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 次の日の朝。
 目が覚めたらもうローチは居なかった。
 ローチからの告白と決意を聞いて、よく眠れぬまま明け方まで何度も目を覚ました亮がいつの間にか眠りの淵に落ちていき──暖かなベッドの中、シドのひんやりとした体温で安寧の時から目覚めて見ると、そこはにはもうあの頭のおかしな魔法使いの姿はどこにもなかった。
 全人口の三分の一を失ったループザシープの国民は、王様とその弟子の二人だけだ。
 最初は気づかなかった。
 また街に買い出しにでも行ってるんだろうと思った。
 だってローチはここを出る準備で色々しなきゃいけないことがあるみたいだったから。
 でもそうじゃないとわかったのは、馬小屋から姿の消えていたアブヤドが、背中に誰を乗せるわけでもなくたった一頭で戻ってきたときだった。
 どこか肌で感じていた違和感はやはり思い過ごしなどではなかったのだ。
 それでも心当たりのある裏の畑やローチの部屋、屋根裏やビーチ。
 冬のキラキラした空気の中、白い息を吐きながら亮は探し回る。

 ──どうして。
 ──なんで!
 ──明後日って言ったのに。
 ──なんでなにも言わないで行くんだ。

 二度と会えないと自分で言ったのに。
 こんなにあっさり、騙すみたいに消え失せるなんて酷いと亮は憤った。
 確かにローチの決心は固く、残された時間もあと一日という短いものだったかもしれない。それでも、その一日がとてもとても大切なものに感じたのだ。
 怒りに怒っているにも関わらず、ぽろぽろと涙が零れた。
 リビングに戻り、シドは気づいてたのかと問えば、何も答えず抱き寄せられる。
 気づいていたのにシドは黙ってローチを出て行かせたのだ。
 そんなシドにも腹がたって、亮はやっぱり「なんで」「なんでだよ」を繰り返すばかりで──、次第にそれは呻くような泣き声に変わっていく。

 なにがそんなに腹立たしいのか。この腹立たしさの正体は何なのか。亮には珍しくはっきりと答えが見えていた。
 寂しいのだ。
 とてつもない寂寥感が亮の感情を激しく掻き乱していた。
 明後日には居なくなると聞いてはいたのに。
 知ってはいたのに。
 それでも実際居なくなるとこんなにもつらい。
 ソムニアであることでどこか「何があってもまたいつか逢える」という甘えにも似た希望を持ってしまっていたことを今さらながらに突きつけられる。
 別れとは二度と会えないこと。
 絶対的な存在の断絶。
 それは本来の人の「死」だ。
 外の世界が今どうなっているのか亮にはわからない。
 だから大人達が口々に言っていた『世界が終わっていく』という現象がどんなものかも亮にはわからないし、ローチがその世界でどうなってしまうのかも亮には想像すらできなかった。
 ただ、純粋にそばに居ない寂寞だけに身を委ねて泣きじゃくった。








 毎晩、夢を見る。

 夢だと気づくのはいつも朝になってからで、眠りの内にある間、それは今現在亮の身に起こっている現実以外の何物でもなかった。
 最初の晩、部屋の扉を開け入ってきたのは滝沢だった。
 発熱で身動きが取れない夜だった。いつも自分を蔑み、心ない言葉を投げつけ、そのくせねっとりした粘着質の視線で舐め回すように自分を眺めてきた男が、突然亮の寝室に現れ、甘い血の味のする薬を口に含ませ、そして、亮が想像したこともない虫唾の走るグロテスクな行為を一晩中亮の身体に行った。
 亮は必死に抵抗したが、高熱と薬物の作用により爪傷一つ相手に与えることすらできないまま、幼い頃から薄気味悪いと感じてきた父の部下に、女の子のように腹の奥へ彼の性器を挿入されて溢れるほど白濁を注がれた。
 誰も助けには来てくれなかった。
 大丈夫だと、兄である修司を送り出してしまったから、修司は戻ってきてはくれなかった。
 必ず戻るからと抱きしめてくれた母も、このときになっても戻ってきてはくれなかった。
 バイト先のソムニアの師匠は亮にはあまり興味がないようだった。
 亮は一人で何度も叫び声を上げたがその度に殴られるばかりで、朦朧とした意識の向う側に自分を犯す中年男の興奮したうめき声が聞こえるだけだった。
 次第に未知の吐き気を催す快感が亮の身体を貫いて、亮は耐えきれない淫楽に自分自身耳を塞ぎたくなる嬌声を上げて無様にも自ら腰を動かしていた。
 達した後は怯えと怒り、嫌悪と汚い恍惚で亮の心はぐしゃぐしゃに丸められ、潰され、どぶ川の底へ沈めて擦りつけられたように感じられた。
『亮さん、……亮さん……っ、亮さん……っ』
 名を呼ばれる度やめろと叫び、その声ごと滝沢の唇に飲まれ、こじ開けられた口の中へ長い舌を押し込まれ、どろりとした滝沢の唾液を流し込まれた。
 だがその行為をされているときだけは男の声を聴かずに済んだ。亮の名前を呼ばれることもない。これはあの気色の悪い滝沢ではないのかもしれないと、あり得もしない可能性が脳裏を掠め、少しだけ自尊心を保てるその行為だけは次第に嫌いではなくなっていた。
 毎日、毎日、毎日、毎日。鎖につながれ部屋に閉じ込められた自分は籠の鳥であり、滝沢の奴隷みたいなものだった。
 飲まされ続けた血の味の薬はGMDだと今の亮にならわかる。
 生憎とゲボであった亮にとってその薬の効果は絶大で、匂いを嗅いだだけで意識が飛び始め、飲み下す前にはもう亮の身体は皮膚の表面から内臓の奥まで電気でも走ったような有様となり、いつもは薄桃色をした亮の幼い乳頭も陰茎も熟れたサクランボのように紅色に染まってツンと立ち上がり、早く早く……と餌を前にした犬のように涎を垂らして滝沢に撫でてもらうのを待ちわびるようになってしまう。
 亮の持ち物の何もかもが粉々に砕かれた七日間。
 誰も助けには来ない小さな世界。
 どんなにあがいても太刀打ちできない非力な自分。
 壊れてしまえばいいと思った。
 自分を含めた世界中の何もかも、消えてしまえば良いと思った。
 その感情さえも毎晩きちんとなぞるように再生される。
 左足首に巻かれた鎖を引きちぎろうと、幾度となく足首を引っ掻く。
 指先に感じるのは籐で編まれた硬いベルト。
 そこで亮の手は止まる。
 なぜか、止まるのだ。
 この鎖を留める籐のベルトを千切りはずしたいのに、壊して投げ捨てて自由になりたいのに、何かが亮の手を止めてしまう。
 大丈夫だ。一度耐えられたことなんだから、もう一度だって耐えられる。
 もう一度──という意味すらぼんやりと思うだけで深くは理解できていなかったが、大丈夫、大丈夫だという胸の奥底から染み出す声だけを頼りに――また、今宵もその攻防が続いている。



 時刻は──彼わ誰時。
 窓の外は春暁が薄紫に靄を染め、カーテンの内側は未だしんと冷たい空気に充たされている。
 シドは浅い眠りから目覚めると、こちらへ背中を向け丸まったまま震える亮の肩に毛布を掛け、そっと覗き込んだ。
 シーグリーンのタオルケットに頬を埋める亮の横顔が時折苦悶の色を浮かべ、何かから逃れるように足を蹴り上げる。
 指先が何度も左の足首を引っ掻いていた。傷つけないようにその手を取って止めてやると、悲鳴にも近いうめき声が途切れ途切れに亮の細い喉から絞り出される。
 また、だ。──とシドは表情をわずかに曇らせ、亮の覚醒を促すように頬を撫で名前を呼ぶ。
 汗ばんだ額や首筋に柔らかなイザを含ませた唇を当ててやると、ようやく亮はわずかに瞼を震わせ、魂が漏れ出るような息を吐いてシドを見るのだ。涙が幾粒もこぼれ落ち、肌をしっとりと覆う汗に混ざってタオルケットへ吸い込まれていく。
 いつもなら弱みを極力シドに見せたがらない亮も、今でも眠りの淵にある身では震える身体を隠す余裕などありはしない。瞳に映ったのがシドであると認識するとあからさまにほっとした表情を見せ、己の身を何者かから隠すようにシドの長躯へしがみついたまま再び眠りに落ちる。
 こんな状態がもう三月も続いていた。
 今になって再びノックバックの兆候かと神経を逆立てたシドだったが、それは杞憂であり単純に酷い夢を見続けているようであった。それでも以前のように眠るのを嫌がらなくなったのはローチが置き土産として亮に何か吹き込んでいったからかもしれないとシドは予想を立てている。
「亮──。大丈夫だ。もうなにも起こらない。俺がずっとそばにいる。誰にもおまえを害させない」
 大丈夫。大丈夫だ──、と密めたバリトンで吐息のように唱えれば亮の呼吸は次第に穏やかになり、シドは胸に掻き抱いた亮の髪に頬を寄せ、くたりと畳まれた白い羽根をゆっくり撫でた。
 亮のこの状態がローチとの別れによる一時的な不安定から来るものなのか、それとも別の原因があるのか今のシドでは知る術がない。
 医術に精通した秋人も、森羅万象を研究する有伶も、手業と裏道にかけては神業のローチも、この世界には居ないからだ。
 ただ自分を頼ってすがりつく小さな身体を抱きしめて、抱きしめて、悪夢が入り込む隙間もないほどに身を寄せ合うより他、シドが出来ることはないのだ。
 こんな時はイザ種最強と礼賛されたヴェルミリオの称号も、電子の動きすら止めてしまう絶対的なイザも、何百というソムニアやソラスを斬り捨ててきた剣技も、何の役にも立ちはしない。
 自分はこんなにも無力だと小さな身体に突き付けられる。
 それでも夜は明け、何周目かの朝がやってくる。