 アメジストの滴る眼差しに、亮の意識はバーナーで焼かれたバターのように瞬く間に蕩け、焦げ付き、食欲をそそる香りまで発していくようだ。
 大きな白い手が懐の中から一粒の錠剤を取り出すと己の口に放り込み、美しく整えられた歯がそれを噛み砕く。
「ちが、オレ、は……」
「なぁんて……、わかってるよ? 亮くんが何も考えてないお馬鹿ちゃんだってこと。自分が苦しくなって、人の気持ちまで考える余裕、なかったんだもんねぇ。仕方ないよね?」
 真っ赤な舌を差し出しとろりとした蜜を纏わせて、亮の唇へ唇を重ねていく。
 歯列を割り小さな舌を絡め取って、ハッピーブリーズのタップリ効いた口づけが施される。
 ヴンヨの力を解放したローチの唾液は無希釈の麻薬よりもヒトを狂わす。
「ん……っ、ぅ……ぁ……」
 少年は蕩けた瞳であえぐように息継ぎをするが、すぐにまた真っ白なローチの甘い口づけに捕らえられ、濃厚なヴンヨのエキスを流し込まれる。
 あふれた雫がどろりと口の端からこぼれ、コクリ、コクリと亮の細い喉が動いた。
「ぅさぎ……しゃ、」
「アハ。あの頃に戻った! か〜わい」
 ちゅっちゅと口づけを施しながら、ローチの手がいたずらに亮のシャツをズボンから引きずり出し、熱くしなやかな肌へと忍び込んでいく。
「僕は知ってるよ。ずっと前から」
 その手は背中へと回り込み、亮の翼の付け根を優しく撫でていく。亮の身体がびくびくと跳ねる。
「亮くんがシドを、だ〜い好きなこと。それを今のまんま素直な気持ちで伝えてあげればいいと――」
 ローチは顔を上げ、同時に亮の襟首をつかみ己の身体から引き離す。

「――思うんだけど、ね。…………キミもそう思わない?」

 彼の腕の中には亮の姿形をした別の何かが居た。
 深淵の黒瞳がローチの白い姿を鏡のように映している。
 あの時――。
 シドが初めて亮を口説いて撃沈した面白ビデオの最後に映っていた違和感。
 それと同じものが今ローチの目の前にある。
 シドの告白に混乱していたはずの亮が部屋を飛び出して行きざまちらりと送った視線はローチの目とはっきりとぶつかったのだ。
 それは亮がローチの仕掛けたカメラを知っていなければできない行為であったが、亮は当然知りようもない。
 なにより――平坦で均された感情のない目は興奮で潤んだ少年のものとはかけ離れていた。
 亮の意識が飛びかけているときに現れた何者か。その正体は一つである。
 ローチは昼食を一人とりながら延々とそのことを考え続けていた。
 アブヤドがいななこうと首を振り上げた瞬間、ローチはジェスチャーで声を出すなと馬たちを諫める。
 この事実をまだシドに知らせるつもりはなかったからだ。
 新世界の卵を今ローチは抱いている。
「ん……っ、ぁ……」
 その感覚に身をくねらせ、ローチのぽてりとした唇から喘ぎ声がこぼれた。