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 金色の世界はいつも風が吹いている。
 まるで金星の大気のように熱く濃い風はねっとりと地面を洗い、青や緑の月の影が転写される黄色い大地やミルク色の河を蒸し上げていく。
 ハルフレズは表面硬化装甲の施された金属製のコンテナから、一抱えはあるウォータータンクを二つ肩に担ぎ上げ、足早にそこを後にする。
 広い大地の一角に小舟の如く浮かぶモスグリーンのコンテナはIICR研究局の技術を結集して創り出されたオルタナ内部で活動を行うための拠点である。
 水、食料、衣服、日用品等──様々な物資がハルフレズの出す要望に合わせて定期的に送り込まれてくる。
 そしてそれだけでなくエイヴァーツ・ウィスタリアはこの10メートル四方の武骨な施設の中に、寝室、キッチン、ダイニングからバスルームまで、オルタナティブツリーという究極の異質空間で生活を送れるだけの設備を整えていた。
 だがハルフレズはウィスタリアと研究局によって提供された安心安全と利便──そのどちらも享受することを放棄した。
 必要物資の受け取りこそこの場を使うより他なかったが、この世界に彼がやって来て生活拠点は全く別の場所を利用している。
 担いだウォータータンクの重さ以上に、身体が重い。
 ここでの生活はハルフレズのアルマを焼き溶かしながら得られる有限の時間だ。
 針金で全身を縛り上げられるような鈍痛がつねに意識の端にぶら下がっていた。
 それでも生活するのに支障を感じるまででは無い。まだ彼の肉体もアルマも随分と時間的余裕がある。
 もちろん制限時間のことをルキに伝えてはいない。ルキはフレズが常に永遠に共にあれると信じている。
 だからハルフレズの後継が見つかるまで──できればあと30年、40年、この身がもてばいいと思う。
 ぼんやりと輝く白い川の畔を歩いて行く。
 黄茶けてゴツゴツとした岩場が荒涼と広がる大地を、自由奔放に、土手や堤防と言った人を守る地形など持たぬまま、流れは別れ集まり網の目のように蕩蕩と流れている。
 まるでハルフレズの故郷にある大河ショゥルスアゥのようでもあり、二度と戻ることのない彼の地を胸に思い起こし不思議なほど穏やかな気持ちであった。
 初めてここへ来た当初は側に寄ることも躊躇われるほどの奔流であったこの河は、日に日に水かさが減っているようであった。
 しかしスルトや有伶からの交信時、その点に関して物申されることは無い。
 恐らくIICRはテーヴェという稀代の科学者一人に敗北を喫したのだろうということだけが、単純な事実としてハルフレズに認識されていた。
 彼女の作ったダリヤへと葉脈の流れが変わりつつあるのだ。
 この虹色の流れが人のアルマのコンポーネントであることは彼の知識を以てすれば容易にわかることであり、それが減りゆく現状は研究局の連中にとって外部へもらしたくはない脅威であるのだろう。
 状況を鑑みれば未だに研究局にとってハルフレズは諜報局の人間であり、ルキは獄卒対策部の人間であるのだということが否応にも伝わってくる。
 亮なき今ルキは彼らにとってもIICRにとっても生命線であり、それを補助するハルフレズもまた然りのはずである。そしてなにより二人は研究局の指示通りアルマの全てを持ってこの任務に当たっている。であるがしかし、肝心な情報がすぐには下りてこない。これらの現状は彼らの執意を萎えさせるのに十分な事実であったが、この場から逃れる方法など最早無い。
 そうやって考えれば、ルキもハルフレズも既に上層部にとってはIICRの構成員などではなく、オルタナティブツリーという構造物の部品でしかないのかもしれない。
 小一時間歩く。肩に担いだタンクを軽く担ぎ直しハルフレズはそそり立つ岩山の影へと差し掛かる。
 空を切り裂き青と緑の月光を遮る岩山の裾を進むと、じきに小さな井戸とその傍らに木製の扉が見えてきた。
 井戸は既に涸れ果て役目を果たしていないが、岩山に作られた扉の向こうには二人の人間を包み込むだけのささやかな生活空間が用意されている。
 ウォータータンクを出入り口付近へ降ろすとハルフレズには些か小さすぎる扉を開け、中へとそれらを運び入れる。
 ことりと物音が聞こえハルフレズは部屋の奥を見やった。
 一段高く作られた黒曜石のベッドの上で大きな黒い瞳を見張らせて、愛しい相手がこちらを見つめていた。
 たったいま目覚めたばかりであろう彼はしばしハルフレズの姿を探していたのだろう、目が合った途端ベッドを飛び出しふらつく足取りでハルフレズの胸へ飛びこんできた。
 白いシャツの背面が大きく切り取られ、そこから覗くのは人の骨や皮膜で作られたような造形のグロテスクな器官だ。
 翼を模して創られているであろうそれは微かに震えていて、何か良くない夢を見たのだろうとすぐにわかった。
 フレズの胸で咳くように泣く少年の身体を抱きしめ髪を撫でる。
 しばらくそうしているとようやく小さな翼はしょげていた形状から翼竜のような仰々しさを取り戻していく。

「どうした」

 顔を上げさせれば、ルキは涙で溶けてしまいそうな大きな黒い瞳を細め、真っ赤になった鼻を大きくすすりあげる。

「わからない。わからないけど、とても哀しい。哀しくて、辛くて、でも、とてもまっすぐな──、僕は──、何ができるの……」

 最後は声にならず、再びルキはハルフレズにしがみついていた。
 ただ嗚咽だけが流れていく。
 こんな姿にされて、アルマを永遠に拘束されて、それでも誰かのために何かしたいと願うなどどうかしているとハルフレズは思う。
 だがそれがルキの心からどうしようもなく溢れてくるものなのだとしたら、共にそれを抱きしめる。
 と──、不意にハルフレズが常に感じている痛みが消えた。
 身体も随分軽くなる。
 どうやら、また成坂亮のアルマコピーの欠片達が泉に投入されたらしい。
 逃げてしまった亮と、それを奪い去ったヴェルミリオに対し言葉に出来ぬほどの怨嗟を持ったこともあったが、こうしてコピーの力によってハルフレズとルキの命はつながれていると知っている今、純粋な恨み辛みは空虚な憐情へと化学変化を起こしてしまっていた。
 材料や備品や──そのように扱われる痛みをハルフレズも嫌というほど知らされてしまった。
 そのように扱う側の醜悪な不遜さを忌避することもおぼえた。
 無力な自分になって初めて知る弱者の胸宇は思ったよりも清廉で単純だった。

「いいさ。時間だけはある。ゆっくり考えればいい」

 考えることがあるのはいいことだ。
 この何も無い閉じた荒野でルキはこの先何百年と過ごすことになる。
 ハルフレズが共に居られなくなってからも、続いていくのだ。
 世界が滅びない限り。
 IICRが消えてしまわない限り。
 だというなら、IICRも世界も早くなくなればいい。
 それで全ては解決するのではないかと。そんな不穏な考えも胸をよぎる。
 ただ、今、ルキを抱きしめて二人でいるこの石の部屋に流れる時間は穏やかで愛おしい。
 ウィスタリアの言に乗ってここへやってきたことを後悔はしていない。
 一分でも一秒でも長く、こうしていられればいいとハルフレズは強く想った。







 亮が熱を出した。
 ここのところ降り続いている雨の中、昨日は馬に逢いに行くと庭に出たはずが馬小屋に入ることなく庭の片隅をしばし彷徨いただけで戻ってきたのが良くなかったのだろう。
 傘は差していたがそれでも精神的に不安定になるこの時期のせいで、わずかな体温低下が体調に覿面現れてしまったのだとシドは悔やむ。
 こんな時ばかりは自分の低い体温が厭わしく思えてしまう。
 だがそれでもこう言った状況は毎年の恒例とも言え、シドも亮も小さな波を乗り越える術をお互い構築しつつあった。

 深夜、目を覚ました亮はフラフラと起き上がりかけ、ベッドを出た辺りで嘔吐してしまった。
 すぐにシドが身体を支え背を撫でる。
 込み上げる胃液を堪えようと小さな羽根が震えていた。
「いい、そのまま吐け」
 何度か嫌々をしたが縮こまった羽根が痙攣するように広がり、亮が再び嘔吐く。
 一度堰を切ってしまうともう留めることができず、咳き込むように吐き続けた。
 生理的に迸る涙を拭うことも出来ず震える亮の背を撫で、一頻り吐かせると少し落ち着いた所で水を飲ませる。
「なんで……、こんなの、……ぃゃだ……、も、何も思い出したく、ない……」
 倒れ込む細い身体を抱きしめると、亮が半ば譫言のように何か呟き続けているのをその胸に感じ取る。
 何を言っているのかその吐息に耳を澄ましてみるが、それ以上聞き取る前に明け方の仄明かりの中へ溶けて行ってしまう。
 だからせめて此方の囁きを与えようと髪を撫で、耳元へ唇を寄せて大丈夫だと繰り返した。
 どのくらいそれを繰り返しただろう。
 冷たくなった小さな指先がふらりと持ち上がり、シドの唇に触れた。
 指先はシドですら冷たいと感じるほどだった。

「シド、ぃた……」
「ずっと居る」
「……うん」

 泣きながらも小さく微笑んで見せた少年の身体を抱き上げるとベッドへ戻し、湿らせたタオルで顔を拭いてやる。
 その一連の動きだけで亮の全身が酷く熱いことを感じ取り、シドの眼が険しく潜められた。

「熱があるな」
「……風邪、ひいたかも。駄目だな、オレ。……もうすぐあの日が来るのに」

 それは亮とシドがループザシープにやってきた九月三日のことを意味している。
 入り込んだあの日までループする世界では、満身創痍で身動き一つ取れない状態までシドもループするということである。
 亮は九月三日からの一週間、つきっきりでシドの世話をすることを自分の役目だと気負っている節がある。

「そんなことはどうとでもなる。……寒くはないか」

 額に手のひらを当て冷気を溜めれば亮は心地よさげに目を閉じた。

「うん、平気。……これ、気持ちぃ」

 ベッド端に丸まっていたタオルケットを渡してやると、それを抱え込んでゆっくり深く息を吐く。

「シド」
「……ん?」
「…………大好き……」

 眠りの波に急速に攫われながら零れ落ちた言葉はすぐに溶け去り、あとは小さな寝息に取って代わる。

「……俺もだ」

 青ざめた額へ唇を落とす。
 これで何度目の夏が終わるのか──。本当ならば亮は高校を卒業し、大学進学──いや、卒業していてもおかしくない年齢になっているはずだ。
 だが何も変わらない。
 亮にとってこれは悲劇だとわかってはいる。しかし、シドにとっては何の問題もない──、ここにいれば全て完璧なのだ。

「好きだ、亮」

 未来の亮に逢うことは叶わないかもしれないが、今の亮を永久にこうして閉じ込めておける。

「おまえが俺の全てだ」

 シドは腕の間にある永遠に変わらぬ少年の柔らかな輪郭を見下ろし、頬を擦り寄せた。