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 見慣れぬ文字と馴染まぬ文法。そして難解で謎かけのような文体に苛立ちを募らせながらも、シドはラジエルの書をどうにか読み進めていく。
 元来記憶力は悪い方ではない。
 ローチがここに居た頃読み解いていた手法は覚え書きのように駄紙へ書き殴られていた。書き記した本人にしてみればいたずら書きのようなそれも、生来の器用さのなせる技で本人の意図とは別に非常に読みやすいまとめとなっていて、その法則をたたき台にして文を追う作業は、この分野に明るくないシドにも一寸の光を与えていた。
 ここに書かれている『哲学のフィルターを通し数学を振り掛け物理で包んだ史書のような文字列』が、すぐさま亮の中に巣くうミトラへの手立てにつながるようには見えなかったが、それでも秀綱の言う所の“世界の枠組み”を知らずして身動きの取りようなどない。
 時間だけは倦むほどにある。
 亮と過ごす無限のループの中で、いつか出口を見いだすためにシドは師の後を追う。
 この狂気の書を読んでいて思うが、ここに記されたことが事実であると仮定するなら書いた人間はヒトではない。
 生樹の成り立ちや守護者。イザにより開かれるダァトの向こう側に在る者。恐らくそれらに準ずる内容が書かれているのだろうと言うことがわかる。
 その一端を知るのに、人間はソムニアと成って後数千年の時を掛ける必要があった。
 しかしこの書には人類が築き上げてきた歴史など歯牙にも掛けない密度の情報が、惜しみなく、当然のごとく、何の感慨すらなく、淡々と綴られている。
 めくるページのその先に恐らく未だIICR研究局すらつかめていない生樹の深淵まで克明に描かれているに違いない――そう思わせる不気味な確信がある。
 もしこの書を全て読破できたとして、果たしてそれを己の血肉として扱うことが出来るのだろうかという不安が漠然と胸に淀む。
 あの男はこの書をいったいいつ頃完成させていたのだろうか。
 地上が洪水で沈んでしまう前からこの世界を見続けている――そうあの錬金術師は言った。もしそれが『ノアの洪水』であるとするなら、その地球規模の未曾有の大災害が起きたのは、多くの研究者の見解によれば紀元前3000年ごろと言われている。その頃よりこれらの書を一人の力で記していたのだとしたら、これを書いた『ヘルメス』こそ、あらゆる錬金術師の祖とされた『ヘルメス・トリスメギストス』であり、IICRの前身となった『ヘルメス・マルアーク』という組織の旗印として掲げられた伝説上の人物――以外にはあり得ない。
 創設者であるビアンコや、彼と創設の一端を担ったシドの師・上泉秀綱もまたヘルメスと邂逅したことがある可能性を、シドは強く感じていた。
 エメラルド・タブレットや賢者の石を創り出したとされる、かの伝説の錬金術師がIICRと直接関わったという記録は残っていないが、賢者の石がIICRゼロ棟にある最古の保管庫の奥の奥へしまい込まれていることを諜報局の長であったシドは知っているし、死を迎え生樹を巡る期間――いわゆる冥巡期に意識を保つことが出来ないのはコモンズのみならずソムニアも変わらない。それにも関わらず生樹の中階層である『ティファレト』に樹根核を建設するなどという飛び級の技術を生み出し、さらには見たこともない上位階層であるケテルの存在を地図に描くことができるなどヒト以外の何者かの師事を仰がなければ不可能なことだろう。
 シドが出会う前か後か――、彼らもまたあの男に会ったのだとしたらあらゆるシンギュラリティはヘルメスから始まったのだ。
 仮定だらけの証明の帰着点はラジエルの書を読み進めるごとに信憑性を増していくようだった。
 陰謀論者でもなく、ましてや秋人のようなオカルトマニアでもない、至って現実主義者のシドがその考えに行き着かざるを得ない事実の行列は、否が応でもシドの意識をあの頃へ引き戻す。
 共に過ごした三ヶ月の後、あの忙しなく動き回る男は何を思ったか突然
『おまえたちが何者か良くわかった。うむ、まぁ無駄な時間を過ごしてしまった。おっと、ここには時間は無いが、とにかくもう仕舞いだ。私は帰ることにした。だからヘレス。おまえへこのセラの全てを譲り渡す。どうとでもしてしまえ。どうにもならんが』
 と言い残し、出て行った。
 あの男の言葉は毎回意味のわからないことばかりだったが、自称観察者の最後の言葉の不穏な響きに、ただ背筋がジンと痺れたように冷えたことを覚えている。
 シンギュラリティの始発点であるヘルメスはヒトではなかったのだと。それ以外の得体の知れぬ何かであったのだと思う。
 そしてその特異点の収束地が、今シドの膝元で丸くなり安らかに呼吸を続けている。
 その小さな温もりがもぞりとシドの膝上に乗り上げてきたのは、窓外が紫に染まりコルク樫の枝影が長くベッドの上まで伸ばされた頃合いだった。

「起きたか」

 ページをめくっていた指先で柔い黒髪を撫でてやると、「水……」と半分寝ぼけた返事が寄こされシドはヘッドボードの水差しへと手を伸ばす。
 グラスに水を注ぎ自らが一口呷り、未だぼんやりとした少年を膝へ抱え上げた。

「……?」

 眠い目を瞬かせ不思議そうに見上げた少年に唇を合わせ、ご要望の凍えるほど冷えた水を分け与える。
 亮は施されるままコクリとそれを飲み下すと、「もっと……」と呟き、シドの手からグラスを奪い取る。
 白い喉をひとしきり鳴らし口元に滴る雫を手の甲で無造作に拭う仕草は、妙に官能的だった。

「……ぬるい」

 だがそんな空気にはそぐわない率直な文句が亮の口からぽろりと落ち、シドは口の端を引き上げながら少年の手からグラスを取り上げながら再び唇を重ねた。

「っ……、……ん…………ぅ……」

 シドの与える冷たく甘いそれに幾度か声を漏らしながらうっとりと目を閉じていた少年は、ひとしきりそれに酔うと、もう良くなった。とでも言うように腕を突っぱって距離を取る。

「冷たいの欲しいって、そーいう意味じゃねぇ」

 息を荒げながら口を尖らせた少年は、くったりとシドの胸へ。
 腰元に溜まっていたタオルケットを胸にかき寄せながら、亮はシドの白いシャツへ頬をすり寄せた。
 猫が懐くような仕草にシドは目を細め、亮の髪を撫で梳き、寝汗でしっとりとした小さな頭骨の地肌へ指を沿わせる。
 微かに香る甘い匂いはシドを駆り立てる媚薬であると同時に、最上級のヴンヨですら与えられない至上の幸福と安らぎをももたらす安定剤だ。相反しているように思えるが、不思議なことにシドにとってそれは当然の組み合わせであった。
 
「そろそろ飯にするか」

 朝から――否、昨夜の晩から、二人は水しか口にしていない。
 自分に付き合わせ一日ベッドへ拘束してしまったように感じていたシドは自らそう提案すると、胸へもたれかかる亮を抱き起こし、膝上へ座らせる。
 するりと人形のように上掛けから引き抜かれた亮は、左手にタオルケットを抱えたまま右手をシドの肩に突き、寝ぼけ眼でぼんやりとシドの目をのぞき込んでいる。

「なぁ、シド。お。……、オウダツ?……ってどういう意味?」
「なんだ急に。わかるように話せ」
「……オレにもわかんね。……ただ、いつも、夢、見る。……夏が近づいてくると特によく見る」

 不穏な告白がぽつりぽつりと亮の口から吐き出され、シドはわずかに眼光を強めた。
 亮がミトラの影響で悪夢を見続けているだろうと言うことはわかってはいたが、敢えてそれを亮へ言及することはなかった。問いただすことで亮の精神に負担を掛けたくなかったからだ。
 亮も自らその夢が異質であるということに気づいていないかのように、夢の内容をシドに伝えることはしてこなかった。あるいはローチには何らかの形で相談を持ちかけたのかもしれないが、シドが知りたがりそうな内容をあの天邪鬼が態々伝えるような真似をするわけがない。
 夢の内容のみならず、『これ以上心配掛けたくない』『セブンス時代の悪夢を見ているなどシドには知られたくない』――おそらく亮の心理はこんな所だろうという想像までがセットで付いてしまう。
 そういった自分の心の虚勢をなくしてまでシドに告げようとする夢の内容とはなんなのか。

「時々見る夢ってのはさ。俺自身の録画放送みたいなヤツ。……そんで、今、聴いたんだ。修にぃがテーヴェってヤツにオウダツされたって。ね、オウダツって何?」

 シドは変わらず無表情を保ったまま、静かに首を横に振った。

「夢の中の言葉に意味など無い」
「あるよ! だって、この夢はあいつがオレへの嫌がらせに見せてる録画なんだから! 修にぃがテーヴェってヤバいヤツに捕まってるってこと、なんだろ? 夢の中で有伶さんが言ってた。オレが……、オレがこんな化け物だから、ホントは兄弟でもなんでもない、血も繋がってない修にぃが危ない目に遭ってるってことなんだろ!?」

 意識がはっきりとしてくるに連れ、次第に先ほど見た映像が鮮明に亮の内によみがえり、少年の心の柔らかい部分を掻き毟る。
 左腕に抱きしめていたタオルケットを放り出すと、押し倒さんとする勢いでシドへつかみかかる。

「もしそれが本当におまえが抱える“ミトラ”の見せるヴィジョンなら、おまえを弱らせようとするただの作り事だ。普段見る夢よりさらに信じるに値しないまやかしに過ぎん。そのくらい亮にもわかるだろう」
「でも!」
「その証拠に──おまえは以前、夢で俺を撃ったと言ったが俺はこうしてここにいる」
「……。あれは、途中から、なんか違う夢になってたっていうか……今度のはきっと違う! わかるんだっ」
「あいつは自分の役目を全うしようとそれだけを目的に動くAIみたいなものだ。それがおまえの弱点を修司だとそう判断して、そんな作り事の映像を見せたのだろう」

 噛みつきそうな亮の両頬を片手でつかみ、聞き分けのない犬に言い含めるかのように、黒く見開かれた瞳孔をのぞき込む。

「けどっ……」
「それから、自分を“化け物”なんて二度と言うな。俺だけじゃない、修司も、シュラも、秋人も、……おまえを大切に思う誰もが悲しむ」
「っ…………」
「兄弟でもなんでもない――など、修司が聴いたら泣くぞ」

 亮の大きな眼が一瞬揺らぎ、長いまつげが伏せられる。

「……だって、オレは、……オレのせいで……」

 それでもぐずる亮に向かい、シドはふっと息をつくとゆっくりとした口調で続けた。

「修司はテーヴェの元にはいない。俺がまだテロ特とPROCの掛け持ちでIICRの犬らしく働いていた頃、確かに修司が一時姿を消した。おまえの“録画再生夢”とやらに在ったとおり、な。だが、その後テロ特の作戦に俺が参加した折り、環流の守護者たちの根城にされているルールィードと呼ばれるセラにいた修司を、俺が自分で救い出した。だからおまえの言う情報が正確でないという事が俺にはわかるんだ」
「っ!? 環流の守護者って、あのサツリク集団の奴らだろ──っ!?」
「大丈夫だ、怪我はない。救出後、IICRではなく別の場所へ修司を隠してきた。壬沙子とシャルルの手を借りてな。おまえを樹根核から連れ出すに辺り、修司をより安全な場所に移す必要があったからだ」
「それじゃ、修にぃはちゃんと元気にしてるんだな!? ホントのホントに!?」
「ああ。だからおまえが“録画”だと言っている夢は録画であったとしても正確ではない。今回のように“切り取り”を意図的に行われれば、事実をねじ曲げておまえに伝わることになる」

 蕩々と流れるかのごとくシドはそう亮に言い聞かせた。
 あの時ルールィードから救い出したのは、修司ではなく久我だ。事実をねじ曲げ亮に伝えているのはシドだ。
 修司が今どこに居るのか。生きているのかどうかすら定かではないのに、それをおくびにも出さず、シドは亮に優しい物語を言い聞かせる。

「修にぃ、大丈夫、なんだな。……そっか、IICR、にいたら、駄目、だもんな。違うとこ、に、ちゃんと、居るんだな」
「ああ、そうだ」
「オレ、なんで、そんな当たり前のこと気づかなかったんだろう。オレがIICRから逃げるってことは、オレに関係してる人みんなに迷惑掛けるってことなのに。オレ、自分が消えたくないってそればっかで、大事なこと全部考えてなかった。……なにもっ、わざと考えないようにしてたんだ。オレ、自分のことばっか考えて、サイテーだ」

 ほろほろと涙を零す亮の髪を撫で、親指の腹で頬を拭う。

「ガキがなにを言ってる。大人は自分の責任で動いてるんだ。15やそこらの子供は自分のことだけ見てればいい。」

 小さな羽根を震わせ、声を殺して亮が泣く。

「何より俺たちの居るこのループザシープに時がないことをおまえだってわかっているだろう? 外の世界は止まったまま何も変わらずそこにある。案ずることなどなにもない」

 胸に顔を埋める少年の背をあやすようにポンポンと叩き、甘やかな声でささやきかける。

「ホントに? ……何も変わってない?」
「ああ。何一つ変わらず、世界はおまえの横にある」

 亮は顔を上げ、シドを見上げた。
 流れる涙はオレンジの夕焼け色に頬へ模様を付け、小さな鼻はさらに赤く色づいている。

「オレ、ここに居れば何もなくならない? 修にぃもシュラも久我も俊紀も秋人さんもルキも、みんなみんな消えたりしない?」
「そうだ。だからおまえは何も恐れることなく、俺のそばに居ればいい」

 何度も繰り返した言葉を再びシドは言う。亮の中へ擦り込むように、魂に直接彫り込むように。

「…………オレ、もう15歳じゃない。17歳だ」

 それから断っておくけど──とでも言いたげにぼそりと呟いて、亮は再びシドの胸へ顔を埋めた。
「そうか」と言って柔く抱きしめる。
 ヘルメス・トリスメギストスが特異点であり人ではなかったように、シドを食い尽くすこの腕の中の小さな捕食者もまた世界の運命が凝縮する特異点なのだろう。
 それに比べ、シド・クライヴという人間は限りなく普通だ。
 どこにでも転がる普通の男に過ぎない。
 それがこの特異なセラに流れ着き、特異な男から特異なセラの所有権を譲り受け、そして特異な男に師事を仰いで、特異の終着点である少年に心ごと捕らわれた。
 これは偶然か運命か。
 期せずして初めてヘルメスと出会ったとき彼の唱えた文言と同じ台詞を口にし、シドは軽く唇を噛んだ。
 ローチ・カラスはそれを偶然と読んだが為に、羊の頸木から逃れられたのだろう。
 だがシドはもう一方の考えに及んでいた。
 これら全ては秩序であり運命なのだと。
 ただの人間である自分が特別の結晶である亮を護るためには、自分も特異点の一人になるほかないのだ。運命に選ばれた特異点であると信じるほかないのだ。
 ヘルメスに『破壊者』と呼ばれたこの男が、真逆である秩序と運命に捕らわれ、ループザシープの囲いを抜け出ることができなくなっていた。
 生きたまま神に召され生樹の管理者となったエノクやエリヤのように、生きたまま生身でループザシープに戻った自分もまたその資格を得なくてはならない。
 亮がシドの運命であり帰結。亮をどうするのか決める力と権利が今のシドの持ち物の全てである。
 そこに世界の行く末など関係はなかった。
 ラジエルの書を全て読み解き、亮を世界から解放できればそれもよし。
 だが無限の時間を持ってしてもそれが出来ない場合、どうするのか──。
 すでに心は決まっている。
 それが破壊者だというなら言えば良い。
 亮の愛する全てを時の氷漬けにし、傍らに飾っておこうと思う。
 そうすれば亮の笑顔は失われない。
 エゴそのものを剥き出しにし、シドは亮を世界から奪い取る。