■ 5-93 ■





 屋敷の東側にある小さな塔の中にはぎっしりと書物が詰まっている。
 シドは窓も灯りもない暗闇の図書館倉庫に足を踏み入れ、中央を貫く螺旋階段を登り始める。
 するとその足取りに呼応するように雪白の光が空間に溢れ出し、行動するのに不都合のない灯りを提供する。
 先端まで吹き抜けの塔の中央を、シドが登るごとに大きな光の珠があぶくのように浮かんでいくようだった。
 見上げると無数の青い輝きが明滅し、シドの手が触れるのを待ちわびている。
 星一粒一粒が本や手記であり、それらは「検索者が希望する情報を持つのは我である」と自らを光らせ主張する。
 それらを片っ端から手に取り、積み上がる数十キロの紙束を抱えて部屋へ戻る。
 帰り道、温室も兼ねたテラス室から遅い朝の日が差し込み、急ぐシドの影を長く伸ばしていた。
 寝室兼リビングへ戻り持ち帰った大量の資料をサイドテーブルへ置くと、再びベッドで内容の吟味を図る。
 ヘッドボードへ大ぶりなクッションを置いた定位置へ背を預け、傍らに投げ出していたノートやペン、ローチの残した解読指標の表などを膝に戻して先ほど行き詰まったポイントから読み込みを再開する。`
 そしてどのくらい時が経ったのか。
 窓硝子にポツリと大粒の雫が貼り付き心地の良いリズムを刻みだす。
 あれだけ晴れていたのが嘘のように夏の雨は明るい太陽を残したまま重たい水滴を撒き始めていた。
 不意に傍らで丸まる毛布の塊から手が伸びて、ベッドの上に投げ出された本の一冊を取っていた。
 昨夜も抱き潰してしまった少年は昼近くにようやく目覚め、眠りに飽きたのか「これ、何て書いてあるの?」と珍しく質問を投げてくる。
 子供にもわかりやすいようかみ砕いて答えてやるとしばらく黙り、また別の質問が来た。
 これまでも何度か本や手記を覗き見ることはあったがいつもすぐに断念し、質問すらほぼなかった亮にしては珍しいとシドは感じた。
 が──、亮にしてはがんばった努力も空しくシドの解説を理解しきれなかったらしい彼は本を閉じ、ベッドを出るとフラフラとキッチンの方へ歩いて行った。
 肩からタオルケットをマントのように羽織っているところを見ると、直ぐにベッドへ戻るつもりだろう。
 背中の羽根は透過しグリーンのマント上でグッと一度伸びるとしなりと垂れていた。
 資料を漁りながらも亮の様子を目で追う。
 立ち止まり窓の外を覗き、冷蔵庫を覗き、スパイスボックスを覗き、また冷蔵庫を覗き、ミルクをカップに注ぐとダイニングテーブルの前で立ったまま飲み干す。
 白い髭を付けたままカップを洗いダイニングを一周してリビングで立ち止まり、窓の外をしばし眺めて戻ってくる。
 小さな軋みをベッドへ上げさせた身体を捕まえると、親指でミルクの髭を拭ってやった。
 反射的に逃げ出そうとする温もりを押さえてキスをする。
 一瞬びっくりしたように固まった少年は抗うことなく腕の中に収まり、もっともっととでも言うように腕を首に絡め、シドの薄い唇を啄んだ。







 エアコンが効いていて肌寒い。
 さっき見た夢を思い出しそうになって慌てて目を開けた。
 とても嫌な夢だったけど、もう覚えてない。でもやっぱりなんか気持ち悪い。机に張ったシールみたいに表面の紙だけめくれて剥がれ、裏紙はオレの中に汚く貼り付いたままな感じ。何の絵のシールだったのかはわかんないけど、何かがあった感触がオレの胸の内側にこびりついていた。
 ベッドからずり落ちていた毛布を引っ張り上げて包まると、胸元に丸めたタオルケットを抱え込んだ。
 目を開けたままじっとしてるけど、中々あったかくならない。
 シドは自分がイザだってこと、覚えてるのか? 本読んで集中すると周りを冷え冷えにさせてること自覚した方がいい。
 ぺらり、ぺらりと紙を捲る音が決まった速度で流れ、なんだかイライラと高ぶっていた意識が少しだけ落ち着いてくる。
 こんなの、今に始まったことじゃない。
 何もない幸せな日なんてオレの人生でそんなになかったじゃないか。
 これが普通で、これが通常だ。
 寝返りを打ってシドの顔を見上げた。
 ちらっと此方を見て視線をはずすと、毛布の隙間からはみ出たオレの髪を撫でた。
 外は雨が降っている。
 そっか、雨か──と思った。
 シドはずっと本を読んでいて時々何かをメモしたり辞書みたいな分厚い本をパラパラしたりを続けている。
 今が何時なのかはわからない。
 部屋はぼんやり明るくて大粒の雫が窓硝子を洗っていた。
 いつの間にかシドの横のテーブルに積まれた本の数が増えている。
 きっとまた新しいのを塔から持ってきたんだな。
 ここに来てからシドは鍛錬もそこそこ、ずっと本を読んでいる。
 オレの中からミトラを追い出す方法。
 シドはそれを探してくれている。
 その方法さえわかれば二人でここを出て東京に帰って前と同じに暮らしていける。
 世界が大変な事になってるって誰かが言ってたけど、オレの中からあいつさえいなくなれば、オレはもう関係ない。
 あとはビアンコ様とか偉くて強い人たちがきっと何とかしてくれる。
 そしたらオレは普通に学校に行って修にぃやシドと一緒に暮らすんだ。
 俊紀は高校卒業したかな?
 久我とは一緒に秋人さんの事務所でバイトして修行するつもり。
 だからまずは早くオレの中のミトラを追い出す方法を見つけなきゃ。
 何の作戦もなくオレ一人ここを出たってその瞬間ミトラがオレを食い破って全部オシマイになるだけだもん。
 何もいいことなんてない。
 ローチはなんであんなメッセージを寄こしたんだろう。
 オレがここに来た理由知ってる癖に。
 オレがここから出たらどうなってしまうのか、知ってるくせに。
 プレゼントなんて言って。
 オレに選ぶ権利を渡す素振りして。
 こんな苦しいこと考える時間押しつけるの、ひどい。
 やっぱり俺のこと嫌いだからだ。
 日記書かなくなって千日?
 知らねーよ! 書くことなかっただけだ。
 それがなんだって言うんだ?
 だんだんムカムカしてきて、オレは手元に放り出されていた本を手に取った。
 寝転がったまま捲ってみる。
 英語ですらない、アラビアみたいなニョロニョロした字が並んでるだけで、さっぱりわからない。
「これ、何て書いてあるの?」
 煙草に火を点け直していたシドにそのニョロニョロを見せてみた。
「……従う者・エノクは、異神と戦いし者・エリヤと共に羊の寝所へ上げられ、創造者ヌースの産みし世界を残らず見学した。彼らの看視者ヘルメスはヌースの産みしデミウルゴスを用い八人の守護者を作り、エノク、エリヤと共に十の小世界へ守護者を配した。
 第一の小世界、王冠ケテルの守護者・エヘイエーとしてエノクを留め生樹の王とし、第十の小世界、王国マルクトの守護者・アドナイ=メレクとして弟エリヤを留め人間の管理者とした」
 シドのくせに珍しくゆっくり気を遣って本の内容を教えてくれた。
 けど、日本語なのに何を言ってるのかオレには一ミリもわからなかった。
「……じゃあ、これは何の絵?」
「生樹の図だな。この一番下がマルクト。現実世界。その上がイェソド。俺たちが煉獄と呼んでいる世界だ。その真上がティファレト。樹根核が在る場所だ。その上のどことも繋がっていないのがダァト。ここから異神が現れると言われている。そして一番上にあるのがケテル。この生樹の頭脳であり管理者の居る場所だ」
「…………。じゃあ、この数字みたいのが捲っても捲ってもずっと並んでるのは?」
「各小世界を道で渡るための法則を表す式だとローチが言っていたな」
「え、これ全部で一個の式かよ!」
「そうだ」
「……シドは全部意味がわかるのか?」
「わかっている物を読む意味などない」
 シドはそう言ってまた新しい本を開いていた。
 オレはしばらく色んな本やノートを捲ってみた。
 少しはオレにもわかるやつがあるかもって思ったんだ。
 でもそんなの無駄だって七分でわかった。
 オレの優秀な脳みそは学校の教科書ですら、暗号解読みたいなもんだったと否が応でも思い出させられた。
 これを読むのはオレの役目じゃない。
 いつかシドが見つけてくれる。
 ここにある本を全部読んでオレをここから連れ出して、またみんなで暮らせるようにしてくれる。
 それまでずっとシドと二人で生きていればいい。
 本を投げ出すとオレは何度か寝返りを打ち、じっとしていられなくなってベッドを出た。
 馬たちに預けはしたけどもし今自分の身体がミトラに乗っ取られてあのメールの続きを読まれたらどうしよう。
 どうせオレは見るつもりなんてないんだ。やっぱり今すぐ壊しに行こう。
 それともシドに言った方がいいかな。
 何度もそう思うのに俺の口は石みたいに固まって何も言えない。
 落ち着かない。
 昨日からずっと胸の底がモヤモヤして、口から「んん」とか「はぁ」とか溜息と意味もない音が代わる代わる漏れ出そうになって飲み込み続ける。
 とにかく何かしたくて窓の外を見る。
 雨が降ってて外には出られなさそう。馬たちの所へ行ってみようかなって思ったのに。ケータイ壊そうかなって思ってたのに。
 なんとなく離れがたくてタオルケットを抱きしめたままだけど、汚したくないからとりあえず肩に羽織ってみた。
 甘くて落ち着くいつもの香りがふわっとして、オレは少しだけ落ち着いて歩き出した。
 晩ご飯の支度でもしようか。今、何時かはわかんないけど。
 そう思ってキッチンへオレの足は向かっていた。
 冷蔵庫を開け野菜室を見てみたけど、ジャガ芋とタマネギしかない。買い出しに行ってないから肉も魚もないし、あるのはツナとかコンビーフみたいな缶詰だけ。
 ローチならこんな材料でも魔法みたいに美味しいごはん作るんだろうな。
 そう考えて首を振る。
 ローチのことは考えたくない。
 スパイスさえあればオレだってそこそこマシなもん作れるはずだ。
 そう思ってテーブル脇の木製ケースを覗いてみるとローチが残してくれたレシピ手帳がパタンと倒れた。

「……。」

 なんだよもう、放っておいてくれよ!
 なんでオレばっかヤなことしなきゃいけないんだ?
 何も決めたくない考えたくない。
 ここから出てオレに何が出来る? 消えちゃうだけだ。
 オレばっかりこんなに難しいこと考えて、こんなにつらいの不公平だ。
 痛いのも苦しいのも恐いのも気持ち悪いのも哀しいのも寂しいのも、いらない。
 オレは何もしてないのに、みんなオレから血も肉も気持ちも記憶も千切っていく。
 オレがこの世界を壊す石ころで異物で邪魔者だからかな。だから世界はオレのこと嫌いでヤなことばっかしてくるのかな。
 いいよ、もう。
 そんなに世界がオレのこと嫌いならオレだって世界中の全部を嫌いになってやる。
 みんなみんな、オレだって最初から全部大嫌いだよ!

 頭の中がカーッと熱くなって喉の奥が砂漠みたいに乾いた。
 冷蔵庫から牛乳を出してがぶがぶ飲んだ。
 カップを洗うと冷たい水が皮膚を伝いシンクに落ちて、渦を巻いて排水口へ流れ落ちていく。
 指先が震えた。
 恐くてたまらない。
 絶対に嫌だ。
 絶対に。
 叫びだしそうなお腹の奥を押さえて窓辺に戻る。
 ザーザー降る雨。
 窓硝子は滝みたいに流れてて、外は灰色。
 何も見えない。
 奥の本棚を覗く。
 オレのわかる本は一つもない。
 テーブルの上にはいつかオレの描いたアブとアズの下手くそな絵。
 クレヨンは出しっぱなしであちこちに転がってる。
 オレだって生きてるんだ。
 本物の人間じゃないとしても、オレだって。
 たとえこの気持ちが父さんの作ったプログラムみたいな何かだったとしても、オレはそんなのわかんない。
 オレはオレの感じることが全て。
 世界はオレの気持ちと考えがぴっちり充たしてて、その外のことは見えやしない。
 おまえは本物じゃないから、恐いって気持ちも偽物だよ。安心して。って言われてもわかんない。

 ぐるぐる部屋の中を歩き回ってみたけど、何も解決の手段なんて見つからず、俺はベッドへと戻った。
 シドがオレを捕まえて、口元を親指でこすってくる。
 人が真剣に考えてるのにシドはお構いなしにキスしてきてすっごいムカついたけど──でも、だから、オレはムキになってシドの唇を噛んでやった。
 みんな勝手だ。
 ここに来て見た夢なんか全部忘れた。
 全部知らない。
 こわい。
 きらい。
 ずっとねむっていたい。
 ぜんぶしらない。
 雨が降ればいいと。
 ずっと雨ならいいなと思う。
 ここにいてもいいなら、晴れた空なんていらない。