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 黒髪短髪に白いものの交じり始めた壮年の男が廊下を歩いて行く。
 グレーの作業着を纏った彼の身なりはこざっぱりとしており、汚れ物を入れたカートを押すその目には理知的な輝きが宿っている。
 彼は名誉ある準機構員の中でもヴァーテクス付きの次に名高い樹根核観測所勤務の任を与えられたキャリア組であり、アクシスで打ち上げられるという過酷な環境にも耐えうる肉体とアルマを持つエリートである。
 準機構員訓練の過酷な第八ステージを卒業し見事にサテライト合格を果たした彼は、IICRというスペシャルな環境で働くことを許された数少ない“コモンズ”の一人だ。
 そんなエリートである彼が、花形であるラボの『オペレーター課』ではなく『生活管理課』に配属され、研究員達の衣服・装備品のケアから食の提供、館内の清掃まで一手に引き受けるメイドの真似事のような仕事内容を受け持つことになった当初は、少なからず不満もありはした。
 だがここのところはとても気分が良く、日々充実して過ごしている。
 ずっと感じていた自尊心や承認欲求など、本当にくだらないものだと今なら笑ってしまうくらいだ。
 二年半前、ヴェルミリオ急襲事件の三日後──、仕事中に思いも寄らぬ怪我をし二週間ほど休職したことが彼の心の転機に大きく関与していたのだと自分ではそう思っている。
 勤務を外れて己自身のことを振り返り落ち着いて考える時間があったおかげで、自分が如何に恵まれていたか思い至ったのだ。
 今も彼は意欲的な心持ちで重たくなってきた回収カートを押し、廊下の一番奥へと向かっている最中だ。
 屈辱感すらおぼえた『各部屋を廻り汚れた衣服と破損した備品を交換する』というこの仕事も、今ではやりがいのある重要な任務だと考えられるようになっていた。
 目的の扉前へ到着した彼はまず足下についた小さな上開きドアの把手を引く。
 ガシャリと姦しい音をたて開いた先は金属製の籠になっており、中から丸まった白衣の塊とその下に埋もれていた耐水性の安全靴を引っ張り出す。白衣の塊にはよくわからない青や茶の染みがついており、危険な薬品である可能性もあるためなるべく匂いを嗅がないようそれらを広げつつ、ポケットというポケットに手を突っ込んで中に何も入っていないかの確認をする。
 これを怠るとポケットの中の内容物によっては洗濯機が破損する恐れがあるだけでなく、重要なメモ書きなどが入っていた場合などは取り返しの付かない事態となり理不尽なお叱りと処分を受ける羽目になってしまう。
 慣れた調子で手際よくチェックを終えカートの中に放り込むと、次は対酸対アルカリ性のゴーグルを付けて重量のある安全靴を取り出し覗き込む。
 中、外面、靴裏と入念に見る。靴底の一部が溶け落ちているのがわかった。
「また交換だな」
 思わず溜息と共に言葉が漏れる。
 統括の備品に対する愛情のなさは折紙付で、衣服も靴も一月と持つことはない。酷いと卸してすぐの新品がその日に原形を失うことすらある。
 彼が休職を余儀なくされた事故はこの作業中に起こった。
 靴底に着いていた薬品の塊のようなものが眼球に落ちかかり大きな負傷を負ったのだ。
 幸いすぐに適切な応急処置を施され、手厚い医療棟のケアを受けて失明の難を逃れることができた。しかも労災と言うことで二週間の有給付きだったのだから彼としてはIICRへ文句をいうこともない。
 常に危険と隣り合わせの職場ではあるが、こういうところはさすがだなと彼は自分の進んだ道に間違いはなかったと悦に入ったものだ。
「どうやったらこんなになるんだ」
 靴底の一部がぶらぶらと提がったピカピカの安全靴を廃棄ボックスへ放り込みながらゴーグルをはずす。
「やあ、カリッド。体調はどうだい? まだ目は痛む?」
 カリッドと名を呼ばれ彼が顔を上げると、そこには顔なじみの研究員が両手に資料の束を抱え親しげな様子で笑顔を向けている。
「やあ、デニス。いつの話をしてるんだ。医療局の治療はパーフェクトだったよ、今は以前より視力が上がったくらいだ」
「そりゃすごい。さすがはうちのベルカーノたちだ。俺もこの憎らしい老眼を治してもらいたいよ」
「ははは。僕もそうお願いすれば良かったな。──デニスの方はどう? ラボの工事は全部終わったのかな」
「ああ、やっと先週末でね。長く掛かったけど観測所もどうにかあの急襲事件から日常に戻りつつあるよ。そのお陰でこうして俺も統括のお使いで館内中走り回らされてる」
「お互い楽しい仕事ってわけだな」
「違いない」
 二人は笑い合うと、挨拶を交わして別れていく。
 ここの回収が本日最後の業務であり、カートを次の担当者へ渡せば任務終了だ。
 明日は休みで今夜最終便のアクシスの搭乗手続きも済んでいる。部屋に帰ったらすぐに荷造りをして家族の顔を見に帰る準備をしよう──。そう考えるだけで彼はますます幸福な気持ちになった。








「ジオット、タオルとパンツはこっちのカバンに詰めときますからね」
 備え付けのクローゼットへ頭を突っ込んでいたドレッドヘアの男が背後を振り返り、小さなボストンバッグに膨れあがる布地を力でねじ込みつつジッパーを強引に閉めている。
 廊下で何やらリモーネと話し込んでいたシュラはその声に室内に戻ると「お、悪いなジョーイ」と言葉を返した。
「てか、ヴォルカン目の前に居るのに何考えてんだバカ。俺はもうクラウンじゃねーんだからシュラでいいっつったろ。」
「いや、そうなんすけどね……」
 広々とした部屋には大きなベッドが一つと小さな応接セット、大型のテレビにPC用デスク、小型のキッチンや洗面施設も付いており、さながらホテルのスイートルームのようだが、漂うクレゾール臭は間違いなく病室特有のものだ。
 その広い病室内には現在シュラを含め四名の男達がおり、それぞれ退院支度の手伝いを黙々とこなしている。
 二年半に及ぶ長期入院ではあったがしかし荷物自体は少なく、この人数で取りかかれば荷造りや片付けもあっという間に終わってしまいそうであった。
「おいジオット、書類のサインはココとココとココ……、三枚でいいんだな?」
「ヴォルカンまでカラー呼びか。クラウンはあんただろ」
 シュラの渋い顔に豪快な笑い声で応えると、ベッド付属のテーブルでペンを走らせていた現カウナーツクラウンがびっしりと文字の書き込まれた紙切れを数枚つまみ上げ、近づいてきた元カウナーツクラウンへ手渡した。
 それを受け取るのはヘアラインの入った美しいメタル製の指先。
 金属の左手が低い機械音を奏で器用に薄い紙を掴むと、肉で出来た右手がそれを捲っていく。
「……うん、大丈夫そうだ。ありがとうございます、ヴォルカン。これであとはヴァーテクスにこいつを出して、面倒ごとは全部終わりだ」
「なぁおいジオット。そんだけ器用に使えるんだ、左手一本なくなったからってここを辞めることなんてねぇんじゃねぇか?」
 ヴォルカンに同意するようにこの部屋に居るシュラを除く全ての人間が何度もうなずく。
「そーすよ!今、獄卒対策部が空前の人材不足なの知ってるっしょ。オレだって昨日まで監獄で喰って寝てのニート生活だったわけでブランクありまくりだし、うちの期待のホープ、ルキだってオレが帰ってみれば研究局に取られちまって居なくなってるっていうし、この上、大黒柱であるあんたまでとなっちゃこの先どうやってシフト回していけばいいかわかんないっすよ」
 尖らせた唇に銀のピアスが光る。ライムグリーンの髪は昨日のうちに染め直したものらしく、カーテンの隙間から差し込む昼行に照らされてこちらも派手に輝いている。
 シド・クライヴが事件を起こした一週間後、樹根核打ち上げの行われた深層セラ『ヴィーナスダイス』まで彼を送り届けたという謀逆幇助罪でPROCのメンバーは全員拘束され取り調べの後、特別収監施設に拘束されることとなった。
 法務局での裁判で、ライドゥホ種のU子・モルガンビッテが語った「上官に命令されて拒否することなどできない」「たとえ無茶苦茶で有名なヴェルミリオとは言え、深層セラから肉体を引き上げるだのそこから樹根核まで生身で上がるだの、ヒトとして考えられるわけがない。常識の範疇にない」「私たちは任務だと聞かされていた」という訴えが功を奏しどうにか転生刑は免れたが、それでも事件の重要性からヴィアンコの裁定を仰ぐまでは無期限拘束という措置となり二年半の間それぞれが独房で過ごす羽目となっていた。
 それが昨日急転直下、突然の釈放となったのだ。
 しかも今まで通り獄卒対策部での活動へ戻れという辞令まで受け、カイは狐につままれたような心持ちで現在この場に居る。
 そんな状況に置かれていた彼は、副官を務めたジオットの左腕がなくなっており、まさかこのような酷い有様で長期間の入院を余儀なくされていたなどということも寝耳に水であった。
 釈放、美容院、帰宅、シャワー、睡眠、朝食、電話、そして今――という淀みない流れで事は進んでおり、彼の脳には完全に状況把握する余裕も時間もなかった。
「カイ、おまえには苦労掛けるがヴォルカンの第二補佐としてカウナーツの連中をうまくまとめていって欲しい」
 頭をぐしゃぐしゃと撫でる右手の感触は慣れ親しんだジオットのものである。だが、髪を乱されることを嫌がるカイに対しいつもわざと両手で大袈裟に掻き回していたシュラのやり方を彼の感覚はしっかりと覚えていて、今はそれが一本のみになってしまったという事実に思わず涙が浮かんだ。
「ジョーイ。おまえは対策部の副官としてヴォルカンのサポートしっかり頼んだぞ」
「っ、おカシラぁ――」
 いつも冗談交じりで呼んでいた呼称がジョーイの口から零れ出た。
 常にイカらせて歩く癖のあるイカツイ肩が、見る影もなくすぼめられている。
 シュラの右手がそれを正すかのようにバンバンと強く叩くと、ジョーイは唇をゆがめて瞳を潤ませた。
「三人ともそんなにシュラを困らせないであげて」
 見かねて部屋へ入ってきたリモーネがため息交じりにそう言うと、手に持つ薬の束を袋ごとシュラへ押しつける。
「痛み止めと剥離剤よ。幻肢痛が出たときはこっちの白い錠剤を最大二粒まで。間隔は四時間は空けてね。で、青い錠剤は朝晩二錠ずつ必ず飲むように」
「まだ飲むのかよ。薬は苦手なのおまえも知ってるだろ?」
「諦めないで。少しずつでも効果のあるものを探っていかなくちゃ」
「……おい、プラム。そいつは何の薬なんだ? 痛み止めはわかるが――、リハビリさえサボらなきゃ怪我の具合はもういいんだろ?」
 リモーネがちらりとシュラを見れば青い瞳が視線を外す。
 どうやらこの男は何も他の者に話していないに違いないと、主治医である彼女は悟る。
「感心しないわね。後を任せる人たちに何も知らせず去るだなんて」
「……聞かされたって気持ちのいい話じゃないし、それで何が変わるわけでもないんだ。言わねぇ方がいいことも世の中あるだろ?」
「どういうことだ、ジオット! ここまで聞かされてその先なしってのは酷いぜ」
 いつもは飄々としたヴォルカンが珍しく真剣な口調で問い詰める。
 静まりかえった部屋には空調の音と階下から聞こえる患者達のざわめきだけが背景の一部のように響くだけだ。
 シュラは一つ大きく息を吐くと思い切ったように、一人のボスと二人の部下へと向き直った。
「今の俺はソムニアとして成り立ってねぇ。肉体とアルマがくっついちまってるんだ。セラへ行くこともできねぇから人間ですらなくなったのかもしれない」
 ひっつめたような短い呼吸が漏れていた。誰のものなのかはわからなかったが、この場に居る三人の男、誰のものでも違いはなさそうだった。
「コモンズとしてでもセラへ上がることができれば少しは役に立てることもあるかもしれんが……こんなザマでな」
「っ、そんな、……そんなこと、あるのかよ。肉体とアルマがくっつく? そんなの聴いたこともねえよ!」
 一番年若いカイが呻くように叫ぶ。
「すまん、もっと早く言やぁ良かったんだが、なんかちょっと言い出しづらくてよ」
「……なるほど、おかしいと思ったんだ。左手一本なくしたくらいでおまえがIICRを出てく――それも籍を抜くだなんてな。休みたいなら休職扱いだってできるだろうし何より転生すれば腕くらい生えてくる。もしアルマ欠損でそれが無理だとしても、籍を抜くほどのことじゃあない」
 ヴォルカンの言葉にジョーイとカイの視線がシュラの持つ書類へと向けられた。
 あれは退院届けだとか休職願だとかそんな類いのものだとなんとなく考えていたが、どうやらそんな可愛いものではなかったらしい。
 依願とはいえ除籍となればIICRからの完全な決別だ。
 この先シュラがこの場へ帰ることは二度とないということだ。
「除籍……する? 単なる休職なんでしょ?一年くらいバカンスして戻って来るんでしょ?違うんすか? え? なんでですか、そんなの必要ねーよ! セラへ上がれねぇなら地上勤で俺たちに指示してくれたらいい。俺たちいくらでもおカシラの手足になって動きますよ!」
「ジョーイ。無茶言うな。そんな仕事で置いてもらえるような甘い職場じゃねぇだろうが。ん?」
 諭されるように微笑まれ、ジョーイは口をつぐんだ。彼自身もよくわかっているのだ。今言った提案があり得ないことくらいは。それでも言わないではいられなかった。
「けどプラム、その青い薬飲んでれば治るんっすよね? 少しずつでも剥がれていくんでしょ? タイムリミットが今世死ぬまでだっていうなら、ジオットはおっさんみたいだけど、まだ二十七歳です。人生まだ五十年、六十年あるんだ。間に合うに決まってますよね?」
「は? どういう意味だよカイ。タイムリミット? 不吉な言葉使うなよ」
「……おまえは見た目と違って賢いから困るな」
 困り顔のシュラが一度天井を仰ぎ、すがるようにリモーネを見た。言外に「気づかないでいてくれれば良かった」と態度に出てしまっているがそれをとがめ立てするものは誰も居ない。
「そうする為に私たちも全力で治療を続けるつもりよ」
 シュラのヘルプを受けリモーネが後を引き継ぐ。
「だからどういうことなんだよ、プラム! 俺にもわかるように言ってくれよ!」
「そのままの意味よ。ジオットのアルマと肉体は癒着してしまっている。つまり肉体が死亡し滅ぶとき、癒着したアルマも生樹に戻ることなくこの現世で共に朽ちてしまう――。そういうことなの」
 ジョーイの黒い瞳が見開かれ、喘ぐように口を大きく開けた。
 何かを言おうとして言葉が出てこないようだった。
「なんてこった。時限爆弾的に寂静するってことか。だから自主的に除籍――、納得だ」
 ヴォルカンが頭を垂れしわの刻まれた目元を手で覆った。
 呼吸を忘れていたかのようなジョーイがか細い声で震えるように口を開く。
「す……ぃません。っ…………うちの、大将が……やらかしたことが原因で、おカシラが……そんなことに、なる、なんて、……っ、俺っ、おれ、……っ……」
 拳を握りしめうつむいたジョーイの足下に、ポタリポタリと雫が落ちる。
 静かな午後の光の中、低い嗚咽が途切れ途切れに流れていた。
「勘違いすんなジョーイ。これはシドには関係のないことだ。あいつは確かに樹根核をぶっ壊すというとんでもない暴挙をやってのけたが――それだけだ。それにあの急襲は俺も望んだことだったしな」
 見せつけるように機械仕掛けの左腕を動かして見せ、
「この左手は俺が俺の戦いで取れちまっただけだし――」
 綺麗に編み込まれたドレッドの頭をぐりぐりと右手で撫でる。
「アルマの癒着も、俺が俺の大事なものを守るため選んだ道の先にあったものだ。むしろこれがなければ俺はあの場にとどまれていなかったんだろうと思う。つまりはまぁ……。自業自得、っていうと言い方が悪いな。そう。全部俺の意志ってヤツだ」
「っおカシラ! でも……」
「いいから鼻水なんとかしろ。酷い顔だぞ」
 大きな図体で顔面崩壊を起こしたイザの副官へ側にあったティッシュボックスを投げつけると、カイが準備していたスーツケースとジョーイの足下に転がったボストンバッグを掴みあげた。
「もうここには来られないが、本館のカフェくらいにならゲストとして出入りもできる。永遠の別れじゃねぇんだ、なんかあったら電話しろ」
 穏やかな口調でそう言うと改めてリモーネに向き直る。
「世話んなった」
「当然でしょ、私を誰だと思ってるの」
「それから――。すまねぇ、色々とおまえには謝ることばっかだ、リモーネ」
「……バカね。悪いと思うなら毎月ちゃんと医療局外来に顔出すのよ?」
 シュラは「わかってる」と軽く笑うと、この二年半、血を吐くような治療とリハビリに明け暮れた医療棟特別病室を後にする。
「いいか、シュラ。俺が頼まれたのはおまえが戻るまでの“臨時クラウン”なんだからな! いつかの約束通り、必ず戻って来いよ!」
 ヴォルカンが白い廊下の先へと消えていく背中へ声を掛ければ、白銀の左腕が応えるように高く掲げられた。