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 遠くから誰かの話す声が聞こえる。
 くぐもった音で時々聞こえないとこもあるし、僕には意味のわからない言葉もある。
 それでも僕は耳を澄ました。
 だってとっても暇だから。
 亮の代わりに焼除装置に入るのは読書するにはもってこいの時間で僕は大好きなんだけど、同じ本ばかり何度も読んでいるとさすがに眠くなってしまう。
 今も十回は読んだ『すきすき大好き』っていう本を読んでる最中、ついうとうとしちゃったらしい。
 十回も読んでるのは読むものがないんじゃなくて、今一番気に入ってる本だから。
 おうちで飼ってる猫のミィがすき。お友達のヒマリちゃんがすき。お父さんとお母さんと弟のヨウタがすき。学校の隣の席のヒロくんがすき。──すきがいっぱい出てくる本なんだ。
 色んな好きが世界にはあって、どれも違った好きなんだって。
 僕が有伶様や12番を好きなのはどの好きと一緒なのかな。12番は兄弟だからきっとヨウタの好きと一緒だ。有伶様は……お母さんじゃないけど僕らを作ってくれたから、やっぱりお父さんとかお母さんの好きなのかな。お友達のヒマリちゃんの好きはラボのごはん係のミーシャさんとかかな。猫のミィの好きは、お部屋で育ててる鉢植えの木にお水を上げてるときの好きに似てるのかも。でも、最後のヒロくんの好きだけは見当も付かないなぁ……って考えていたら不覚にもいつの間にか寝てしまった。
 寝ててもいいよって有伶様は言うけど、寝てるのは死んでるのと一緒だから勿体ないと思う。僕はできるだけ起きて色んな事を見たり聞いたり知ったりしたい。
 だから僕は起きてることがばれないようにベッドの上に寝転んだまま思いっきり耳を澄ました。
 きっと僕が聴いていると知ったら話は終わってしまうと思ったから。
 話をしているのは二人の男の人で、一人は有伶様だ。
 もう一人は……誰だろう? 有伶様より低くてもっともっと大人の声。落ち着いていて優しい声。
 ベッドと小さな本棚の置かれた焼除装置の小部屋は簡単な作りになっていて、小さなのぞき窓が上の方に付いている。
 ちらちらとよぎる影は白くて、有伶様よりもっとずっと大きな姿をしている。その人の顔は見えない。でもなぜかその人に気づかれそうな気がして、僕は慌てて目を閉じた。

「亮をオルタナと極点結合させる日取りはいつになる」
「九週後辺りでは本稼働できる予定です」
「もう少し早めることはできんか。せめてその半分。できれば四週を待たずして動かしたい」
「世界情勢はその単位で変わるほど切迫してはいないはずですが。循環周期こそ20%の遅れが出ていますが、未だ転生そのものは94%超の実績で保てています。ケテルのメタトロン衰萎とマルクトのサンダルフォン消失による生樹のクリフォト化はもう少し先と予測されている以上、このままオルタナの補助稼働を続けることで全人類のアルマ衰滅まで数年の猶予は持てるはずです」
「生樹の延命に関してはウィスタリアとスルト――おまえたちの力を疑ってはいない。しかし――脅威は外からやってくる」
「……ヘルメス・トリスメギストス気取りのあの男が動くと? 樹根核の壁は厚い。人類唯一のソムニア能力『ウィルド』を持っているとはいえ彼は人間だ。能力の限りどのように自分をデザイニングしようとも、ヒトの枠を超えることはできないでしょう」
「ウィスタリアよ。……もはやヒトではない、あれは」

 えーと……1。
 2。
 3。
 4。
 5。6。7。8。9。10。
 どうしたんだろう? 10まで数えてそれからもっと時間が経ったけど。有伶様が返事をする番なのに声が聞こえない。
 難しい言葉ばかりで僕には何のことなのかさっぱりわからなかったけど、もしかしたらもう全部おしまいなのかな。
 だとしたらせっかく耳を澄ましたのにつまんないお話だったな。
 そう思ってもう一度本を読もうかと思ったその時、大きな大きなため息が、焼除装置の薄い扉の隙間から聞こえてきた。

「彼はポイマン・ドレースを見たと? ヘルメス文書に出てくる描写よろしく、異界よりのヌース<至高神>から分かたれた新たなヌースを己の内に招き入れたとそういう意味での断言ですか?」
「恐らく。考えたくはないがそれだけの才幹を持ち、……それ以上の無茶をする男だ」
「僕にはそんなことが可能だとは思えない。なぜなら我々の住むこの世界――生樹のどこかにはすでにヌースの分身がいるはずだからです。一つの世界にヌースを二人受け入れるだけの包含力はない」
「『我らのアルマの父』たる創世のヌース<ヘルメス・トリスメギストス>がもうこの世界にいないとしたら。……自分の手でセットアップした世界を捨て、別の宇宙への扉を開けてしまったのだとしたら、ないとは言い切れまい」
「だからこそ生樹の衰滅が起こり始めたと?」
「どちらが先かはわからん。生樹の衰弱が先か、ヘルメスの消失が先か。ただ言えるのは――先頃私は秀綱と邂逅した折り、どうしようもなく理解してしまったのだ。百年――。たった百年見ぬ間にあやつがヒトを辞めてしまっているということに。秀綱の内にあるのは正視すら許さぬ純粋な力の迸りであり、ヒトのアルマの瞬きなど気配を感じることすらなかった」

 男の人が言った言葉に、有伶様はまた黙ってしまった。
 僕には二人が何を話しているのかさっぱりわからないけど、ヒトをやめるヒトがいるのはもったいないなぁと思った。
 僕がもしヒトにしてもらえたら絶対にやめたりしない。きっとそのヒデツナってヒトもやめるのは嫌だったんじゃないのかな。
「……。」
 また眠くなってきて、僕はあくびが出そうになるのをぐっと堪えた。
 つまんないお話だけど、ここから面白くなるかもしれない。
 もしかしたら有伶様が
 「それならヒデツナの代わりに、13号と12号を明日にでもヒトにしようと思います」
 って言うかもしれないからね。

「だからそんな真似ができるということですか」

 僕の期待に反して、有伶様の声は少し怒って聴こえた。

「……そんな真似とはどれのことを言っている」
「全部ですよ! 新しい生樹を創り出すことも、この世界の人間を全部消して混ぜくり倒しリセットしてしまうことも、それを何も知らない我が子にさせようとしていることも……。……っ、その後、その子供を、新しい世界の最上階でたった一人、永遠に生き続けさせることも、何もかも全部人間ができることじゃない!」

 違った!
 少しじゃなくて、凄く怒ってた。
 こんな風に大きな声を出す有伶様を見たことがない。
 時々声も震えていて、それが恐くて、僕は思わずベッドの上で身体を縮こまらせた。

「植物のおまえの方が血が通っていることを言うものだ」

 男の人の声は全然変わらない。ずっと静かで優しいままだ。

「そりゃもちろん、新世界ならばメンテも要らず自然な形で人の世は続いていくでしょう。リセットとは言っても数千年掛けて進化してきた人類のアルマを混ぜているんです。質そのものは高まっているはずで、リセット後も下駄を履いた状態からのスタートだ。進化スピードはめざましいものだと思います。それでも、新品にしちゃいけないものがこの酷い世界にもあると、僕は思う」
「スルトも同じようなことを言っていたが、内容はもっとドライだったな。今まで人類が研究してきた成果がふいになるなど耐えられない、そうだ。ヒトは手にしたものを手放すのを惜しむ強欲な生き物であることは、私も含めみな同じなのか」

 男の人が少し笑った。

「オルタナを稼働さえできれば、人類の再編は起こらない。亮くんの記憶もアルマも留保できる。……半永久的に拘束してしまうことになるけれど、それでも少なくとも一人にはしない」
「現生樹をどうにか三千年はもたせたい。その間に次の策を講じるためにな」
「先延ばし案で十分です。今の我々にできる最善がそれなんだ。転生周期の制御機能<再臨エンジン>をオルタナに積むことにより、我々がもっと自由にフレキシブルにヒトの生まれ変わりを動かせるようになる。そうすればIICR内部の転生配置を効率的に早め、対処するための馬力も上がります」
「……テーヴェが『メンゲレエンジン』と揶揄した機能だが、それを加えなくては人類の生き残りはないと私は思っている。忌憚なく言えば、この世界は突然変異的に現れたヒトの上位種が創り出したものだ。これらのバグが現れなければヒトは未だ地を這うしか能の無いほ乳類の一種に過ぎなかったはず」
「海へ潜り空を飛び宇宙をめざし、ミクロの世界まで手を伸ばす人類を次のステージに押し上げられるのが、IICRというバグの集大成のようなこの組織――ということですか。IICRがソムニアのみならず、全人類の転生を管理することで現生樹への負担を減らし、優れた頭脳とアルマで新たな道を模索させ、悪しきアルマと忌むべき慣習のはびこる土地は転生のターゲットから外し、地球上の秩序を保つ。確かに文言だけ聞けば、彼女がメンゲレの名を口にするようにアウシュビッツの人間選別のような禁忌とグロテスクを感じてしまうかもしれないが――IICRが間違えさえしなければ唯一の希望の道だと僕も思います。我々はヨーゼフ・メンゲレには決してならない」
「当然だ。しかしこの再臨エンジンを受け入れられなかったテーヴェも、自ら第二のオルタナともいうべきシステムを別のセフィラへ建造している。純粋に現生樹の延命のみを図ったものだそうだが……」
「『ダリア』のことですね。きれい事を並べている彼女ですが、あれは稼働そのものに大量のヒトのアルマを使っています。その供給のため起こした団体が現在は宗教にも似たテロル集団に成長し、“選別せず”無差別に世界中のコモンズアルマをせっせと殺して大食らいのダリアへ肥料として与えている。……ヒトの倫理を口にし離反しておいてこの体たらくは噴飯ものですよ。
 本人もその矛盾に気づいているのでしょう。稼働に成坂亮のアルマを使おうと食指を伸ばしていますが、いくらここを開発した本人とは言え、秀綱すら踏み込めないこのラボに一ソムニアの彼女が入り込めるわけがない」
「テーヴェは亮の兄をIICRの手から横奪したと聴いている」
「修司さんは……、亮くんを安定させ導く回路としては最適解だと思いますが、動力そのものにはなり得ない。考えられるとすれば亮くんの力を呼び込む蛇口のような利用法ですが……それでも一度にそれを引き込むにはコモンズのアルマは脆すぎる」

 シュウジはとおるのお兄ちゃんだ。オウダツってなんだろ。テーヴェって恐い人と一緒にいるってこと?
 大人の話は難しい。
 僕はたくさん本を読んで兄弟達の誰よりも言葉をいっぱい知ってるつもりになってるけど、やっぱりショセンは子供なんだなと思う。
 それでも一生懸命聞いた話を考えてみると、もうすぐ世界がダメになっちゃうから、オルタナを動かして世界を今のままずっとがんばらせるのがとおるのお仕事ってことになるのかな。で、有伶様は亮をずっと大事にここで暮らさせて、IICRはその間オルタナで頭のいい人をいっぱい集めてちゃんと世界を直す方法を考えようとしてる。やっぱり有伶様は優しいし、すごい。
 でもそれを邪魔して世界の全部をナシにしてとおるをひとりぼっちにしようとしてる悪いヒトとか、いっぱいヒトを殺してオルタナみたいなのを作ってる恐いヒトとかもいて、その人たちもとおるが欲しいと思ってるってことかぁ。
 
「ダリアは我らの脅威にはなり得ないか」
「オルタナのひな形を作ったのはテーヴェです。彼女が作った大輪の花に興味はありますが、手にしている原資の大きさが違いすぎる」
「あの子が居る限り我々IICRの計画が頓挫することはない――か」
「もし万が一、亮くんが手元を離れてしまった場合も計画は進められるプランは整っています」
「代替要員のルキ・テ・ギアだな。彼のアジャストはどうなのだ」
「アルマコピーの作成は進行中です。成坂亮のアジャストと平行してルキ・テ・ギアによるエンスフェランも載せられるようどうにかやりくりしていますよ。
 ルキくんはIICRの職員だ。亮くんとは違ってあなたが一言声を掛けて下されば、自らオルタナへ入ってくれると思います」

 ルキ……ってとおるの友達のルキのことかな。
 ルキもとおると同じように輪っかをつけて地下へ行くようになるのかもしれない。
 地下には綺麗な金色の泉があって、透明な船に乗って潜るんだって、ちょっと前、内緒だよって4番が教えてくれた。
 とおるはいつもその透明な船に乗ってお仕事をするみたいだから、ルキも金色の泉でお仕事をすることになるんだろうな。
 え。ちょっとまてよ? 
 ルキの“アルマコピィ”って、僕らみたいな兄弟が新しく生まれるってこと? 有伶様は今新しい兄弟達を作ってるのにお腹ぜんぜん大きくないから、やっぱり僕らは植木鉢から生えてくるみたいな感じなのかも。
 ――がっかりだ。

「ルキがどれだけあの過酷な環境に耐えられるか……」
「亮くんのように半永久的に……というわけにはいかないでしょうね。最大限もって二百年……。猶予期間は大幅に短縮されてしまいますが、再臨エンジンさえうまく回ってくれればやれないことはないはずです。やはり我らによる人類の転生制御はオルタナから削ることの出来ない重要な脊柱ですよ」
「つらい選択だが避けては通れんか。ルキより他、鬼子の中でもオルタナに適合する者は探し出せなかった。任務の末はアルマを溶かしてしまうことになる。ハルフレズには恨まれるな」
「ハルフレズくんには制御回路をお願いする予定です。彼もまた共に溶け落ちてしまいますが、そうすればきっと彼は満足するような気もしますが」
「どちらにせよ亮さえいてくれればその必要はなくなるということだな。……秀綱とテーヴェ、二人を抑えることに私は全力を注ごう」
「僕の方は四週間で稼働を視野に舵を切ります。……ついては一つ早急に手配して頂きたい件が」
「なんだ? 必要なものは全て揃えよう」
「これだけのスピード勝負になってくると、シドさんを制御回路に使うことは時間的に無理がある。だから亮くんが同様に心を寄せている相手に制御回路役を願いたい」
「…………ジオットだな」
「ジオットはあなたのお気に入りの手駒だということはわかっていて――の請願です。修司さんは奪われ、シドさんは馬鹿で頑固でどうしようもない。もう手が他に考えられない」
「わかった。オルタナ稼働が全ての事柄の最優先事項だ。ジオットを用意しよう」

 そう男の人が聞こえた後、お話は終わってしまったらしい。
 小さなため息が聞こえたあと、ガチャガチャとカップをぶつける音が響いてきた。
 有伶様の不味いお茶が登場しそうな予感がして、僕は目を閉じて完全に眠った振りをした。

 じおっと。
 シュウジと同じくらいとおるの大事な人なのかな? その人が僕らの居るラボへ来るんだ。
 どんな人なんだろう。僕はまだ一回も行ったことないけど、一緒に地下のお仕事してみたい。
 兄弟でもない。お父さんでもお母さんでもない。いつも一緒に居るラボのヒトでもない。
 見たことない新しい外のヒト。
 でも恐い人だったら一回見ただけでもういいや。
 スルト様大好きな12番とお仕事代わってもらおう。

「13号? 本ばっかり読んでないで、お茶飲んで一休みしない? ……あら、寝ちゃってる。……またこの本か。コピーなりの思春期なのかなぁ。ふふ、ホントに珍しい子だ」

 苦くて酸っぱくてツンとした湯気の匂いが僕の鼻をくすぐった。
 けど、どうにか僕は人間の飲み物の中で多分一番不味いお茶を、飲まないことに成功した。