■ 5-92 ■




 その日、オレは久しぶりに夢を見た。
 きっとまたミトラが見せてきた記憶の録画映像だと思った。

 ビアンコ様と有伶さんがオレの横にいて何か難しい話をしていた。
 オレは焼除装置のベッドへ寝かされていたけど、目は覚めていた。
 ビアンコ様が居ることに緊張してて、早く処置を終わらせて部屋に帰りたいなってそればかり思ってた。
 ビアンコ様が突然オレの方へ屈み込んできてこう言った。
「亮、これからおまえにとても大切な処置を施すことになる」
 羽根を焼ききる為に何か新しい方法が見つかったのだと思ってオレは少し嬉しくなった。
 でも続けられた言葉はそれとは全く別のものだった。
「改めて言おう。おまえは我々唯一の希望だ」
「我々?」
 何の話だかわからず聞き返すと、
「我々とは人類そのもののことだよ」
 と、深くて低いよく通る声で答えてくれた。
 でも話が大きすぎてよくわからなかったから、オレは黙ってビアンコ様の優しそうだけど少し恐い底の知れない真っ黒の瞳を見返す。
「前におまえの翼と内部のミトラについて、そしておまえの出自について。語って聞かせたことがあっただろう。それを思い出してごらん」
 ミトラってなんだっけ……?ってそう思った瞬間、頭に着いてるリングから小さな羽音みたいな唸りが頭蓋骨に響いた気がした。
 今まで忘れていた、オレの中にいる誰かのこと。翼はそいつの持ち物で、どんなに処置しても取り去ることなど出来ないということ。オレが誰で何のためにここに居るのかということ。
 全部が頭の奥ににじみ出てくる。
 蜜柑の汁で描いた炙り出しで紙の上に秘密のメッセージが浮かび上がるみたいだった。
 手と足の指先が死んだみたいに冷たくなって、オレは身動き一つできなくなっていた。
 有伶さんが頭を撫でてくれたけど、その感覚もない。
 思い出したことは全部が衝撃的で呼吸が苦しくなる。
 でも目の前の大人達は構わず話し続けていてオレの耳は全部の言葉を拾い続ける。
「ミトラは確かに創造神ではあるが同時にこの世界を壊す破壊神でもある。この世界にとって災厄であり異物なのだ。だが今の世界を存続させるための可能性を秘めた有益なモノでもある。それを閉じ込めたままただの力として流用できさえすればいい」
 そんなの、できるわけない、と思った。
 オレの中のアイツは太陽の中心みたいに熱くて今にも爆発しそうだ。
 こんなの誰にも止められるわけがない。
「おまえにならそれが出来る、亮」
 オレの心と直接会話するみたいにビアンコ様が言った。
「おまえのアルマさえ壊れなければ、ミトラをこの世界の再生資源として流用できるのだ。だからこそ我々人類は、おまえを絶対に失うわけにはいかない」
 閉じ込めるってどうやって?
 オレが?
 無理に決まってる。
 オレの中のミトラはもう目一杯膨れあがってオレを内側から食い破ろうとしてるのに。
「これからおまえのアルマを護るための施術を行う。少し苦しいが我慢しなさい。そう長くは続かない」
 何の準備もできなかった。
 嫌だと言う数秒も与えられなかった。
 オレが何かを言う前にビアンコ様がオレの目を大きな黒い手のひらで覆った。
 その瞬間。
 踵から、目や耳の穴から。左のあばらから、右の腰骨から。じっくり、ゆっくり、オレの全身を縦に横に太い木の杭が貫いていき、毛羽だった生木が肉を細切れに引き裂いていく。
 悲鳴を上げた。
 でもその喉にも棘のついた針金が巻き付いて締め付ける。
 悲鳴は血を巻き込んで喉がゴロゴロ鳴った。
 目の前が真っ暗になって、でも内臓が縫われていく感覚がお腹と胸とを這いずってまた叫んだ。
 何を叫んだのかは覚えてない。
 ただオレの耳の奥にこびり付いているのは潰れたような誰かの「ころして、ころして」って声だった。
 時間が存在しないみたいに永遠だった。
 次の瞬間全ての痛みが消えた。
 全てが無音になった。
 世界は真っ白で、音の無い細い息がオレの喉を震わせていた。
 どこにも血は出てなかったし、串刺しにもなってない。
 全部何もなかったような素振りで、オレの身体は冷たくベッドへ横たわっていた。
 死んでしまった脳みそは頭蓋骨の中でしゃびしゃびの水みたいになって風のない湖みたく静まりかえっていた。

「おまえにアルマを護るための柵を入れ込んだ。これで安定の基盤は造られた。あとはオルタナと馴染めば柵はますます強固となるだろう」

 オレの中に生木で出来た硬い骨組みが入れられている。
 きっとそうなんだという感触が、内部から肉を押し上げているような気がした。

「だが時は迫っていた。最も脆い場所には三つの錠を仕掛けておいたが──気をつけなくてはいけない。
 錠は一つ解ければ柵はわずかに緩み、二つ解ければ細くなり、三つ解ければおまえのアルマとミトラとの垣根は消え失せる。
 錠にはそれぞれ【星】【藤籠】【薬瓶】の印があり、いつでもおまえの側にある。が、決して意を持って触れてはならない。
 消滅、解放、統合──それらの意を持ちおまえが触れることが鍵となり解錠されるからだ」

 大きな音でずっと聞こえていた音楽がいつのまにか小さく遠くなっていることに気がついた。

「柵の内側から誘惑の声が聞こえたとしても耳を貸してはならない。
 相手は自分には持ち得ない鍵をおまえに使わせ、錠を開けさせようとするだろう。
 だがおまえに意志がなければ錠は決して解けることはない」

 冷たくなったオレの身体はずっと震えていた。

「それからもう一つ伝えておくことがある。
 ミトラが力を付け最終形態にまで仕上がるとき、おまえの中の柵が緩んだ状態ではたとえオルタナ内であろうと耐えきれない。
 鍵を使わずおまえの内の柵が無理矢理壊されることがあれば、その時は今以上の苦しみを伴うことになる。
 そんなことは嫌だろう?
 だから絶対に三つの錠を必ず健全に保つのだ。
 柵が飛び散りおまえのアルマを切り刻むことのないように」

 頭の中には何も入りそうになかった。
 表面を滑って一文字も染み込んでこない。
 でも、脳みそじゃない胸の奥底にビアンコ様の声が焼き印みたいに文章を刻んでいく。
 こんなこと、覚えていたくないと思った。

「大丈夫。おまえはまたすぐに忘れてしまうよ。
 今はまだ怯えなくていい。
 だが必要なその時、思い出すことだろう。
 たとえミトラがおまえの記憶をおまえから隠そうとしても、時が来れば必ず今を思い出す。
 そしておまえを護るだろう。
 ──もう、眠りなさい。
 目覚めたらおまえの部屋で温かい友人達に囲まれている。
 眠りなさい、亮」

 深く低い声はそれっきり聞こえなくなった。

 これが今日見た夢の全部。
 目を開けたらブルーのシーツと灰色の壁紙が見えて、背中にはヒンヤリとしたシドの体温がある。
 オレは前日眠った体勢そのままでタオルケットを抱えて蹲っていた。
 少しだけ汗を掻いていて、夏なのに寒かった。

「上手くやれていると思っていたが、ビアンコのセーフティガードが働いてしまったか」

 足下から声がした。
 誰かがベッドへ座って話しかけていた。
 どこかできいたかもしれない、でも聞き慣れない声。
 透き通っていて綺麗だけどちっとも好きになれない音色。

「兎の置き土産が思わぬ爆弾を爆ぜさせた」

 ここに誰か居るのに、シドは全然気づかない。
 オレはピクリとも動けない。
 金縛りってヤツだと思った。
 だからこれは幽霊か、そうでなければやっぱりきっと夢だと思う。

「亮、我はおまえを苦しめたいわけではない。ただ我は我の務めを全うする──それだけのことだ」

 でもそれはつまりオレに消えろってことだ。
 オレを苦しめてる。

「おまえの望みはなんだ? どうしたい」

 そいつは──、ミトラはオレの頭の中と会話しているみたいだった。
 でも別に驚くことじゃない。
 だってこれは夢だから。

「そんなこと決まってる。おまえが消えて、オレとシドは東京に戻ってまた前と同じように暮らす。それがオレの望みだ」

 今度は頭の中だけじゃない。
 堂々とオレは言いたいことを言ってやった。
 そうしたらミトラは身体をかがめて覗き込んできた。
 成坂亮と同じ顔が成坂亮であるオレを見ていた。

「我が消えても東京で暮らせるのはほんの数十年だ。この世界は朽ちていく。一人の人間とすればそれで十分かもしれんが──、ビアンコはそうは思っていまい。己の目的のためおまえを東京へは戻さないだろう」
「数十年でも、いい。それにおまえが消えればオレはただのガラクタでビアンコ様だって要らなくなってる!」
「真実そう思うか? おまえの本能はどう言っている」

 感情のない機械みたいな声でオレの顔に問われ、口をつぐんだ。
 ビアンコ様の真っ黒な目を思い出し、身体の芯が震える。

「ここに居ておまえは我を滅する策を見いだせるのか?」
「……時間はある。だから絶対に見つけられる。シドが絶対に見つけるって言ってくれた」
「シド。シドが見つけるんだな。では亮、おまえはその間何をしている」

 オレ?
 オレは。オレだって解読とか手伝って──。

「おまえには我を滅する策を見いだすことなど出来はしない。何百年、何千年かかってもな」
「っ、そんなことやってみなきゃわかんないだろ!? それに二人でやればいつかは──」
「いつかまた、おまえは捨てられるぞ。シドはおまえを救う手段を探しに行くと言い置いて、ここを出ていくだろう。おまえをこの羊の寝床へ置き去りにしてな」
「そんなこと、ない! シドは、ずっと一緒に居るって言った!」

 かっと頭の芯が熱くなった。
 胸が苦しくて胸に抱いたタオルケットを握りしめた。

「最初は年に何度かは戻るだろう。だがそれも年に一度になり、数年に一度になり、そして──ついには戻らなくなる」
「っ、そんなこと、ない! 絶対、ない! シドは、ずっとオレのそばに居てくれるっ!」
「知っているはずだ。わかっているはずだ。
 おまえはきっとまた、置いて行かれる」

 目の前のオレを睨み付けた。
 無感情なはずのミトラが哀れむような目でオレを見ているようだった。
 呼吸が速く浅くなって、うまく息が出来ない。

「だからこそ、ここへ止まることが最良ではないとわかっているはずだ」

 もう一人のオレは白くて大きな翼をふわりと優雅に伸ばして見せた。
 部屋中が白く輝いているみたいに見えた。

「シドと共に居たいのならば──、それならば本当に一つになってしまえばいい」

 ミトラの声は機械的で穏やかで、悪魔のように甘い。
 本当に一つになる。
 シロップみたいにトロトロになってしまえれば、いいのに。

「溶けて混ざって一つになって。
 今おまえが望んでいる全てはこの一点に集約されている」

 真っ白い人差し指が立てられ、踊るように1の数をオレの前へ差し出した。
 こんなに近いのにミトラはオレに触れることはしない。
 きっと触れないのだろう。
 オレはこいつには負けたりしない。

「ここにいても一つにはなれない。この暮らしが永遠に続くことなどあり得ない。それに気づいているからこそ、おまえはそんな顔をしているのだろう」

 違う。
 そんなこと、ない。
 オレはそんなこと、気づいてない! 知らない!
 永遠に、ここで、シドと、二人で、ずっと──

「三つ目の鍵を開けるといい。この薬瓶に入った蜜を飲めば錠は解ける。
 痛みはない。
 柵は滑らかに開かれるのだ。おまえと我はあるべき形へと戻ることが出来る」
「いたく、ない?」
「言ったはずだ。もう我はおまえに苦しみを与えはしない。
 我はおまえのアルマの欠片も、シドのアルマも──旧世界全てを飲み込み全てをかき混ぜ新たな世界を生み出すだけだ。
 甘くたっぷりとしたアルマのシロップで、亮。おまえはおまえの大切な全ての者たちと混ざり合う」
「全ての──」
「そうだ。修司も、シュラも、秋人も、久我も、俊紀も、ルキも。誰一人欠けず、離れることはない。もうおまえは誰も待たなくて良いのだ」

 タオルケットの上に音もなく茶色の薬瓶が置かれた。
 古い映画に出てくるような小さな硝子の瓶だ。

「我は思う。
 これが唯一の答えだ。
 たった一つ、おまえが望む世界だ」

 オレは背中にシドの冷気を感じたまま、タオルケットに置かれた毒入りの瓶をそっと手に取り、パジャマのポケットへねじ込んだ。