■ 5-9 ■


 ゲボ・プラチナは半ば走るように目の前を行く人物に追いすがる。
 会議後で人通りの多い廊下を脇目もふらず進む長身は彼を振り返ることもなく、そのリーチの差で少しでもスピードを緩めれば置いて行かれてしまうのは必至だ。
 背後から自分を呼ぶインカの声が聞こえたが、プラチナはそれにちらりとも反応せず腕を伸ばして眼前の黒いコートを掴んでいた。
「シド! さっきから呼んでんのに、無視とか酷いよっ」
 そこでようやく足を止めた男は、琥珀の瞳を自分よりずいぶんと下の位置にある少年の顔へと落とす。
「なんだ。用ならば手短に言え」
「そんな態度僕に取ってもいいわけ!? 誰のおかげでシドの欲しいモノが手にはいるかわかってる?」
「…………」
 腰に手を当て不機嫌そうに白い頬を膨らませた少年に、シドは溜息を一つつくと再び歩き出した。だが今度は後から付いてくるプラチナ──、シャルル・ルフェーブルの歩幅に合わせたスピードだ。
「もちろん、おまえとセブンスには感謝している」
「ホントにそう思ってるならもうちょっと僕に付き合ってくれてもいいじゃないか」
「もう少しアレが落ち着いたら、改めて礼に行く。悪いが今は時間がない」
 シャルルは思わず足を止め目を丸くし、置いて行かれそうになって慌ててシドへ駆け寄った。
 あのシドの口から「礼」だの「悪いが」だのそんな単語が飛び出してこようとは、夢にも思わなかったのだ。
 しかしそんな言葉をシドに言わせるほど、成坂亮の容態はよくないものなのだろうということが、シャルルにもなんとなく伝わってしまう。
 ビアンコからハイキューブ精製の話を聞いたとき、シャルルは耳を疑った。
 ハイキューブは前時代の遺物的薬品である。ゲボを人間ではなく──能力向上の材料として利用していた忌むべき時代の象徴であり、その薬を精製するために百を超えるゲボ達が犠牲になってきたと聞いている。
 それを今、この時代に再び作って欲しいとビアンコは言ったのだ。
 当然シャルルは首を縦には振らなかった。ビアンコはおかしくなってしまったのかと恐怖を覚えたほどだ。
 だが話を聞けばそれはある人物の命を救うためであり、能力向上目的では決してないと言う。もちろんそんな言葉を鵜呑みにするほどシャルルは幼くはないし、彼にはガーネットより新たなクラウンを受け継いだ、ゲボの長として他のゲボ達全てを守らなければいけない義務と責任がある。人助けだ治療だと、それらしい理由を聞いたとておいそれと承諾してしまうことはなかった。
 そんなシャルルが結局この話にGOを出すことにしたのは、出来た薬を使う相手の名を知ったから……である。
 ビアンコは言ったのだ。
 今、命の危機に瀕しているのは成坂亮であると。
 シャルルのなかで何かがすとんと腑に落ちていた。ビアンコの言うことに偽りはないのだろうと理解してしまう。
 八番目のゲボ、成坂亮。
 去る年、彼がセブンスでどんな事件を引き起こしどんな顛末になったのか──思い返すだけで今になっても背筋が凍りつきそうになる。
 自分と同じゲボでありながらガーネットに疎まれ悲惨な環境のまま死に瀕した彼は、シャルルの一番欲しいものを手に入れた、世界で一番不幸で幸福なゲボだ。
 そんな亮が、今度はそんな前時代の薬が必要なほどに打ちのめされていても何の不思議もない──とそう思えてしまう。
 今の科学があればゲボ達にかかる負担は少なく、目的の薬は精製できるという。
 そこでやっとシャルルはその話を承諾することにした。
 そしてビアンコの言葉を裏付けるかのように、あのシド・クライヴがカラークラウンとして復活し突如シャルルの前に現れたのである。
 シャルルに聞きたいことは山ほどあった。だが、斜め前を歩く男には今は話す気はまるでないらしい。
「おまえの方こそすぐにセブンスへ帰らねばならんだろう。アレの身体がじきに到着する時刻のはずだ」
「そんなの言われなくてもわかってるよ。だから声かけたんじゃないか。シドも来るんでしょ? なら一緒に──」
「俺は行かない」
 シドの言葉にシャルルは思わず歩みを止めた。今の答えが聞き違いではないかともう一度一瞬前の音声を脳内で再生し、やっぱり聞き違いじゃないと悟ると焦ったように小走りでシドへ追いつく。
「は? え? 何言ってんのさ。行かないって……」
「身体の方は兄の修司に任せている。俺は中の新たな病室で付きそうつもりだ」
「そっちはプラムやウィスタリアもいるんでしょ? なら問題ないじゃない。逆に身体の方に付き添うのがドクターレオンと一般人の男だけってのはおかしいでしょ。シドは僕と一緒にセブンスへ来るべきだよっ」
「一般人の男──ではない。アレの兄だ。彼に任せておけば心配はない」
「はぁ!? セブンスに執事でもない一般人を入れるだけでも異例だっていうのに、そいつに付き人を許すだけじゃなく全権を任せるっていうの? 僕はそんなの聞いてないよっ。シドが付きそうってことで部屋の使用を許可したんだ!」
 目を覚まさない亮に付きそうシドを、甲斐甲斐しく手伝って側にいてあげようと考えていたシャルルにとって、シドのこの宣言はどこをとっても納得いくはずもないものだ。
 しかもこの様子だとシドはほぼセブンスには足を運ばないらしい。イコールシャルルが甲斐甲斐しく手伝える相手は亮の兄だとかいう取るに足らない無価値な一般人ということになってしまう。
「絶対ヤだ。ヤだからね!」
 蒼い瞳を鋭くとがらせ、駄々っ子モードですっかり意固地になったシャルルの頭にシドがポンとその大きな手のひらを置き、立ち止まる。
 びっくりして目を丸くしたシャルルも自動的に歩みを止め、反射的にシドの顔を見上げていた。
「ここでは修司への風当たりが強いこともあるだろう。時間が許す限りでいい。おまえがついていてやって欲しい。──頼めるか」
 まっすぐに向けられた琥珀の瞳に、シャルルは呆然としたまま「うん」と小さくうなずいてしまった。
 シドの瞳がわずかに細められ、シャルルの心臓はどきんと跳ね上がる。
 身動きが──いや、呼吸一つすら取れなくなったシャルルを残し、シドは振り返ることもなく歩き始める。
 だがシャルルはそれを見送るだけで精一杯で。
「そ、……そんな顔一つで、僕は思い通りになったりしないんだからねっ」
 体中が心臓になってしまったかのように全身にこだまする鼓動を無視し、シャルルは怒りにまかせ遠ざかる背へそう声をぶつけていた。






 シドが戻る頃には、すでに亮のアルマは研究局中央ラボに併設された特別実験棟へ移送されている最中であった。
 通常であれば一旦リアルに戻りセラへ入り直すのが最も早く負担の少ない方法なのだが、現在の亮のアルマを肉体に戻すことは大きな危険を伴うため、もう一つの方法──セラ間の移送が取られることとなったのだ。
 セラからセラへ移動するには何もない煉獄空間に道を開ける必要があり、またその不安定なトンネルを移動するという離れ業をやってのけねばならない。そこで使われるのが、それら必要な事柄全てを可能とする能力を持つ者──ライドゥホ種ということになる。ライドゥホの操る乗り物はそれだけでセラ間移動可能な車両となり、その能力値に応じて操れる乗り物の規模や運べる量、また目的地への到着時間などが変化する。
 今、彼が立っているのは巨大な工場を彷彿とさせる建物群の一角。夜の帳がしっとりと世界を覆い、それを切り裂くように淡緑色をした常夜灯がそこかしこで眩い光りを放っている。黒く絡みつく幾本ものパイプがその光りを受けて鈍く輝き、剥き出しの金属で作られた機能美すら垣間見える建物の間を縦横無尽に走っていく。
 すぐ側にある大きな平屋には高さ七メートル、幅十メートルほどの古ぼけたシャッターが張り付いており、それが今派手な音を立て上がっていく。シャッターの動きに呼応するかのように、眼前の巨大なトレーラーはバックで搬入口の内側へと進んでいく所だ。
 その迷いのない走りに、シドはこれを運転する人物を特定していた。
 ライドゥホのクラウンは会議に出席していた。となるとナンバー2である彼女である可能性が高い。
 高さ5メートル、全長25メートル超。16輪ステアリング装置付きのモンスター級マシンでセラ間移動する人間など他にいるわけがない。
 運転席部分をハンドルで操作し、後方輪をリモコンで操りながら恐ろしく滑らかにバックで建物内へ侵入していくトレーラが一瞬ぴたりと動きを止める。と、窓ガラスがするすると沈み、シドの思った通りの人物が顔を覗かせていた。
「あら、ヴェルちゃん。お久し〜♪ 相変わらずゴーヤー丸かじりしたみたいな苦い顔しちゃって」
 野太い声と共に現れたのは角張った顎に分厚い唇、長い睫毛エクステとアイラインに縁取られた垂れ気味の目を持つむくつけき男の顔。その金髪はモードなボブにカットされ大き目の顔を覆うように頬にかかっている。
「今回はナニ運ばせてくれちゃってるわけ? あんたが研究局と組んでなんかするなんてびっくり。この水槽の中にはどんなお魚ちゃんが泳いでるのかしら」
「U子。無駄話は後だ。さっさと仕事を終わらせろ」
 シドの無愛想な一言に、慣れた調子でU子と呼ばれた男は眉を上げ、むき出しの筋骨隆々とした浅黒い肩を竦めて見せた。脇の下で牛一頭絞め殺せそうな筋肉はこの巨大トレーラーの重いハンドルをパワステなしで自在に操る為の彼女の武器であるとも言える。
「出戻って来ても愛想なしねぇ〜。女子と違って男子は顔だけ良くてもダメなのよん? わかられるぅ?」
 独特の言い回しでひとしきりシドをからかうとU子の顔が再び窓ガラスに隠れ、モンスターマシンは瞬く間にシャッター内部へ収まっていく。
 シドが後を追い建物内に足を踏み入れたときにはもう、トレーラー後部の荷台の覆いが取り払われ、漆黒の金属で作られた巨大な箱が姿を現していた。
 そのサイズ、高さ3メートル、横10メートル、奥行き4メートル。待ちかまえていた研究局の人間により準備された天井からのクレーンがそれを吊り下げ、ゆっくりと大型フォークリフトの上へと降ろしていく。
「揺らすなよー」
「わかってる、そっと。そっとだぞー!」
「時間がない、箱の耐熱限界までもう三十分切ってる。53号施設はクソ遠いんだからな、急がないと!」
「それもわかってますって!」
 作業にあたる数人の男達の間にピリピリとした空気が走っていた。
 小さな体育館ほどの広さがあるであろうそこは頭上の数カ所のみ明かりが灯されただけで薄暗く、全貌はよく見えない。ただ明かりの届く範囲で目に入るのは、コンクリート打ちっ放しの内壁に沿うように並べられた何台もの輸送車やフォークリフト。その他錆びたコンテナの山や積み上げられた麻袋など、雑然とした倉庫そのものだ。
 トレーラーの数センチ脇にはいくつもの木箱が山を為し、ほんの少しでもハンドル操作を誤れば「振動厳禁」とされたこのブラックボックスごと派手にそれらを突き崩していてもおかしくない状況だ。
 そんな数センチ、数ミリ単位のドライビングテクニックでもって荷物の搬入を終えたU子は、運転席の窓を開け、エメラルドグリーンのキャミソールに包まれた逞しい上半身を乗り出すようにこの状況を見下ろしている。
「やぁだ、50番台の施設なんて処刑専門の研究ラボでしょ!? ヴェルちゃん、あんた今度はそんなところに関わっちゃってんの!?」
 呆れたように声を掛けるU子を振り返ることもせず右手を一降りして応えると、朱髪の長身はフォークリフトに付き添うように、奥に開いたシャッターのその先へ歩みを進めていく。
「んもう、また早死に確定ね。うちのボスをあんまり喜ばせないでよ?」
 溜息混じりに送ったその声に反応したのはだがシドではなくシドの行く手を遮るように立つ人物──。
 ひょろりとした体躯を猫背気味に丸めた白衣の男。
「ちょっとちょっと、物騒なこと言わないでよライドゥホのお姉さん。うちもスティール時代とは方針変わったんだからさ」
 ぼさぼさ前髪に遮られた丸めがねのさらに奥、眠たそうな黒い目を困ったように細め、エイヴァーツ・ウィスタリアはその冴えない風貌からは想像できない甘い声音で素っ頓狂な声を上げていた。
「ていうか、そもそもライドゥホはボスの方針で全員反ヴェルミリオなんじゃないの?」
「アタシはいつでも中立よ。性別含め、ね」
「ふ〜ん、なるほど。だからキミを指名したんだね、ビアンコは。お疲れ様。わかってると思うけど、運び込んだ荷物と施設番号のことはキミのボスを含め他言無用でお願いします」
 ウィスタリアは困ったような微笑を浮かべたまま唇に人差し指を添えてみせると、小さくウィンクを送る。
 U子はそれに投げキッスで応えると「契約は絶対よ。じゃーね、朱色ちゃん藤色ちゃんお疲れちゃーん」と軽快な言葉を残し鼻歌交じりに車をスタートさせていた。
 トレーラーの巨体は重たそうに身を震わせ、ゆっくりとシャッターの外へ走り去っていく。
「……は〜。うちの作業員も口が軽くて困る。普段内部でしか仕事をしない引きこもり集団なのがダメなんだろうなぁ……っておい、シド!」
 遠ざかるエンジン音をバックに疲れたように呟いたウィスタリアの横を、シドは苛ついたようにすり抜けていき、慌てたウィスタリアはその後ろを追う。
「久しぶりだってのに挨拶もなしかよ」
「挨拶ならさっきした」
「あのメチャクチャな会議のこと? あれは挨拶ってぃぅか……殴り込みって言った方が……」
 二人は前を走るフォークリフトの後を追い、再び空の下、工場然とした施設内を走るアスファルトの道路上を歩いていく。
 今このセラは深夜1時半。頭上には大きな二つの満月が輝き、二人の足下には二本の影が短く伸びている。
 不思議とその光源は点々と立つ薄ぼんやりとした街灯よりも明るくこの地を照らし出していた。
 春の生暖かさにも似た湿った風が吹き抜け、そこかしこを走るパイプやプレハブの間を縫って獣の鳴き声のような唸りを上げた。
「部屋はできてるのか」
「ああ。外壁はそのまま転用が可能だったんだけど、内装やベッド、医療器具みたいな機材は新たなコーティング化が必要だった。現在は急ごしらえの即席ケアだけど、数日中にはきちんとしたものを作って随時交換していくつもりだ」
「こんな場所にあいつを置いておかなくてはならんとは……」
 呟かれた言葉は聞き取れないほどに小さく、それがウィスタリアに向けられたものではないことが、昼行灯と謳われる凡庸な質の彼にもわかる。
 元々諜報局と研究局は折り合いが悪く、それがヴェルミリオとスティールの代になり激化したことを研究局に永年勤めているウィスタリアはよく知っている。
 IICRへ入構する前からシドとは付き合いのあったウィスタリアとしては、何とも複雑な思いがしたものだ。
「気持ちはわかるけど仕方ないよ。ここは医療局からもセブンスからも離れてるけど、彼の症状を聞けば他に入院させられるような場所がみつからない」
「……ああ、わかっている」
「プラムやドクターレオンも交代で詰めてくれるそうだし、僕も出来る限り力を貸すからさ。一刻も早くあの子を連れて家に帰れるようにがんばるしかないさ」
 シドはちらりと横を歩く男の顔を見下ろし、また前を向く。
「ウィスタリア。おまえは──」
「うれい。有伶でいいよ、前と同じで。ウィスタリアって長いから」
 葛藤 有伶<かつら うれい>。
 ここへ入構する前よく顔を合わせていたこの男とは、IICRへ入って後ほとんど口をきいたこともなかった。
 イザであるシドは諜報局へ配属され、同じ時期入構を果たしたこの男は研究局を希望した。この二つの局が犬猿の仲なのは彼らがこの組織に入るずっと以前からだそうである。それを考えなくとも、元々シド・クライヴという男は人間関係を重視しない性質だったし、葛藤 有伶という男は研究一筋の引きこもりだ。
 とにもかくにも、二人は入構後、ほぼ会話はなく顔を合わせたこともなかったに等しい。
「有伶。──手を、貸して欲しい」
「はは、なんだよ今さらそんなこと言う? 昔は借りるどころか、おまえの手は俺の手……ばりに僕のこと便利に使ってたくせに」
「…………」
「黙らないでくださいよ、シドさん。恐いから」
 再び有伶を見下ろしたシドは、昔より幾ばくか歳を取ったが、依然と変わらない面差しでにこにこと微笑む人の良さそうな顔に眉根を寄せる。
 この丁寧な口調は昔、時折シドをからかうのに有伶が使っていたものだ。
 確かにあの頃、未だシドがローチと深くつるんでいた季節。必要となった道具や武器、薬などあらゆるセラ用の物品を彼に調達させていた。調達させていたつもりが、実はそのほぼ全てを彼自身が自力で生産していたと知ったときは驚いたものだ。
 エイヴァーツとは植物に関わる能力だが、彼は己のエイヴァーツを使い様々な合成に必要な素材を自ら育て上げることが可能なのだそうだ。
 もちろんその前段階としてどんな成分の何がどれだけ必要なのか──緻密な計算が必要であり、それなくして能力を使いようもないのだが、彼は己の知識・頭脳と能力を駆使して今までシドやローチのあらゆるリクエストに応えてきた、ということである。
 そんな強力な力を持ちながら、あの頃から彼のこの風に吹かれる柳のような、薄らぼんやりとした雰囲気は変わりがない。
「あの頃みたいなメチャクチャなリクエストじゃない。小さな子のアルマを守るのが目的だろ? そんなの応えない理由がないじゃない」
「…………小さな子、というほど幼くはないが」
「無転生の16歳でしょ? アラウンド250の僕らからしたら十分子供だよ」
「…………。」
 どんな情報を仕入れているのか、にこにこと微笑んだまま有伶はシドの顔を見上げる。
 シドは微かに眉を寄せ「そうだな」と呟いて横を走る黒い箱を見上げた。






 二十分後。黒い箱は部屋の中央付近に鎮座ましましていた。
 16輪のトレーラーで運ばれてきた十メートルクラスはある巨大な箱が、この部屋にあってはいささか小振りに見える。
 亮の新たな病室になる第53号施設は先のQ号棟とは比較にならない広さを備え、十メートルは超える高い天井も相まって、そこは小さな講堂のようにも見て取れる。
 床、壁、おそらくは遙か上方の天井も全体が半透明の艶やかな石造りのようであり、それらが緩やかに発光することによって部屋全体が淡い光りに包まれていた。
 オパールの如き美しいこれら建材は1900年代、とあるセラにて発見された超高熱に耐えうる天然のセラ素材であり、蒸散刑を執行する刑場にも同じものが使用されていることから、霧散したアルマの欠片が凝縮して出来たものであるとか、アルマを吸収して出来上がったものであるとかいずれを取ってもオカルトじみた噂が囁かれ、『看取りの石』という縁起でもない俗称で呼ばれたりもしている。
 ぐるりと見回したシドはその『看取りの石』に囲まれた部屋に不快感を覚えはしたが、それを今とやかく言うことはできはしない。
 現在の亮の状況に耐えうる部屋となれば、この素材を使うしか他に方法がないことは彼にも十分に理解できていた。
 ブラックボックスを設置し終えたフォークリフトは係員と共にすでに部屋を出た後だ。
 第53号施設にはシドと有伶の二人だけ。
 その二人の眼前で、ブラックボックスは不意に色を失うと、バラバラと灰の如く床へ崩れ去っていく。
 時間はQ号棟を出てからセラ時間で5時間半。到着設定時間ちょうどとなったところだった。
 崩れ行く灰の内側から、青い水をたっぷりと湛えた巨大な水槽とそれを見上げる一人の女が姿を現す。
 白衣を押し上げるむっちりとしたボディーを有した彼女は、左腕に巻かれた時計と水槽を交互に眺めながら、水槽の壁へと細い指先を触れさせていた。
 と、水槽に触れたと思った瞬間、その指先はずぶりとその先に進み、腕の付け根までずぶずぶと進んでいく。
 よく見ればそこにあるのは水槽でなく──『水』そのもの。
 きっちりとした立方体の形を為した『水』が、何の容器に頼るでもなく、空中でその形を保っているのだ。
 物理法則を完全に無視した容器無き水槽の中、白衣の女──ベルカーノ・プラム。本名リモーネ・ソルティアは一人の少年の腕を捕らえている。
 水中で身を投げ出すように仰向けに浮かぶ少年は、背から生える大きな純白の羽根に埋もれるように静かに目を閉じている。
「脈拍は戻りつつある。大丈夫、あと一時間ほどで蘇生する」
 リモーネは背後にいる二人へそう告げると腕を引き抜き、くるりと振り返っていた。
 水中へ差し入れていたはずの右手で長い髪をかき上げ、ヒールの音も高らかに二人の前へ歩み寄る。
 彼女の右手は肩口まで水中へ没したはずなのだが、全く濡れた気配を見せていない。
「さすがプラムだ。仮死状態でセラ間移動させるなんてそんな作戦実行出来ちゃうんだもん、まさに奇跡だね。恐れ入ったよ」
 有伶が心の底から恐れ入ったかのように溜息をつくと、近寄って巨大な水の塊を見上げていた。
「それから亮くんのコレを封じてるラグーツの原初水にもね。データでは可能だと指し示されていたけど、実際それを目の当たりにすると──作戦を提唱した僕が無責任だとは思うんだけど……信じられないよ」
「ハイキューブを使用した仮死化は古くから研究された文献が残っているからな。今までの亮のデータと照らし合わせればあとは正確な計算と実行する胆力の問題だ。奇跡でも何でもない。亮が途中で目覚めパニックを起こして暴走してしまう危険性を考えれば、仮死化の方が何十倍も安全だった。……おまえが会議に出て不在の間、この子に何かあってはおまえや私の元彼に殺されるからな」
 リモーネが冗談とも真剣ともつかない様子で声を掛けた相手はすでに水塊の中へと無遠慮に入り込み、羽根にくるまれたままふわふわと浮かぶ少年の身体を抱き上げたところだった。どうやら彼には会話をする意志がないどころか、その目に映るのは水槽に浮かぶ少年ただ一人だけらしい。
 苦笑気味にそれを眺めるリモーネと有伶の前に、亮を抱えたシドが再び現れる。
 力なく床へと垂らされてはいるがその背に息づく複数枚の白い炎翼は至大で、それらを避けるようにシドは肩口に少年の頬を寄せさせ向かい合う形で亮を抱いていた。
 彼らが水塊から現われた途端、一気に部屋の熱量が上がっていく。
「ベッドは?」
 必要最低限の単語でシドが問えば、有伶は部屋の中央付近に設えられたサンドカラーの天蓋を指さしていた。
 天井から吊されたそれは天蓋というよりテントとでも言える大きなものであり、亮の炎翼サイズを考慮して作られた亮の居室となるものだ。
「あの中に。ここは広すぎて落ち着かないだろうから原初水を素材にしたカーテンで区切ってみたんだ。あれ、ソフトに造り上げるため、亮くんの炎翼には耐えられるけどおまえのイザには耐えられない仕様だから凍らせないように気をつけてな」
「わかった」
 亮を抱え天蓋へ歩み寄るとさっさと中へ入っていくシドの背を眺めながら、有伶は先ほどまで亮を内包していた水塊へと近づき、白衣のポケットより取り出した銀色のカプセルをその中へと放り込む。
 それと同時に青い水塊は中心から徐々に白濁した水色へと変化していく。低い振動音が小さく、響いていた。
「気化させるのか」
 リモーネが問えば有伶は「ご明察」と答える。
「室内にこの特別な原初水を満たせば多少なりとも炎翼の放つ熱を吸収させることができるからね。あまり仰々しい装備を着けていたんでは不自由だし満足な診察も検証もできない。僕や君が生身で近づけないようでは困るからね」
「すごいな、研究局は。この短時間でそのための方法と機械を構築できるとは想像もしなかった」
「ビアンコから最優先研究事項として直接下ろされた指示だったから、まぁ必然的に? 僕を除いて優秀なスタッフがそろってるんだ」
「そう言えばこの水塊。特別な原初水──というと、通常のラグーツが扱うものとは違うのか?」
「ああ、そうだね。ラグーツの扱う水は個々で様々な性質を持つけど、彼の持つ原初水は特殊で他のラグーツとは決定的な違いがあるんだ。それは研究局の資料を紐解いても唯一無二で、今彼がIICRに在籍していてくれたのは奇跡的な幸運と言えるかもしれない」
「特殊、とは?」
「原初水は全ての生命の源でありあらゆるものを溶かすことが可能である『水』のことで、発するソムニアの意志や特質によりその方向性を変化させることが出来るんだけど、あくまでもそれはセラ空間、もしくはリアルでのみの単空間対応でしかない。だけど、彼の持つ原初水は多空間──セラと異界の両方にまたがる特質を持っているんだ」
「!? そんなことがゲボでもないラグーツに可能だとは思えないが」
「だから特殊だって言ったでしょ? この水は謂わば亮くんの持つ炎翼と近しい性質を持っていると言えるんだ。彼の翼もここではないどこかと二重の存在を示していて、そこから無尽蔵のエネルギーを流入させている。対してこの原初水はそのエネルギーを吸収し別の異界へ放出することが可能だ。これほど最適な素材はないでしょ」
「……そんな水を持つラグーツがいるなど聞いたこともなかったが、クラウンであるラグーツ・イーオスの水なのか」
「いや、違う。彼女の能力は群を抜いてるけど、その性質はあくまでノーマルなものだよ。この水の所有者は──っと、ああ……気化が完了したことだし亮くんの診察をお願いしないと」
 有伶が目配せした通り、二人の眼前に揺れていた大きな水塊は今やバケツ大程までその身を縮め、床の上で唸り続ける銀色のカプセルを透けさせていた。
 気がつけば先ほどまでジリジリと肌を焼き、灼熱といっても過言ではないほど上がっていた温度が、快適な室温まで下げられている。
「ただし、翼そのものに触れると火傷じゃ済まないから気をつけて」
 もっさりとした髪を掻きながら天蓋へと歩き始める有伶を追い、リモーネも後に続く。
 肝心の所で話を取り上げられ若干もやっとしながら続く彼女は、エイヴァーツ・ウィスタリアという人物が周囲からどのように称されているか思い出していた。
 大事なところで抜けている『研究局の昼行灯』、エイヴァーツに人材がいなかった為たまたま抜擢された『ラッキークラウン』、研究局トップなのに研究にしか興味が無い『コミュ障局長』。
 彼の研究者としての優秀さには反し、これらの評判は間違っていないのかもしれないと改めて納得したリモーネだった。