■ 5-82  ■





 ミルク色の光の中に溶けてしまいそうに見えた。
 遠くノイズのような雨音にぼんやりと目を開けたとき、掃き出し窓を背景にした亮の背は、淡い逆光の中触れることの出来ない影みたいに揺らいでいた。
 もがいてもあがいても沈んでいく底なしの深海。身体の芯から凍り付く冷たさは己がイザに目覚める以前に味わった記憶の欠片だろうか。
 連日眠ることすら忘れ没頭した結果の不毛さに形容しがたい無力感に苛まれ、腑抜けにされたシドは声を出すことすらせず亮の背を眺めていた。
 それはまるで籠の鳥が空を夢見るようにシドには映っていた。
 白いシャツの上にちょこんと乗った翼は今は小さく畳まれているが、ひとたびこの窓が開かれればあっという間に大きく広がり、たっぷりとした風を捕らえて飛び立ってしまうのではないのかとそんな幻想がシドを襲う。
 つっかえ棒にされていた細腕を思わず掴むと引き寄せ、腕の中に閉じ込める。
 そこで思わず口を突いた言葉に、亮は少し首を傾け「どこにも行かない」と返してきた。
 理由は雨が降っているから――。
 随分と簡単な理由だったがそれもそうかとも思う。

 そうだ。このまま今日は降り続けてくれればいい――。

 熱い程の体温が素肌に染み込み、シドはそこで初めて呼吸が出来たように思えた。
 しばらくもぞもぞと落ち着き無くポジションを探していた亮が動かなくなり、くったりもたれかかる身体から安らいだ寝息が漏れ始めてシドは目を開けた。
 シドの胸に頭を乗せ、心音を聞くように頬をくっつけた亮の口元が毛布に掛からないようにそっと除けてやる。

 ――今日はどんな夢を見た。

 声を出さず囁いた。
 返されるのは健やかな寝息だけ。
 ソムニアである自分が本来の仕事とも言える悪夢の解消一つしてやることができない。
 亮がどんな悪夢を見ているのか、それすら覗き見ることも叶わない。
 ここがループザシープでなければ。
 ここが現実世界であれば。
 亮がソムニアでなければ……。
 詮無いことが眠りの足りない脳を去来し細胞をやすりのように削り取る。
 シドは亮の髪の匂いを胸の内に吸い込んだ。
 身体に受け止める程よい重さを感じながら窓外を見る。
 白い昼光が、たたきつける雨にちらちらと揺らいで見えた。
 亮の頬に光の粒が流れて落ちる。
 無限に続くはずの時を、大切に、咀嚼するように、無為に過ごす。
 体勢を崩さぬように腕を伸ばし、枕元に投げ出されていた臙脂色のハードカバーを手に取った。
 ここひと月、かかりっきりになっていた相手はコレである。
 この屋敷右手に建てられた書庫兼書斎の最も奥まった棚に、隠すようにしまわれていたこれらの本は、物々しい金刺繍で飾り罫を施され中央には焼き鏝で古い音素文字を刻印してある。おそらく古代ヘブライ文字、もしくはサマリア文字辺りであろうと見当を付けたのはシドではなく共にこの書庫を見つけたローチであった。
 これだけ古い文字が使われているというのに本自体は昨日出版されたもののように新しい。
 それはこのループザシープの性質上当然のことなのだが、特筆すべきは使われている紙の素材だ。白く滑らかであり現代の技術で作られたものと遜色がない。
 また慎重にページをめくると現れたのは艶やかなダークブルーのインクで書かれた全て手書きの文字列であり、古典インクのくすみを感じさせないものであった。
 そこへ意味のわからぬ表のようなものや幾何学的な図形が差し込まれ、びっしりと数字とおぼしき文字で埋め尽くされたページが何章にも渡って続く箇所もある。
 全てがちぐはぐなまさに奇書というべきその本は全部で百三十冊あり、サマリア文字など当然馴染みのないシドに内容を読み解くことなど出来ず、まずはその解読のための書を探すところから始めねばならなかった。
 試行錯誤の末、簡易な文字と単語を拾えるようになったのがローチがここを出る三月ほど前くらいのことだったろうか。
 そうして表紙に焼き付けられた書名を読み取ることができたとき、ローチは目を輝かせ、シドはその本を投げ出した。
 そこに刻まれていた本のタイトルを直訳するとこうなる。

『ラジエルによる覚え書き』

 馬鹿にした偽書だと瞬時に思った。
 “ラジエルの書”と言えばこの世の全てを見渡せる天使・ラジエルが記したとされる宇宙とこの世の理の全てが書かれているとされる本だ。
 創世記などに登場するエノク(彼は生きたまま神により天に召し上げられたらしい)が、神の世を見学し、神に命じられて世界の全ての理を記さねばならなかった折り、参考書として与えられた本でもある。
 これらの記述は全て聖書やそれにまつわる外典偽典に記されたものであり、その内容から考えても『ラジエルの書』はおとぎ話の中のアイテムに過ぎない代物でしかない。様々な奇書・希少本が持ち込まれるIICR文化局ですら、ラジエルの書と名のつくものは頭から受け取り拒否を行っていたほど馬鹿げた品であると言える。
 投げ出したその書をローチは一人熱心に解読していたようだが、シドはそれに見向きもせず、亮の中のアレを消し去る方法を探しこのセラの前の主である男の手記を読み進めた。
 結論から言うと、シドは遠回りをして再びこの臙脂の奇書へ戻ってくることとなったのだが、その理由を記録として残さねばならないとするならまずは己の考察の流れを追って聴かせるのが一番だろうと思う。
 



 シドはこのループザシープの前主である男の名を知らなかった。
 彼は己が名乗ることは一度もしなかったのだ。
 シドは錬金術師だと己を紹介した男と、全ての期間を合わせるとおそらく三ヶ月ほどは同じ屋敷内に暮らしていたはずなのだが、顔を合わせた回数も言葉を交わした時間も僅かなものであったという記憶しか無い。
 男が残したと思われる手記を読んで初めて知り得た最初の情報は彼の名前が『ヘルメス』であるということだった。
 その名が本名だとも思わなかったが、それでもその呼び名は不穏な空気を感じさせるに十分な響きがあった。
 サマリア文字を使うような時代から生きている錬金術師。その名がヘルメス――。
 まさかと思いながら読み進める手記の内容は、彼が特異点の一人であったことを指し示していた。
 特異点――シンギュラリーポイントとして人間を位置づけるのは厳密に言えば語弊があるのかもしれない。
 だが世界には明らかに人間としての運命を逸脱した者達が片手に余るほど存在する。
 シドが知りうるものとして挙げるとすれば、IICR創設メンバーであり現長でもあるオートゥハラ・ビアンコ。唯一無二のその能力と、ソムニアという新人類をまとめ上げ組織化する功業をほぼ独力で成し遂げたこの男はシンギュラリティー以外の何者でもないと思う。
 そしてシドの師である上泉秀綱。生樹の枯死を予見し、救済のため創世神の種をはぐくむアルマを自ら造り上げ、己が子の内に埋め込んで新世界創世を成そうとする彼もまた、人間としての生も死も捨てさった特異点だ。
 このセラの前主ヘルメスという名のライドゥホ種は、彼らと肩を並べるか――もしくはそれ以上の力を持つ人外だとしか思えなかった。





 シドが彼に出会ったのは、ソムニアとして覚醒して二度目の生を生きていた頃のことだ。
 いつ寂静してもおかしくない自傷行為にも似た無茶な行動を繰り返していたシドは、他のソムニアグループとの抗争で煉獄の深層の深層まで落ちたことがあった。
 二十人はいた仲間とも呼べぬ寄せ集めの仲間とは途中散り散りとなった。
 シドは組んでいたライドゥホの操る車に同乗し、行き先もわからぬ道をひたすらに走っていた。
 だがそのライドゥホは深層煉獄の圧力に耐えきれず死に、そして寂静した。
 ライドゥホの死と共に車は消失し、生身のアルマでシドは一人深層煉獄の外路へ投げ出される羽目となる。隣には先ほどまでハンドルを握っていた男の死体が転がっている。
 猛烈な圧と熱がシドのアルマを磨り潰し始めるが、それでもしぶとく、消えつつある砂利道に這いつくばり前へ進んだ。死んだライドゥホのアルマが完全に寂静を果たせばこの路すら消え失せるだろう。
 その前にどのセラでも構わない、辿り着かねばシドも同じ運命をたどることになる。
 生きる目的も意味も無い人生を送るシドにとって、そうまでしてあがく理由など己にもわからなかったが、吹き飛びそうになる意識をアルマに縛り付け獣道ですらなくなった細道を進んだ。
 ザリザリとした電波嵐のようなノイズのみが耳を突き刺す状況で、不意に意味のある音が聞こえ振り返る。
 シドの後方に小柄な人影が激しく咳き込み蹲っていた。気づきもしなかったが、どうやら車にはもう一人同乗者がいたらしい。突発的な敵襲から逃れるため、ライドゥホの作り出した車のトランクにでも潜り込んで居たのだろう。全く抜け目のない行動だと思ったが、この状況では生き延びた分だけ苦しみが長引いたと言えなくもない。
 白く小さな塊はシドの属した集団の末席に身を置く少年だった。
 子供のくせに快楽主義者で彼と寝ていない者は男女問わずグループには居なかったのではないかと思う。
 他人と穴を共有する気などさらさら無いシドはこの少年と言葉を交わしたこともなかったが、この地の果てで唯一生き残ったのが自分の他色狂いの子供だったことはずいぶん意外だと感じた。
 小綺麗な肉体を提供することでしか己の地位と安全を確保できない弱者が死にかけているとはいえ自分と同じ道に居る。
 運がいいのか悪いのかわからないが、それでもこんなガキはすぐに死ぬだろうと思った。
 状況だけ確認したシドはすぐに興味を失い、再び前進を始める。
 この道がどこへ続いているのかはわからない。道の設定をしたライドゥホも逃げるためだけに運良く繋がった道を走り始めたに過ぎないのだ。行き先が深層セラである以上過酷な環境であることは確定されている。
 そして何よりその先――。何の通信手段も、いや、助けを求める相手すら持たないシドには、セラに辿り着いた先に生き抜ける可能性などゼロであることはわかっていた。だが――それでも行くしかなかった。
 そうして遂にその細道が消え去る瞬間、辿り着いたのがこのループザシープだったのだ。
 小さく緑色に浮かんだその泡の外郭に触れた瞬間、シドはセラにはじき飛ばされる覚悟を決めていた。
 深層セラの多くはそれぞれ独自のルールを持っており、その手順や条件に見合わないアルマを拒絶する。
 だが次に眼前に広がったのは――コバルトブルーの空と若草のグリーン。
 オリーブの香りのする風が這いつくばるシドの朱い髪を撫で上げ、自分が悪夢から覚め日常に戻ってきたのではないかと錯覚させた。
 だがじきに「ウソだ……」という擦れたアルトボイスが聞こえ、我に戻される。
 振り返ればそこには途中で死んだに違いないと高をくくっていたガキが、煉瓦敷きの道にしゃがみ込み口をぽかりと開けていた。
 マヌケ面だと思ったが、恐らく自分も同じような顔をしていたに違いない。
 次の瞬間溶けるように意識が消え失せ世界は暗転していた。