■ キミの不機嫌で僕は上機嫌になる・1  ■




 新学期に入り七ヶ瀬へ戻ってもうすぐひと月が経とうとしている。
 あれほどうるさかった蝉たちもいつの間にか鳴りを潜め、代わりに、休日ともなれば朝から祭りの開催を告げる花火がそこかしこで遠く響くようになっていた。
 べったりと絡みつくようだった熱気も徐々に落ち着きを見せ、物寂しさを漂わせる涼しい風が新しい季節の到来を告げるように亮の髪をなぶっていく。
 その風は秋雨が潸々と降りしきる今日のような日でさえ、妙に乾いているように感じてしまう。
 学校からの帰り道。不本意ながら一級先輩となってしまった俊紀と別れ、一人、亮は傘を差しながら自転車を押していた。
 今朝方まで気持ちよく晴れていた空模様は、土曜の昼過ぎ、下校時刻になって突然崩れ始め、自転車通学としてはありがたくない雨模様と変わっていて、合羽の準備を怠っていた亮は仕方なく学校に置きっぱなしにしてあったビニール傘を手に帰路についたわけであるが――。
「みんなこんな雨ん中、どこに行くんだよ」
 土曜の午後という良い時間帯ということもあってか事務所へ向かう道路は思いのほか往来が多かった。しかも誰もが傘を広げている分、元からさして広くない歩道はさらに混み合い、自転車で突っ走るには不向きな状況だ。こんな道で傘を差したまま自転車を飛ばすなど、迷惑を通り越して犯罪だろう。――そう判断した亮は早々に諦めを付け、愛車を押しながら帰ることに決めたのである。
 たくさんの見知らぬ人を避けながらゆっくりと進む時間は、なぜか亮を酷く憂鬱にさせた。
 空を見上げれば、薄暗い曇天と細い雨。蕭々と降る様は夏の土砂降りとは違い、季節が移ったことを亮に教えてくれる。
 今年の夏は色々あったな――と思い返す。
 嫌なことも辛いこともたくさんあったが、それ以上に熱くてドキドキして知らない世界が広がる――そんな夏だった。
 しかし今はもう、初めて相棒になろうと言った久我は遠くイギリスの地だ。
 東雲はこの世を去り、醍醐も姿を消し、佐薙は亮の記憶をなくしていた。
 親切にしてくれた古本屋ともあれ以来会っていない。
「……古本屋さん、オレが学校変わったの知ってるかな」
 事件が終わってからも、寝込んだり訓練に明け暮れたり転校の手続きがあったりとバタバタしてしまい、恩人である彼に亮はなにも告げていなかったことを思い出す。
 お礼を言わなければとも思うし、現状も伝えたい。そして何より会いたいな――と亮は思った。



「あーもう、わかった! 今やってるって!」
 事務所に帰って出迎えたのは、秋人がシドの横暴なリクエストに耐えかねて発せられる悲痛な雄叫びだった。
 同時にカタカタと恐ろしい速度でキーボードを弾く音が室内を塗り込めていく。
 亮はそんな秋人の邪魔にならないようそろっとソファーにカバンを置くと、書類棚で何やら捜し物中の壬沙子に「ただいま」と声を掛ける。壬沙子も声を潜めながら「おかえり」と返してくれた。
「なんか忙しそうだね」
「そうね……、今やってる企業セラのメンテが予想以上に難航しているのよ。俗に言う『ブラック企業』のセラは社員さんのアルマも荒れてるけど、その中心にセラの化身として誕生するソラスはさらに凶悪度が増すのが普通なの。――ここは相当なクラスみたいね」
「うわぁ。ブラック企業のソラスかぁ……。やばそう」
「でもそれを制圧できればセラも多少は落ち着くだろうから、社員さんたちの精神面も少しは改善されるってわけ。うちにセラメンテを頼む代金の方が、社員に払う人件費や暴動を起こされるリスクよりは安いってことなんでしょうけど。根本を変えなきゃいたちごっこよね」
 まぁそのお陰でうちの事務所は潤うんだけど――と、壬沙子は続けて大人な微笑を浮かべてみせ、亮はあははと乾いた笑いで返した。きっと世の中は亮の知らない不当なことがまだまだあるのだろう。
 亮が世の理不尽に思いを馳せつつ、訓練セラへ入るために奥のエレベーターに向かおうとした時である。
 唐突に秋人のデスクに置かれた電話が、電子音で柔らかに音楽を奏でだした。爽やかな『カッコウ』のメロディーは、この殺伐とした室内には不似合過ぎて、ますますピリピリムードを助長させる。
 パッと秋人を見れば両手を神速で動かしキーボードを叩いているし、壬沙子は奥の資料庫に入っていってしまったきりだ。
 亮は仕方なく応接テーブルの上にある子機を取ると、電話に出る。
「はい。S&Cソムニアサービスです」
 これでも一応バイト経験一年アリ、だ。電話番くらいどうということはない――と、亮は慣れた調子でそう告げた。
『……なんだ、チビか。おまえに用はないよ。僕のシドに代わって』
 すると返ってきたのは未だ少年らしさを残す聞き慣れた声で、耳に付かないほどの流ちょうな英語。若干のフランス訛りが入っているが亮にはそれすらわからない。
 英語だ、どうしよう、あれ、知ってる声? 誰だっけ――と瞬間バイト二年生がうろたえている間に、電話先の相手は苛立つようにこう続けた。
「……だから僕のシドに代われって言ってんの、おまえまだ英語喋れないのか、鈍くさいチビだなっ」
「!!」
 その腹立たしい言い回しでようやく亮の頭に一人の少年の顔が浮かんでいた。絵みたいに綺麗な顔をしているくせに、とんでもなく性格の悪いその相手。
「シドは仕事で出られねーよっ。陰険シャルルっ!」
 シャルル・ルフェーブル。亮と同じゲボ属であり、亮がIICRセブンスに収容される原因を作ったやっかいなお騒がせ少年である。シドへ好意を寄せているらしく、一緒の事務所にいる亮に敵意を剥き出しで噛みついてくるので、亮にとっては苦手極まりない相手だ。
「じゃあ話の通じる大人と代われよ、くそチビ」
「っ!! さっきからチビチビ言いやがって、なんなんだっ!? おまえだってそんな身長変わんねーだろうがっ」
「身長だけの問題じゃないだろ」
「は!?」
 シャルルが言いたいことがわからず、亮は不機嫌に声を荒げる。そんな亮の様子に侮蔑の笑いを含んだ声音で、シャルルは続けた。
「子供ぶってベタベタ甘えまくるのはまだやってるのか? なにが“シィは亮のお嫁さんにするの!”だ。腹黒チビ」
「っ!!!!!! な、な、なんだそれ、い、意味わかんねーこと言ってんなよっ!!!」
 一瞬にして亮の顔が真っ赤に染まる。いや、顔だけでなくおそらく服の中まで全身茹で蛸のようになっていることだろう。頭の天辺から湯気でも出そうな勢いだ。
 シャルルの言葉に、まさに走馬燈のようにあの頃の出来事が亮の脳裏を駆けめぐる。
 今では随分と取り戻しつつある退行状態の頃の記憶も、部分的には未だ曖昧なままだ。それがシャルルの一言で、一部完全な形で蘇ってきたのである。
 アップアップと溺れるように部屋の中に視線を彷徨わせるが、もじゃもじゃの髪をさらに掻きむしりながら作業する秋人と、テキパキと隙なく業務をこなす壬沙子が居るばかりで助けを求められそうな人間はいない。
 混乱のただ中にある亮に、シャルルは二の矢三の矢を打ち込んでくる。
「ふん。嘘だね。もう記憶戻ってるんだろ? 覚えてないわけないじゃない」
「う。」
「いや、あれも演技だったんじゃないの? 最初から狙ってあんな恥ずかしいセリフ吐いてたんだろ、どうせ」
「っ、んなわけ……」
「ホントなんでみんな見抜けないのかな。シィ〜、シィ〜って、カワイコぶって見せたって、同族ゲボの僕には全部お見通しなんだからねっ。腹黒計算かまととチビ」
「お、オレはそんな……」
 いますぐ過去に帰って自分の口を塞ぎたい衝動に駆られるが、もはやどうしようもない。思い出される赤面ものの過去と、現実に今繰り出されている容赦ないシャルルの責めとに苛まれ、亮はダウン寸前だ。
「言っとくけど、ボ・ク・が、シドのお嫁さんになるんだから。亮はミスター渋谷とでも仲良くしておけば?」
「なんでオレが秋人さんと仲良くしなきゃなんないんだよっ。てか別にシドとだって仲良くなんか……」
「当たり前だよっ! シドがおまえといるのなんか、成行き上仕方なくに決まってるだろっ!」
「……、そんな、ことは……」
 度重なる連続ジャブに思わず手が震えて電話を落としそうになる。
 しかしぐっと掴み直すと、亮はスピーカーを耳に押しつけた。
 シャルルの語る言葉を外に漏らしたくなかったのだ。
「違うっての? じゃあなに? 亮はシドと寝てでもいるの?」
「は!?」
 寝て……? と頭の中で反芻してみる。確かに一緒のベッドで寝ている。が――おそらくシャルルの言わんとするそれは亮の考えたそれとは違うであろうことくらいは、亮にもなんとなくわかってしまう。
「えーと、日本語だと寝る、じゃないの? セックスするってなんて言うんだ? つまりシドに抱かれてるかって聞いてんのっ!!」
 あまりにストレートな爆弾発言に、亮は二三歩後ろへよろめいていた。
 頭に血が上りすぎてくらくらする。
 なぜか秋人の神速の手がピタリと止まり、奥の部屋から資料の崩れる音が聞こえてきたが、亮にはそれすらわからない。
「っ、だか……」
 そう受動動詞の前半を呟いたきり亮の口に言葉が上ってこない。完全に事態は脳みその許容範囲を臨界突破していた。
 亮の沈黙をどう取ったのか、勝ち誇ったようにシャルルは続ける。
「ほら見ろ。そろそろGMD中毒の発作もクリアになってくる時期だもん。もうそんなことする必要もないもんね」
「ォレは……、オレ、は……」
「僕は明日、カラークラウン継承の戴冠式をする。僕とおまえ――ゲボとしての実力差も歴然じゃない?」
「ぇ……、カラー、クラウン? ウソ、シャルルが?」
「嘘なわけあるか、バカ。僕はおまえの王になるわけだから、これからは一切そんな生意気な口をきかないように。シドは僕の戴冠式後、パーティーへ来ることになってるんだ。今日はその為の電話であって、おまえのムカツク声聞くためじゃないんだからねっ。わかったらさっさと代わって!」
「…………。」
 亮は子機をゆっくりとテーブルへ置くと、よろよろとエレベーターへと向かっていく。完全にグロッキー状態だ。
 まるで夢遊病者のような有様で部屋を出て行ったその様子を気の毒そうに眺め、秋人はデスクの親機に着いている『スピーカー』ボタンをオフにしていた。
 どうやら途中亮が電話を取り落としそうになったとき、スピーカーボタンをオンにしてしまっていたらしく、会話後半部分――亮が最も強烈な攻撃を喰らったレイのアソコは部屋全体に丸聞こえだったのだ。
 シャルルには「シドに折り返し電話させる」旨を告げ電話を切ると、秋人は何とも言えないため息を吐く。
「いやぁ、今の攻撃は凄まじかったですね。僕、思わず、セラで蜂の巣にされそうなシドを放っぽって、頭真っ白になっちゃいましたもん」
「放っぽってって、大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫でしょ。かえって僕のアシストが鬱陶しいみたいなこと言ってましたからあのバカ」
 秋人の言葉に、壬沙子はやれやれと肩をすくめてみせる。
「それにしてもシャルルにも困ったものね。カラークラウンを継承するっていうのにまだまだ子供過ぎて」
「あはは……、でも今のは子供としてはどうかって内容でしたけどね」
「それをそれと認識できていないから大人じゃないと言っているのよ。それに……」
「それに?」
「亮くんとクライヴの関係をGMDに限定して考えているところも子供の考えだわ」
「へ?」
「自分に都合の良い情報だけ拾ってるってこと。あの二人の関係は誰が見てもそれで済まないものじゃない。それを希望的観測だけで情報を限定してしまってる辺り、危険だと言っているの。業務に関する事柄でこの悪い癖がでなければ良いのだけど」
「そうそう、確かにそれはカラークラウンとしてやっていけるかって心配に……って、いやちょっと待ってくださいよ壬沙子さん。それで済まない亮くんとシドの関係って……!?」
 厳しい表情で呟く壬沙子に対しなるほどと真面目にうなずきかけた秋人は、ふと我に返り先ほどの彼女の言葉を脳内反復して思わず声を裏返らせてしまう。
 壬沙子はそんな事務所社長に、
「あら。それがわからないほどあなたも子供だったのかしら? 渋谷くん」
 と、にっこり微笑み、十分大人の秋人は哀しそうに眉根を寄せた。





 時計の針を眺めると、すでに二十二時を回ったところだった。
 リビングにあるテレビのチャンネルを回してみたが、連続もののドラマや難しそうなニュースばかりで亮の興味を引くようなものはやっていない。
 それでも落ち着きなくリモコンのボタンを何周も連打していた亮は、静かに開いた玄関の音にビクリと反応すると、テレビをつけっぱなしのままそっとリビングのドアから外の様子を伺う。
 どうやらシドが帰ってきたらしい。いつものように寝室に上着を放り投げた後、キッチンへ向かう足音が聞こえる。
 なんとなく顔を合わせづらかった。
 別に亮がなにか悪さを働いたわけでもないし、シドに何か言われたわけでもない。
 だが、昼過ぎに期せずして受けてしまったシャルルからの電話の件がどうしても胸の内から離れない。
 今日は訓練も自主練だったし、あれから一度もシドの顔を見ず時間が経ってしまったせいで、シャルルに言われたことがますます大きく亮の頭の上にのし掛かっていた。
 しかし、今日の食事担当は亮である。
 シドが帰ってきたからにはちゃんと当番として給仕しなくてはいけない。
 律儀にそれを守るべく、亮は一つ大きく息を吸って思い切ってドアを開け、キッチンへ向けドタドタと足音もけたたましく走っていく。
「よぉ。お、お帰り。メシ、は?」
 少しばかり声がうわずってしまったが、どうにか普通を装って声を掛けることに成功。
「食うに決まっている」
 表情なく言い放ったシドはどかりとダイニングチェアーに腰を下ろし、自分で用意したらしいビールの栓をプシュリと開けていた。グラスに移すでもなく、そのまま瓶を無造作に口に運ぶ。
 シドがこんな風に帰ってすぐ酒を飲むときは、決まって機嫌の悪いときだ。
 考えてみれば――と亮は思った。
 昼過ぎに亮が帰った頃にはシドはもうセラへ潜っていた。それから八時間以上シドはセラへ潜りっぱなしということになる。三十一倍早く時が流れるというセラの特性を考えると、一体向こうで何日の時を過ごしてきたのか咄嗟に亮には計算もできない。
 しかもブラック企業の企業セラというからには、きっと酷い場所に違いなく、そう考えるとよくもこんな普通の顔して定時に帰ってこられるものだと少々呆れてしまうくらいだ。
「おう。すぐあっためるから待ってろ」
 そりゃ疲れてるよな……と心の中で呟くと、亮はいそいそと味噌汁を温めたり、自慢のささみチーズフライ大葉巻きを揚げ直したりと動きはじめる。
 サラダの準備を始めた亮の後ろで、新聞を捲る音が聞こえ出した。どうやらシドはリラックスタイムに突入したらしい。
 なんとなく沈黙が気まずく、亮は空気を埋めるように言葉を繰り出す。
「今日はささみチーズフライにしたぞ。タルタルソースどうする? かけるか?」
「醤油でいい」
「ああん? また醤油かよ。ガイジンのくせに何でも醤油だなシドは。……せっかくタルタル作ったのに」
「食って欲しいなら持ってこい」
「……別に食って欲しいなんて言ってねぇしっ」
 などと口を尖らせつつも、亮は揚げ終わったフライの横に、ささやかに白いソースを盛りつけてしまう。それを素知らぬふりでテーブルへ運んだ時にはすでに、ボディントンパブのペールエールは一本簡単に空けられてしまっていた。
「ペースはえぇな。もう一本持ってくる?」
 目を丸くする亮の顔を見ることもなく、シドは視線を紙面に集中させたまま「いや、いい」とだけ返すと、感覚だけでテーブル上の醤油差しを手に取り、ドボドボと身体を悪くしそうなレベルで黒い液体をフライへ掛けていく。
 そして感覚だけでフォークをつかみ、感覚だけでフライへぶっ差し、感覚だけでタルタルをつけて、無造作に口へ運ぶ。
 別のことに集中しているときのシドの食べ方は本当に酷いと、亮は思わず仏頂面をしてしまう。
「それじゃ味もなにもわかんねーだろうがっ、バカシド」
「いや、美味いぞ」
「フライじゃなく調味料の感想だろ、それ」
「食えればなんでもいい」
 それが本音かと亮はますます仏頂面をこじらせ、さっきまで顔を合わせづらいだのなんだの悩んでいた自分がバカバカしく思えてきた。シャルルはこんなヤツのどこがそんなにいいんだろうと首を捻ってしまう。
「明日、日曜日、オレ訓練休んでもいい?」
 そんな怒りに近い不満が亮の口を滑らせていた。今日の昼間考えていたことをふと思い出したのだ。
「どこか行くのか」
「うん。ちょっと前の学校でお世話になった人に挨拶しに行こうと思って」
 こんな勝手なヤツに気後れして必要なことをしないだなんて、あっていいはずがない――と亮は鼻息も荒く言い放っていた。しかしそれが大きな間違いの元で――。
「世話? そんなもの誰に受けた。極力他人との接触は避けるように言っておいたはずだ」
「っ、それはわかってるけど! けど避けてても世話になっちゃったんだもん、しょうがねーだろっ」
「誰だ。教員か。生徒か? わざわざ今さら挨拶に行くほどのことなのか」
「行くほどだよっ。その人は電車の中で貧血になったときも助けてくれたし、弁当だって毎日作ってくれてたし!」
「電車? 弁当?」
 シドの視線がようやく亮の顔に向けられる。だがその琥珀の目には明らかに問い詰める力が込められていた。
 しまったと亮は一瞬下唇を小さく噛む。
「どういうことだ。俺の知っているヤツか」
「シドは知らない人だよっ! いいだろっ、ちょっと挨拶して元気だって伝えて帰ってくるだけだからっ」
「何が目的でおまえにそんな真似をする必要がある。納得できる説明をしろ」
「納得もなにも、古本屋さんは学校出入りのパン屋さんで怪しいトコなんか全然ないよっ。弁当だって自分の作るついでだって言ってたし!」
 バンとテーブルを叩くと亮はシドを睨み付けたが、シドはそれに動ずるどころかますます剣呑な空気を身体全体から立ち上らせ、いつも以上に低い声で
「古本屋――だと?」
 と呟いていた。
 そのあまりに物騒な声音に、亮は身体を強張らせるとじりりと後ずさってしまう。そして亮の予想通りの答えが次の瞬間、シドの口から発せられていた。
「絶対に駄目だ」
「っ、なんでだよっ! そっちこそ理由を言えよっ!」
「……理由など必要ない。駄目なものは駄目なだけだ」
「納得できねー! 古本屋さんがどんだけいい人かシドは知らない癖に、馬鹿っ、横暴魔神!」
「……。明日は一日訓練セラで稽古を付ける。いいな」
「はあっ!? んなことできもしねーくせに言うなよっ! シドは仕事したりシャルのパーティー行ったりで忙しいんだろっ!? オレの相手してる暇なんてないじゃねーかっ!」
 思わず昼間の出来事が脳裏をかすめ、怒りにまかせて亮はそう吐き出していた。
 再びシドの目が細められ、ぴくりと形の良い眉がつり上がる。
「パーティー? 何の話だ」
「お……オレが何も知らないと思うなよ。明日シャルルの戴冠式があんだろっ」
「なぜ俺がそんなものに出る必要がある。俺はカラークラウンでもなければIICRの人間でもない」
「っ、戴冠式に出なくても、後からやるパーティーには出るって聞いてんだからなっ!」
「誰に聞いたか知らんがそんなものに……」
「いーよ、行ってこいよ! オレは古本屋さんに挨拶に行くし、シドはシャルルのパーティー行ってクルクル回って踊ってくればいいじゃねーかっ!」
 シドの言葉を遮るように亮は言い放つと、くるりと踵を返しバタバタとキッチンから飛び出していく。
 無言のままそれを見送ったシドの前に、三分後、スポーツバッグとタオルケットを抱えた亮が立っていた。
「秋人さんとこで寝るっ。おまえも明日はせーぜー変な仮面とか忘れ物しないようにして出かけろよなっ」
 頭の上に「ぷりぷり」とでも擬音文字が浮かびそうな具合で亮は言い捨て、今度こそ玄関を派手に叩き締め出て行ってしまう。
「……あいつはパーティーをどんなものだと思っているんだ」
 亮のあまりの剣幕に、呆れた様子でそれを見送ったシドはポツリと呟くと深いため息を吐いていた。







 深夜0時二十五分。密やかにシドの携帯がバイブし、シャワーから上がったばかりのシドはベッドの上に放り捨てられていたそれを取る。
 髪を拭きながら耳をあてれば、聞こえてきたのは困ったような、だが妙に弾んだような秋人の声だった。
「なに、またケンカ? 亮くん、ホントに今夜こっちで寝るの?」
「ああ。一晩ソファーを貸してやってくれ」
「そりゃ構わないけど……、今度は何が原因? って……ああ、もしかしなくても明日の戴冠式か」
「それだけではないが……まったく困ったものだ。あいつは何がそんなに気に入らない」
「…………それ、本気で言ってる? やーらしー男だこと」
「なんだ、はっきり言え」
「嫌だね。なんでわざわざ僕がそれを言ってやんなきゃなんないのさ。ほんと、おまえってやーらしーわぁ」
 なにやら機嫌を損ねたかのようにぶー垂れる秋人の言葉に、シドはますます訝るように眉根を寄せ、乱暴に濡れた赤毛をタオルでこする。
「なんでもいいが、明日の午後は有休をもらう。いいな」
「はぁっ!? なにいきなり!? ホントに戴冠式行くの? てか無理無理無理無理。無理に決まってるだろっ!? ザンショウグループの企業セラメンテ、まだ半分以上残ってるじゃない。あれ納期月曜までだよ!? まだソラスすら見つかってないのに、どうする気だよ!」
「今から仕上げる」
「冗談! 住人の多いこの時間にソラス探そうっての!? 昼間の何倍も難易度上がっちゃうよ! てか、第一僕はもう寝るよ!? せっかく亮くんが泊まりに来てくれてるのに……いや、とにかく、もう僕はおねむなんだから……」
「別にサポートはいらん。セーフシステムだけ使うがかまわんな」
「っ、本気で言ってる? ……ったく」
 頑として折れようとしないシドの物言いに、秋人はしばしの沈黙の後諦めたようにため息を吐く。
「わかったよ。いくらおまえでも、企業セラ単独潜行なんて危なくて許可できるわけないだろ。勘弁してよもう……。三十分後でいい?」
「ああ」
「なに。明日の戴冠パーティーのため…………ではないか」
「明日の午後、いつもの訓練セラに必ず来るよう亮に伝えておいてくれ」
「亮くんに僕から話しておこうか? シド、最初からパーティーなんかいくつもりなかったみたいだよって」
「余計な真似はいらん。いいから潜行の準備をしろ」
「やだやだ過保護の癖に頑固オヤジって最悪」
 舌を突きだし鼻に皺でもよせていそうな雰囲気で吐き出された秋人のセリフに、シドは何の感慨もなく通話を切っていた。
 誰も居ない広い寝室を一瞥すると、ハンガーに掛けてあった上着を取り明かりを消して部屋を出る。
 シャワーの後だというのにきちんと外出着を着込んだままのシドは、濡れたタオルをランドリーバスケットへ放り込むと二階事務所へと向かっていた。