■ 5-83  ■



 シドが目覚めたのは暖かなベッドの中だった。
 大きく開かれた掃出し窓から心地よいオリーブの風が吹き込み、白紗のカーテンをそよそよと揺すっていた。
 酷い頭痛がした。すぐ横にはプラチナブロンドの長い髪に頬を埋めて眠る嬋娟の少年。
 遠くから波の音が聞こえるばかりで周りからは何の物音もしない。
 一瞬ここがどこなのかわからなくなる。一般人の商人からソムニア能力を使って巻き上げた気に入りの屋敷で、酒に溺れ眠りこけた翌朝はこんな感じだったと思い返す。

「目が覚めたのなら何か食べるといい」

 唐突に聞こえた男の声に、シドは野生の獣のごとく反射的に身を起こそうとし、だがうめき声を上げただけで無様に腕を折った。
 手も足も肩も背中も──身体中が泥人形に変わってしまったかのごとく重い。
 それでもなんとかベッドの中へ逆戻りすることだけは避け、震える腕で身体を支えて周囲を見回せば、一人の男が口髯を弄りながらシドの顔を見下ろしているのと目が合った。
 中東風の容貌を持つ男は年の頃五十半ばだろうか。濃い眉としっかりと張った顎が特徴の彼はベッドの傍らから首を伸ばし興味深げにシドと少年を眺めている。

「コールマシュヘリテート ヘムザールモシュキーフ。呼ばぬ者がたどり着くのはカオスかコスモスか」

 意味のわからぬ呟きを漏らした男にシドは「誰だ、ここはどこだ」と、つぶれかけた喉で問うた。
 髯の男は目の玉を丸め、次に嬉しげに破顔してみせると答えた。

「私はこの『アヲグァートゥグアシーニストヴェヴェィット』の唯一無二の主。そしてここ『アヲグァートゥグアシーニストヴェヴェィット』は深い深い『ゲヘノム』の底のにある『ハハウミタージュハリショーン』だ」

 男の言葉は所々古い言語が混ざっており随分と聞き取りにくかったが、おそらくヘブライ語に近い言葉であり、最後の方の『ゲヘノム』が煉獄を示すゲヘナのことであり、『ハハウミタージュハリショーン』は文脈から察すると何らかの形容詞を纏ったセラの意味だろうと、その程度は推察できた。
 二回繰り返された言葉の意味は不明だったが、この流れからするとおそらくこのセラの名を告げたのだろう。深層煉獄のセラで唯一無二の主とは大きく出たものだと失笑しそうになり、痛む頭に眉をひそめる。

「おまえの名を聞いている」
「呼び名のことか? それを聞いて何の意味がある。もちろんソムニアのいうところの真名などは教えるわけにはいかんしな」

 そう返されてシドは口をつぐむ。行きずりのソムニアとの邂逅で素性のわかる名など答える者がいるわけがない。しかもこのような深層セラでは他に多くの住人がいるとは思えず、男の言うとおりここで返される名など相手との会話の潤滑剤程度にしかなり得ないだろう。
 そんな無為な質問をしてしまうほどには、シドは疲労しているし混乱もひどいようだと己の状況を自覚した。

「もちろん私もおまえの呼び名に興味はない。──そんなものより意味のある自己紹介をしようじゃないか。そうせんとおまえさん落ち着かないだろう?」

 シドは黙したままギロリと男を睨み上げた。
 人を食った態度の男はそんなシドの凶眼など気にすることもなく、重たげな刺繍の施されたグリーンの長衣を揺らめかせ、ベッドの周りをぐるぐる歩きながら話を始めた。
 止まったら死ぬのかと思うほどに落ち着きのない男だった。

「私はおまえたちと同じくソムニアというヤツになるのかな。馬を使ってあらゆる頸木を超えるのが得意でな。ライドゥホ種にあたると思ってくれればいい。目覚めたのはもう随分と前だ。地上が洪水で沈んでしまう前からこの世界を見続けておる」
「……そんな時代からソムニアがいたという話は聞いたことがない」
「おまえさんがまだ生まれたばかりだからだろう。私の知る限りポツポツとはおったさ、その素質のある者達は。まぁそう焦るなヘレス。声を出すのもつらそうだ、しばらく黙って聞いておれ」

 飄々とした男はちらりともシドへ視線を寄こすこともなく、身振り手振りを交え気持ちよさげに話を続ける。
 割れるような頭痛と身体の痛みで身動きの取れないシドは溜息を一つつくとこの状況を受け入れ、背をヘッドボードへ預けて歩き回る男を油断無く目で追った。

「かわいい白と黒を使って『ゲヘノム』のいろいろな場所を巡り、いろいろな情報や材質を集め、そして日夜ライフワークの錬金術をこの『アヲグァートゥグアシーニストヴェヴェィット』で極める日々を続けている」
「言語の時代を統一しろ、気持ちが悪い」
「おお、そうか、言われてみればその通り。今。今。今の言葉だな。かわいい白と黒を使って煉獄の……」
「最後だけでいい」
「最後……。ここの名のくだりか。ここは『回る羊の寝所』。今時の言葉で言えば……『ループザシープ』と言ったところか。ふむ。これは簡潔でいいな。今からこれでいこうヘレス」

 どうやら男は勝手にシドのことをヘレスと呼ぶことに決めたようだ。

「アヲグァ……ループザシープに生き物はいない。ソラスとやらも存在しない。あるのはただ一人の主のみ。この庵は完全に閉じている。だが主の魂に呼応し姿を変え、マルクトにある風景を引き込み投影する。外からは主が呼ばねば何者からも見えず、何者からも干渉されない。それはここがこの世が生まれ、人の子のアルマが循環を始めるその前から存在した、最も初めに生まれたセラだからだ」

 香具師の口上のごとく立て板に水で語られるこのセラの解説は、神話ですらもう少し信憑性を持たせるものだと呆れるような荒唐無稽さであった。
 ただここが深い深い煉獄の奥底にあるセラであり、そんな場所にあるにもかかわらずまるで現実世界に戻ったかのように錯覚させるほど環境が整っていることは事実であり、その不条理を解決できるだけの知識も理屈もまだ二周目の生を送る若いシドは持ち合わせてはいなかった。
 故にそこではなく、唯一明確な答えがもたらされる可能性のある質問をぶつけてみる。

「主が呼ばねばここには入れない。見つけられない。ということはおまえが俺たちを呼んだということか。目的はなんだ」

 男は大げさに天を仰いで見せるとくるりと廻り天鵞絨の長衣を波打たせる。

「私が呼んだのではなく、おまえたちが勝手に来たのだ。目的など答えようもない」
「言っていることが滅茶苦茶だ。主がおまえならおまえが呼ばねば俺たちはここにたどり着けないはずではないのか」
「だから最初に私も言った。突壊と異看よ。おまえたちの来訪がカオスかコスモスか――混沌によるものなのか秩序によるものなのかと。私が呼んだのではないということは、上なる監視者による秩序が働いたわけではない。となれば生樹の理か那由多の道の混線か――。ほつれの出始めた生樹の血道がカオスを呼び寄せた可能性が最も大きいかもしれん」

 シドの問いに答えているようで、その実男は己の思索に入り込んでいるだけのようでもあった。
 その間にも男はシドの顔をじっと眺めてはうろうろし、また立ち止まっては眠っている少年をまじまじと見つめ再びうろうろする。
 その様は苛ついているというよりは酷く興奮しているようで、一人うなずいたり首を振ったり忙しそうだ。
 そこにシドらモノを知らない若者をだまそうとする狡猾な人間の余裕のようなものは見て取れず、軋む身体から力が抜けていくのを感じる。
 この男は狂人か馬鹿のどちらかだ。

「だから私はおまえたちを追い出すことはしない。興味があるからだ。……起きているだろう、モシュキーフ。観察はそのくらいにしてこちらにもそのチャンスを寄こせ」

 シドの隣で丸まっていた人形がもぞりと動くと目を開ける。
 アメジストをはめ込んだような大きな瞳が現れ不機嫌そうに男を見た。

「なにそれ僕は『観察者』なんてそんな控えめな名前じゃないし看られるのも好きじゃない。……こいつがヘレスってのはその通りだと思うけど」

 眠そうに目を擦る仕草すら淫蕩なこの子供が、自分の理解できていない男の古い言語を聞き分けているらしいと気づき、シドは小さな驚きと同時に苛立ちを覚えた。

「あんたの言うこと何一つ信じられないな。狂ってるとしか思えない」

 シドと同じ感想をストレートにぶつけた子供に、男はなるほどなるほどと何度もうなずいている。
 彼の受け答えや反応はいちいちどこかズレを感じさせ、シドも少年も奇妙な居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

「それでもおまえたちはここで身体を休めて体力を回復せねば動くこともできんだろう。置いてやる代わりに観察させろと言っている。ギブアンドテイクがある方がおまえたちも気楽ではないのか?」
「……観察が具体的に何を示しているのかわからなければ受け入れることなどできん」
「特におまえたちの害になるようなことはせんと約束する。私もそこのモシュキーフと同じ、看る専門だからな。朝、顔を合わせたら挨拶をする程度で十分だ。私の観察はそんな程度で済む。……うむ。おまえたちは食事でもとってもう一眠りするがいい。体力が回復すれば、好きなときにここから出て行ける。帰り道は私の白と黒を貸してやろう。マルクトまでなら瞬きで戻れる」
「さっきから食事食事って、何食べさせるつもりかしんないけど、こんな深層煉獄のセラで何か食べようなんて絶対にしないからね。そこも怪しいんだよこのおじさん」

 深層セラにあるものなど人のアルマが摂取して良いレベルのエネルギー体であるわけがない。真っ赤で甘そうな苺ジャムであろうと焼きたてでバターの香るクロワッサンであろうと、一舐めで千人寂静してもおかしくない高エネルギーの塊でしかないはずだ。
 そしてセラに居る限り食事を取る意味は極めて少ない。

「お節介だとは思ったが、おまえたちをここへ運んだついでに肉体も引っ張り上げておいた。さっきも言ったがここには時がない。時は巡って回ってループして元に戻る。だからアルマのみでここに居ることはマルクトへ置いてきた肉体の死を意味することになる。故におまえさんたちの肉体をわざわざ呼び寄せ――」
「っ――ちょっと待て。聴いていないぞ。時が……なんだと?」
「おお、言い忘れていたか? 時がないのだ。原初のセラだからな。だから今おまえさんらはアルマと肉体、共にある完全体としてここにいて、つまりは食事を取らねば腹が減って死ぬと言うことだ」

 あまりに非常識な言い様にシドも少年も口を開けたまま眉間にしわを寄せるという、まったく同じ表情で硬直することになった。
 ――肉体を引っ張り上げる? セラへ? 意味がわからない。
 ――時がない? ループする? この世の一角として破綻している。
 狂人の戯れ言になど付き合っていられるかと叫びかけ、その叫びが口に上る前に少年の腹の音が小気味いいまでに軽やかに風に乗って響き渡った。
 疲労と負傷と混乱で全く気づくことができなかったが、確かにこの泥のように重い身体には血肉が通っているのだった。