■ キミの不機嫌で僕は上機嫌になる・4 ■





 確かに状況は良いとはいえない。
 ローチの耳朶に仕込まれたスピーカーからは一党の者達から逐一報告が入り、戦況は一刻を争う緊迫の展開に動きつつあることを知らせていた。
 警察局足止め組からの連絡に寄れば、二人の地上勤をトラップにより別室へ連行することに成功したものの、残りの一人、新人らしいソムニアの捜査官は網から漏れ、パーク内に侵入。現在コーレイがその排除に動いているらしい。
 別室へ連行された地上勤二人も、あと三十分もすれば疑いを解かれパーク内へ入り込んでくることだろう。
 それとは逆に、パレード周辺に散らばったゲート起動の為のソケット組からは、未だ起動に足る力場の形成が不全していると連絡が入っている。人々の興奮・高揚により発生する量子の一種「アルミド」。このアルミドの波長が短く強くなることにより、トゥリザーツゲートは発動するのだが、パレードの一番の盛り上がりである花火との競演による演目が始まるまでは波動の適応形態には至らないと報告が為されていた。
「もうちょっと向こうへ行ってみようか」
 傍らをふらふらと歩く亮へ声を掛けてみるが、当の亮はローチの声が聞こえているのかいないのか、ぼんやりと焦点の定まらない視線を泳がせ、腕を引かれるままおぼつかない足取りですすむばかりとなっていた。
 かき氷のシロップにたっぷりと混ぜ込まれたハッピーブリーズは、甘く熾烈に亮のアルマを酩酊状態へ導いているようだ。
 通常の人間であればたとえソムニアであろうとも瞬時に自我崩壊を起こすレベルの量を摂取して、未だ自力で歩ける亮のゲボとしての素質は大したものだと、ローチは目を見張りつつ口の端を引き上げる。
 やはり少々の無理をしてでも手に入れるべき素材だ。
 なにより、成坂亮を捕らえれば必ずあの男が自分を追ってやってくる。しかも視線だけで魂の核まで凍りつきそうな怒りをもって。それを思うだけで、至極の快楽がゾワリとローチの中心を熱くする。
 自覚はしているが、部下達の言うとおり自分はかなりの重症なのだろう。
「しあわせ」というものを大安売りしている性質上、自分には敵意や悪意というものが向けられることは皆無と言ってよく、おそらくそんな感情とは世界で最も遠い位置にいる。だからこそ、無条件に敵意をもって世界から追われる犯罪組織を動かすのが好きなのであり、少し厳しいことを言われただけで気分が高揚してしまうのだ。
 だがあの男が自分に対して持っているのは、おそらく敵意でも悪意でもない。最初に出会った頃は単なる道具としての扱いであり、今はその道具に対する熱情すらない「ただの面倒くさい相手」という気怠い代物に落ちてしまっている。
 常にしっとりと湿った感情で覆われる人生を送り続けるローチにとって、こんなドライな感情を自分に向ける相手はあの男の他いなかった。
 そんな男が今度は自分を殺そうとやってくるだなんて、いったいどうされてしまうのかとワクワクが止まらない。この快楽を体験せずして自分の人生、なんの意味があるだろうかと思うほどだ。
 いつ、あの男は気づくのだろう。自分の大切なものがこの面倒くさい男に浚われてしまったことに。――そう考えるだけで喉の奥から殺しきれない笑いが零れそうになる。
「亮くんの大好きな人は今頃なにしてるのかな」
 隣を歩く亮に声を掛けてみれば、ゆぅるりと視線を巡らせローチの顔を瞳に映した少年は、眉を曇らせ不機嫌そうな様子で唇を尖らせる。おや、とローチは目を見開いた。ハッピーブリーズの影響下でこんな仏頂面が出るほど、この質問は気に入らないものだったらしい。
「あんなやつ、だいすき、じゃねぇもんっ。あんなやつ、いまごろ、シャルんとこでクルクルおどってるんらっ! クルクルまわりすぎて、ばたーに、なっちまえばいいんらっ!」
 ローチの問いに、自らシドへの感情を認めてしまっていることに、朦朧とした亮は全く気づいていない。
 この亮の言い分から察するに、シドはどうやらシャルル・ルフェーブルの戴冠式へでも招かれているのだろう。
「ふふ、そっか。亮くんの大好きな人はバターになってる最中か。でもそんなこと言って、ホントは一緒にパレード見たかったんじゃないの?」
「…………シろはゆうえんちなんかこねーもん」
 ぽつりと寂しげに呟く亮に、背筋へ苛立ちと快楽が同時に駆け上る。この子はシドに恋している。シドもこの子を愛している。誰が見てもわかりやすすぎるその事実に、だがそのどちらにも少年はまるで気づいていないのだ。きらきらした無垢さに目眩がする。見ているだけでイジイジと奥歯が痒くなり、小さな虫を水攻めにしたり足を一本ずつもいだりする子供のような残酷さが己の内に湧き上がってくるのを自覚する。ローチの口から震えるような甘い溜息が漏れた。
 多分この子の「好き」と自分の「好き」はまったく種類が違うのだろう。そんな「好き」を持てる普通の感性が羨ましくもあり気の毒でもある。なぜなら今の亮はその「好き」のせいでハッピーブリーズすら効かないほどの不安に苛まれているのだから。
 思えばこの少年に対する感情も、ローチにとっては他にないものなのかもしれない。
 あの男が抱えて離そうとしない成坂亮という存在。羨ましくもあるが、その立場に自分が置かれたいかと問われれば、決してそうではないという結論に達してしまう。もし自分が亮の立場に立ったのなら、その瞬間から自分にとってのシド・クライヴの価値はなくなってしまうからだ。
 シド・クライヴを煽り立てるための道具――端的に言えばそれがローチにとって成坂亮の価値なのだろう。
「なんか僕が昔のあいつみたい。……いや、僕の場合はあいつほどシンプルじゃないかw」
 道具として少年を見る自分にシドを重ねてみて、思わず笑ってしまう。
 ローチの呟きを不思議そうに聞いた亮は首を傾げ、じっと彼の顔を見上げる。
「ん? どうしたの、亮くん?」
「…………。」
 亮は無言で何度かパチパチと大きな瞳を瞬かせローチの顔を覗き込むと、なぜかにっこりと微笑んだ。
 それがあまりにいい笑顔だものだから、ローチは思わず釣られて微笑んでしまう。ブリーズ下に置かれた亮のアルマが、なんでもない風や、空や、音楽などに至高の幸福を与えられた瞬間だったのかもしれない。
 その証拠に亮の足取りはますますおぼつかなくなり、呼吸は浅く、早く変わっていく。
「おっと、危ないよ」
 心配げに亮の腰を支え、そのくせ歩みを速める。
 すでに周囲に人はまばらになってきており、パレードのコースからは外れつつあった。
 目指すはシンデレラ城。パレードコースを周囲にぐるりと巡らす中心部であるそこは、各ソケットから集められたアルミドが波となって寄せられる場所となる。
 周囲のアルミド濃度がぐんぐんと高まりつつあるのが、ソムニアであるローチには苦しいほどに感じられた。
 人々の感情の高まりから発せられるその量子はセラの周囲に漂う物質と非常に近しい物であり、あまりに濃いアルミドは成熟したアルマを持つソムニアにとって、肉体的に苦痛を感じさせる要因にもなる。トゥリザーツゲートを起動させるほどともなれば、一般的なソムニアなら意識混濁をも引き起こしかねないレベルまで高まるのだ。それ故その舞台となる中心部は、ストーンコールドメンバーたちも活動が不可能となる半面、警察局の人間もなかなか踏み込めないものとなる。またソムニアでない一般人ですら、圧力に押され自然とこの中心部には足を運ばなくなるため、ゲート起動は人気の少ない場所で執り行うことが可能となる。
 ローチとて先ほどから耳鳴りが止まなくなってきている。頭の奥がずっしりと重くなり、目の前にチカチカと火花が飛んで見える。内なるアルマにぐっと力をたわめてやれば若干ましにはなるが、それでも長時間この場所にいることはできないだろう。
「何度やっても慣れないねぇ」
 しかしこれこそ順調に準備が整っている証なのだ。真昼の花火が上がる頃には成坂亮は肉体ごとセラの中へ引きずり込まれ、ストーンコールドの所有物として新たな人生を迎えることとなる。肉体ごとセラへ取りこまれてしまえば、リアルからもセラからも亮の居場所を探索することは事実上不可能となる。おそらく今の技術ではIICRですら方法を持ち合わせてはいないだろう。
 つまり、警察局の人間がすぐそこまで迫っている今の状況が芳しくないものだとしても、決して最悪というわけではない。
 ローチがいつだってくぐり抜けてきたギリギリのラインがそこにあるだけだ。
「もうすぐびっくりするほどのゲボ能力保持者をゲットできちゃうんだもん。頭痛や耳鳴りくらい我慢我慢、だよね」
 ほとんど抱え上げるように亮の腰を抱くローチは、己に言い聞かせため息を吐くと、ようやく足を止める。
 ゲートオープンポイントであるシンデレラ城前広場に、遂に彼等は到着していた。
 辺りに人気は少ない。前方のチュロスワゴンに店員が一人。城の入口当たりに数人の学生グループ。広場左手にベビーカーを押す若い夫婦。どの顔もどことなく冴えない表情である。一般人である彼等は苦痛を感じてはいないだろうが、その圧倒的な圧力は容赦なくアルマへ加えられているのだ。健康上被害はないが、元気ハツラツとは行かない状況である。
 背後には、意外とこじんまりしたシンデレラ城が青空の下オモチャのように建っている。遠くにあるときはあれほど大きく立派に見えたのは、遠近法を利用したパーク設計の賜物らしい。
「はい、到着。どう、亮くん。頭、痛くない? 吐き気は? 大丈夫かな」
 屈み込み、うつむき加減になった顔を覗き上げてそう聞いてみれば、亮は水を欲する子犬のようにはぁはぁと呼吸を荒げ、「ふるほんや、さん……、オレ、ここ、どきどき、する……」と胸の辺りを抑え回らない舌でそう申告してくる。
 ハッピーブリーズの影響で苦痛は抑えられているものの、アルミドによる動悸や圧迫感までもは打ち消せていないらしい。
「ん。大丈夫。ドキドキするのは亮くんが楽しみなせいだよ。ほら、もうパレードが始まる。花火が上がるよ?」
 優しげにそう語りかけつつ、ローチは亮の身体を抱き寄せ、胸の辺りでぎゅっと握られていた左手をそっと手に取った。
 ローチにされるまま小さな白い手を差し出す格好となった亮は、自分を抱え込んだローチの顔を不思議そうに眺めている。
 ローチはそんな少年に雨森至郎の人なつっこい微笑みで応えると、己の右手小指から抜き取った漆黒のリングを亮の細い左手親指へ嵌め込んでいく。
「細い指。親指でも抜けちゃいそうだ……」
 艶のまるでない闇を固めたような不思議な金属で作られたそれは、亮の親指に嵌め込まれると、ゆらゆらと虹色のきらめきを表面に流し始めていた。
 チチッ、チチッと奇妙な音が鳴り始め、周囲には、目には映らぬアルミドがさらに収縮を起こしていく――。





 相手は海千山千の相当な手練れだと――そう気づいたときには既に、堂上の脇腹は白いシャツに赤い花が咲かされていた。
 無意識に発動させたらしいソヴィロのお陰で動けないほどではないが、手で押さえていても広がり続ける血の花はかなり深刻な痛手を受けていることを堂上に知らせていた。
 それでもやらねばならない。
 あの小柄な老人は必ずストーンコールドにつながっている。たとえ最初は取るに足らない些末な情報だったとしても、それが“当たり”であることだってないとは言い切れないはずだ。
 今回この仕事を任せてくれた主任の為にも、堂上斎はやらねばならないのだ。
 あんな年寄りのどこにそんな力がと不思議になるほどの速さで、ターゲットの男はぐんぐんスピードを上げていく。堂上は右脇腹を押さえつつも、食らいつくように相手を追った。
 パレードに向かおうとする人混みの中、怒鳴られながら必死に進む。
 いつもの堂上ならその度に謝りながら進んだことだろう。だが、今はそんな余裕すらなかった。最初は腹を抑えていた右手もいつしか大きく振り、人々をかき分けながら走っていく。
 もう彼の視界に老人の姿は映っていなかった。だが、気配だけはどうにか感じる。このまま振り切られてしまってはどうにもならない。何か事件が起きたわけでもないこの程度の情報だけで、TDLを閉鎖し中の人間を全て検めるような大がかりな捕り物は絶対に許可が下りないだろう。
「くそっ、どいてっ、通してくださいっ! っ、あ」
 人混みに隙間を見付け突っ込んだ堂上は、思わずつんのめり辛うじてバランスを保つと足下を見る。
 そこには三歳ほどの幼児が驚いたような顔で堂上を見上げ、尻餅をついていた。続けて火の付いたように泣き始める。
「ごめん、ごめんねっ!」
「ちょっと、あなた、非常識じゃないですか、こんなところで走り回って! 警備の人呼びますよっ!」
 さすがにそれに手を差し伸べた堂上に、横にいた母親が子供を庇いながら鋭い叱責の声を浴びせてきた。
「すいませんっ、あの、自分は警察のもので、今容疑者を追跡中でして――」
「は? 警察? ふざけてるのか!? キミはどう見てもまだ学生だろ!? ちょっと一緒に警備室へ」
 横にいた父親らしい若い男が堂上の腕を取り、歩き出そうとする。と――
「っ、キミ、なんだこれは!? 血か!? 誰かを刺してきたんじゃないだろうなっ!?」
「ちがっ、違います、これはその、僕の血で――」
 己の血で赤黒く光った堂上の右手に、父親が目を剥き、それと同時に周囲から悲鳴が上がる。
 こんなことをしている暇などないのにと焦りが堂上を焼くが、事態はますます悪い方へ転がり始めていた。
「事情は後で説明します。今は、すいませ」
「おいっ、誰か早く警備を呼んでくれっ! 頭のおかしい学生を捕まえた!」
 どうする――、追跡を続けるにはこの強く握られた父親の手をふりほどくしかない。もちろんそれは堂上にとって雑作もないことだ。だが、そうすれば下手をすれば一般人を傷つけてしまうことになる。
 そう逡巡する内にも老人の気配はぐんぐん遠くへ離れていく。
「どうしました――?」
 と、人垣をかき分けてスーツ姿の男が、警備の人間を引き連れ現われる。
 周囲の人垣からようやく事態が収束するかと安堵のため息が漏れていた。
「塩見さん!」
 まだ運は自分を見捨てていなかった――と、堂上は拳を握りしめる。
 現われたのは堂上を補佐してくれている地上勤の塩見だったのだ。先ほどからイヤホンの調子が悪く、彼等と連絡を取れない状態が続いていたのだが、どうやら無事誤解を解いて解放されたようだ。
「堂上さん、すいませんでした。どうにか事情を理解して貰い警備に協力を頼んだので――っ、怪我をされたのですか!?」
「僕のことはいいです、それよりそこの子供を転倒させてしまったので、様子を見て医務室へ連れて行ってください。僕は追跡を続けるので――」
「わかりました、ここは私たちに任せてください。ですが、無茶な真似だけはしないでくださいよ。佐東も付近で待機しています。彼に補佐をさせてください」
「わかりました。ありがとうございます!」
 それでも何か言いたげな父親を塩見と警備がなだめ、堂上は再び走り始めていた。
「佐東さん、聞こえますかっ? 僕のビーコンから東へ五十メートルほど先にターゲットの老人がいるはずです。追跡お願いします!」
『良かった、斎くん。さっきから何度も通信を試みていたんだがノイズが酷くてなかなかつながらなかったんだ。ビーコンは確認した。俺も追跡を開始する』
 通信も回復した。風は再びこちらへ吹いてきている。
 未だじくじくと血の滴る脇腹のことも忘れ、堂上は勇躍した。
 先ほどの件であれだけいらぬ時間を食ってしまったが、それでも辛うじて老人の気配を堂上は見失わないでいられたのだ。
 これを幸運と呼ばずしてなんとしよう。
「相手の老人はかなりの手練れです。佐東さんが武闘派なのは知っていますがそれでも油断しないで下さい」
『了解。熟練のソムニア相手に無茶はしないでおくよ』
 これでいける、と、走る足に力を込めた堂上は、しかしふと、何か小さな違和感を感じていた。
 あんなにも熟達したソムニアが、こんな距離のある位置から補足できるほど気配を放っているのは、本当に必死で逃げているせいなのだろうか。
 まるで足止めを喰らっていた堂上を待っていたかのように、ギリギリの位置で老人の気配は動いている。
 いや、そもそも最初に彼等を追って園内に入ったときはどうだっただろうか。
 姿どころか、気配すら完全に見失い、堂上は焦りを覚えていたのではないのか。
 (わざと自分を追わせている――?)
 その考えが電光石火のように堂上の内にひらめいていた。
 確かに自分は初回転生でSクラスをマークしたソヴィロであり、幹部候補生として将来を期待されている身だ。だがそれは能力値のみについての話であり、ソムニアとしての――いや、捜査官としての経験はまだ数年に満たない駆け出しである。
 そんな自分がまるで熟練捜査官のごとく相手の気配を捕捉し続けることなどできるものだろうか。
「っ、佐東さん! 僕は――」
 そう交信をしかけて堂上は言葉を切った。
『なんだ、どうした、斎くん!?』
 佐東の問いに、だが堂上は黙したまま足を止める。
 先ほどまで妨害されていたのだ。この通信も傍受されていると思って間違いないだろう。
 たとえ自分の位置が己の気配で丸わかりだったとしても、それでもそれ以上の情報を相手に与えてしまうことはない。
「いえ、僕は相手に察知されないようこれでビーコンを切ります。右手から回り込むので、佐東さんは左手からお願いします。くれぐれも近づきすぎないで下さい」
『わかった』
 ベルトに付いた無線機のスイッチを消すと、堂上は少し考え、佐東に指示した策戦ポイントとは真逆の方角へ走り始めていた。
 老人はパークの外へ外へと移動していた。つまりターゲットであるあの少年はパークの中央にいるのではないだろうか。
 傷の痛みも忘れ、堂上はスピードを上げる。
 頭上ではいくつもの花火が上がり始め、仕込まれた紙吹雪が真昼の空に無数に舞い散っていた。
 パレードコースに群がる人々はロープに沿って綺麗に分厚い垣根を作っている。あの中を突っ切ることは不可能だろう。
 だが堂上は一気に人垣へ駆寄るとしなやかな足に力をたわめ、石畳の地面を思い切り蹴り出した。
 ふわりと重力を無視し、堂上の長身が空を舞う。
 人気のないコース上に一度降り立つと、再び身をたわめジャンプする。
 パレードを待つ人々は突如空から現われた少年に驚愕の声を上げ、次の跳躍で歓声と拍手を上げる。これもパレードの一環であり、何か仕掛けを使って堂上が空を飛んだように思ったのだろう。
 堂上は構わず走り続けた。歓声も、人々の気配も背後に消えていく。
 先ほどから動悸が止まらない。
 耳鳴りがし、殴られたかのように頭の芯がグラグラしていた。
 走れば走るほどそれは強まっていき、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
 血を流しすぎたのかも知れないと、そう思った。
 だが止まるわけにはいかない。
 濃紺のスーツの右脇は、たっぷりと吸った血のせいでますます色を濃くし、つっしりと重さを持っていた。
 いつしか堂上はジャケット下のホルスターからソヴィロガンを引き抜く。
 胸を掻きむしるような焦燥感が彼を駆り立てていた。
 あれほどいた人の群れが、幻のように消えている。
 時折まばらに見える人影も、進めば進むほど少なくなっていくようだ。
 走り続け揺れる視界が一瞬ぼやけた。目の中に汗が流れ込んできたせいだ。
 無造作に袖口で額を拭うと、水でも被ったかのような雫が滴り落ちた。
 我知らず堂上の息は熱病患者のように上がっていく。いつもは艶やかな唇も乾き、ひび割れて血が滲みそうなほどだ。
(シンデレラ城――)
 眼前にオモチャのような城が迫りつつあった。
 その手前の広場。
 そこに立つ小さな二人の人影を、揺れる堂上の視界が捕らえる。
 一人は遠目にも見たことのない和服を着た男。
 そしてもう一人は――。
「いた……」
 ターゲットであった少年が確かにそこに立っていた。
 近づこうとするが、足が思うように前へ出ない。まるで夢の中で走っているような奇妙な感覚。
 酷く濃い粘着質な大気の中を、それでも泳ぐように前へ進む。
 頭痛と吐き気で今にも倒れ込んでしまいそうだ。
 だが、そうするわけにはいかない。目の前の少年は堂上と同じく具合の悪そうにうつむいており、それを抱え込んだ和服の男は何やら少年の手に持たせ、不穏な動きを起こしていた。
 彼の握った少年の手から、虹色の閃光が零れだしている。
 爆発物――という考えが朦朧とした堂上の脳裏に浮かんだ。
 なんとしてもあの男の動きを封じなくてはならない。だが、焦れば焦るほど足が前へ進まないのだ。
「くそ……っ!」
 パーク内でそうすることは避けようと、追跡時は思っていた。
 だが朦朧とした堂上には、他に手段は思い浮かばない。
 堂上は立ち止まると手にしたソヴィロガンを構え、目を眇めて狙いを定める。
 少年にはあてないように。できればあの男にも致命傷を与えないように。
 胸が爆発しそうなほどの動悸に、狙いが定まらない。だが、時間がない。
 ぐっとトリガーに力を込めた瞬間、男の視線が鋭く堂上の目を射抜いていた。
「っ!!?」
 刹那、堂上は目を閉じ、銃口から純白の光りの棒が流れ出る。
 痛みで痺れるほどだった頭の芯が真綿でくるまれたように暖かくなり、無上の恍惚感が堂上を襲う。
 流星のように進む彼のソヴィロを堂上は見ることも出来ず、その場に膝から崩れ落ちる。
 びくんと身体が揺れ、堂上は下着を汚してしまう。
 朦朧としていた意識はさらに混濁し、しかしうっとりとした快楽のため無様に身体をくねらせ、何度も何度も達してしまう。
「く……、ぁ……っ」
 瞬間、堂上は意識を手放し、その場でぱたりと動かなくなっていた。






 駄目だ。
 そう思った。
 相手がソヴィロだと気づいた瞬間には、もう相手はソヴィロガンのトリガーを引いていたのだ。
 ソヴィロは太陽。光の速度はローチのヴンヨより現実世界においても当然速い。
 この距離だ。チカリと光った瞬間、自分の顔半分は蒸発しているに違いない。
 ローチは確かに光を見た。
 まだ今世を終える予定ではなかったが、諦める他ない。
 ゲート起動時における集中状態は他をまったく疎かにするレベルであり、警察局がここへ入り込んだ時点でこうなる可能性は多分にあったのだ。
 さて、計算しないで死ぬ今回。次回転生先でシドと会うことはあるのだろうか。
 コーレイは次に会ったとき、それ見たことかと大目玉を落としてくるに違いない。
 人の想いは光より速い。
 瞬時に諦めと自嘲が駆けめぐり、ローチは目を見開いた。
 白い輝きが網膜を焼く。
 と――。
「っ!?」
 ぐるんと世界が回り、衝撃が全身を襲っていた。眼鏡が吹き飛び、背中の痛みで息が詰まる。
 視界の先には青い空。
 そこに覗くぼんやりとした見知った顔。
「……あいつらのせいで引越しか?」
 そう問うてきたのは先ほどまでローチの腕の中で朦朧と身を委ねていた――。
「うそ……」
 成坂亮。
 かの少年がローチを庇うように石畳へと彼を押し倒し、覆い被さっていた。
 あれほど強固なハッピーブリーズの影響下にあった亮が、なぜこんなにしっかりとした言葉を話しているのか。
 いやそれ以前に、そんな亮がソヴィロの速度に呼応するかの如く身を翻したなど信じられるわけがない。
 たとえアルミドの濃度が濃すぎるため、ソヴィロの進行速度に影響が出ていたのだとしても、ほんの瞬きほどの猶予しかなかったはずだ。
 しかし亮は驚いたまま言葉も発せないローチに向かい、更なる言葉を浴びせていた。
「ったく、早く言えよな。古本屋さんは……うさぎさんだろ?」
「…………!?」
 ローチの細い目が大きく見開かれる。
「風船、いっぱい飛んでてさっき気づいた。古本屋さん、ソムニア、なんだろ? なのにセラん中と全然違う顔してんだもん、ずりぃよ」
 先ほど亮がじっと自分の顔を覗き込み、特別な笑顔で微笑んだことをローチは思い出していた。もしかしたら、あの時、この少年はローチの正体に気づいたのだろうか。
「あー、んー、よくわからないけど……それは亮くんの中で確定したこと、なのかな」
「確定。今さらしらばっくれてもダメだぜ? 中身の感じがカンペキ同じじゃん」
 悪戯を見破ったかのような勝ち誇った笑みを浮かべ、亮は白い歯を見せて立ち上がる。
「はは……、アバウトな選別方法だね。せっかく秘密の技術で姿を変えてもこれじゃ意味がないな」
 じっと亮の顔を見上げるが、彼がどこまで思い出しているのかそれだけでは伺えない。
 しかしどのみちすぐに彼はローチの手の内に落ちるのだ。今さらもうなにも隠すことなどないだろう。
 少々の誤算はあったが障害になるものではない。そう判断するとローチは皮肉げに口元で笑う。
「庇ってくれて助かったけど――色々急がせて貰わないと」
 まだ周囲はゲート起動条件を十分に満たしている。
 警察局のソヴィロは銃を撃つ瞬間、ローチのヴンヨが掠ったはずだ。濃密なアルミド環境の下ということで致命的なダメージには至っていないだろうが、すぐには動けない状態になっていることは確実だ。
 やるなら、今だ。
「ほら」
 自分に向けて差し出された亮の左手を、ローチは体勢を立て直すが如く握り返していた。
 亮の親指に嵌め込んだリングを共に握り込むと、身を起こしながら力を込める。
 指輪が振動しているのがわかる。
 行ける――と確信する。
「……またなんか悪巧みしてんだろ」
「ん?」
「今度は誰にオレを引き渡す気だ? 滝沢はもういねーし、ガードナーは捕まった」
 見上げた亮の顔は今まで見たことのない表情だ。
 怒っているわけでもない。悲しんでいるわけでもない。ローチが今まで見てきた亮の幼さが残る感情表現のどれもに、その表情は見合わなかった。
 ただ真っ直ぐ、酷く真摯な眼でローチの瞳の奥を見つめている。
「へぇ……。ホントに結構思い出しちゃってるんだ。これはびっくり」
 立ち上がるとゆっくり手を離す。
 ゲートは起動を始めている。
 あとは時が満ちるのをカウントダウンするのみだ。
「しかもガードナーの件まで僕の仕業だなんて推測まで立てちゃってるくせに、その上で僕を庇ってくれるんだ。……でもそれってどういうつもりなのかな、甥っ子くん? 言っておくとあそこで起き上がろうと藻掻いてんのはIICR警察局の人間だよ」
 ――10。
「うわ。警察局って、……ホントに悪い奴だったんだな、あんた。信じらんねぇ。どんな化けの皮だよ」
 亮の大きな眼が驚いたように揺れ、だがそれ以上責める言葉も吐かず、少年はローチに背を向け三十メートル前方で身を起こしかけている男へと相対す。その様子は未だローチを庇いだてしているかのようで、ローチは無性に苛立ちを覚えた。
 ――9。
 現実を突きつけられてなお心の慣性に引きずられ、まだローチが自分を今まで通り扱ってくれるのではないかという幻想を、この少年は抱いているのだろう。
 甘ったるい子供じみた友達ごっこ。そんなものにいつまでもしがみついていられる幸福さに、腹が立つ。
「そんな悪い奴に背中向けちゃっていいのかな?」
 すぐ目の前にある亮の頭からふと視線を降ろせば、亮の背中が随分と汚れていることに気がつく。
 白いTシャツの肩胛骨部分が、横へ引きずられたかのように黒く煤けているのがわかった。だが、どこで亮は背中を地面にこすったのか――という疑問がすぐにローチに湧いていた。ローチを庇ったとき、彼はローチを地面に押しつけ自分は背を下へつけることなどなかったはずだ。
 眼鏡をなくしたローチは、眉をしかめて亮の背を凝視した。
 ――7。
 と。
「…………。」
 それがただの汚れでないことに、やっとローチは気づいていた。
 太い刷毛で掃いたような背中のそこは、Tシャツの一部ではなかった。その部分のみ完全に布地は焼け落ち、下の素肌が露出しているのだ。そしてその素肌は赤黒く焼けただれ、体液すら滲ませていない。
 ローチを庇った折、ソヴィロの一撃が掠ったのだろう。酷ければ3度熱傷に達しているかも知れない。
 一瞬、息を呑む。
「いいよ。今回だけ特別」
「……今回、だけ? ……相変わらず甘いね。今回もなにも、僕はキミのことをただの一度も友達だなんて思ったことはない。キミはただの商品だ」
「そっか。 ……そっか」
 二度、同じ言葉を呟いて、亮は一瞬言葉を切った。
 だがすぐに明るいトーンで先を続ける。
「……でも、弁当作ってもらったり、相談に乗ってもらったり……古本屋さんに助けて貰ったことは変わんねーから。恩義は返さねーとな、男なら」」
 シシシと楽しそうに笑うと、亮はちらりと背後のローチに視線を送る。
 ――5。
「だから、これはオレの自己満」
 一度だけ振り返った亮は少し哀しそうに微笑み、歩き出す。
 前方ではようやく警察局の男が立ち上がったところだ。
「今度会ったらぶん殴るからっ。――じゃーな!」
 走り出そうとする亮の身体がよろめく。
 気合いと気力で意識を保ってはいるが、やはりまだ身体はハッピーブリーズの影響を受けているのだ。
 それでも亮は体勢を立て直し、前へと進む。
 ――3。
 大きく手を振り駆け出そうとする亮の背中から、黄色い体液がじくじくと滲み始めていた。
 咄嗟にローチはその手をつかむ。
「っ!?」
 驚いて振り返る亮を抱きすくめると、左手から指輪を引き抜く。
 ――2。
「キミはホント、馬鹿だね」
 そう耳元で囁き、ローチは強い力で亮の身体をはじき飛ばしていた。
 ソムニアとしてのパワーで突き飛ばせば亮の小さな身体など、人形を放り投げるも同じだ。
 ふわりと重力を無視し、宙を舞うように飛んでいく。
 何が起きたのかわからないと言った顔の少年は、大きな眼を見開いたまま遠ざかっていくローチの顔を眺めていた。
 ――1。
「シド、怒ってるよ!」
 亮のよく知る笑顔でそう言ったローチは、手の中のリングを自らの指に嵌めていた。
「え!? なに!? シド!?」
 正体不明の古本屋の口から思わぬ名前が漏れたことにさらに目を丸くして、亮が叫ぶ。
 だが次の瞬間。
「っ!!!????」
 虹色の輝きがローチの手の中から迸りその身体の輪郭をなぞるように駆けめぐると、刹那、一点へ収縮し、瞬く間に消えて無くなる。
 あまりの光量に視界が一瞬グリーンに染まり、亮はぎゅっと目を閉じる。
 と、どさりと感じる重力の衝撃。
 自分が落下したのだと気づいた時には、亮は何者かによって柔らかに抱き留められていた。
 古本屋の消えた方角から風が吹き、ふんわりと甘いバニラの香りを運んでくる。その香りに混じって、なぜかよく知るタバコの匂いが亮の身体を包み込んでいた。
 ああ、と悟り、途端に満たされる安心感。だが、一瞬後には冷や汗を流しそうな焦燥感が亮を襲う。
 自分を抱き留めた、このよく知る腕の中の感触。
「シ……ド……、なんで?」
 見上げれば、案の定、眉根を寄せ恐ろしく不機嫌な顔をしたシドが亮を見下ろしていた。
「なんで、だと? それは俺のセリフだ」
 自分を抱き上げているシドの手がジャケット越しにも氷のように冷たいことがわかる。
 これはものすごく怒っている。
 ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。と、亮は胸の中で連呼する他ない。
「っ、なんで、あなたがここにいる。あいつは……どこへ……」
 が、亮が言い訳するより先に、別の何者かの声がシドの背後から剣呑な調子で掛けられていた。
 亮を抱き上げたまま、シドはくるりと振り返り、相手の人物を眺め降ろす。
 そこにはようやく立ち上がった堂上斎が、膝に手を着く形でこちらを伺っていた。
 真新しいはずのスーツは全身水でも被ったかのようにずぶ濡れで、ボロボロ。右脇腹の辺りには黒々とした染みが広がっているようだ。
「あの男ならもうどこかへ姿を消した」
「なぜ、追わないっ! あいつはストーンコールド構成員の疑いのある男だぞっ」
「それはおまえの仕事だろう警察局。俺は一民間事務所の人間に過ぎん」
「それはっ、……わかっている、が、……。なぜストーンコールドがその少年を連れ去ろうとした? その少年は何者だ」
 亮は改めてまじまじとその男を見た。
 荒い呼吸でこちらを見上げてくる警察局の男は、亮と同じ年頃にしか見えない。
 こんな人間もIICR警察局などという第一線で働いているのかと、改めて驚く。ソムニアの世界に年齢は本当に関係ないんだなと、この場ではおそらくどうでもいい事に感心してしまう。
 それと同時に、同じ年頃の見知らぬ人間の前で抱き上げられているこの格好に、亮の中で急速な羞恥心が芽生えていた。
「っ、降りる。シド、降ろせ」
 しかし藻掻く亮のことなどさらりと無視し、シドは暴れる亮を抑え込んだまま冷たい表情で相手を眺め降ろす。
「これはうちのアルバイトだ。さっきの男がストーンコールドだと言うなら、大方うちの情報でも欲しがったのだろう」
「…………なる、ほど。その少年は、S&Cサービスの情報源、というわけか。……だが、事情は詳しく、局で聞きたい。これから、すぐにこの少年を当局へ……」
「断る」
「なにっ!? IICR警察局の捜査権はソムニアに対し絶対的な……」
「おまえのソヴィロだろう。こんな場所で銃を使ったな」
 そう言うとシドは藻掻く亮を腹ばいに肩へ担ぎ上げ、背中の傷を堂上へとさらしていた。
 途端に堂上は声をなくし、唇を噛みしめ目を見開く。元気そうに動く亮の様子に、まさかこんな事になっていようとは想像もついていなかったらしい。
「火傷の深度が深いせいで本人はあまり痛みを感じていないようだが……、こんな子供にこれほどの傷を負わせてどう責任を取るつもりだ。下手をすれば死んでいた」
「それは……っ、すま、ない。彼を狙ったつもりは、なかった。ただ、爆発物が……」
「そんなものがどこにある。おまえの焦りが生んだ早とちりで、うちのバイトはこのザマだ」
「シドっ、いいんだ、これはオレがっ……」
 背後で何やら不穏な空気の流れを感じ、亮はなんとかこの場を収めようとわからないなりに割り入ろうとする。
 だがシドは亮を黙らせるかのようにぐっと亮の頭を大きな手のひらで押さえ、言葉を続けた。
「しかし、遊園地に釣られてホイホイわけのわからん連中について行くうちの馬鹿ガキも悪い。今回は治療費の請求だけで訴えることはやめておいてやる」
「は!? 別にオレはそんなもんに釣られたってわけじゃ……」
「……、本当に、済まなかった。治療費の請求は、上限無しで通るように、事務局に言っておく。……しかし、やはり事情聴取だけは」
「俺が代わりに出向く。書類の不備はないようにしてやるから、それで構わんな。――おまえもまずは治療しろ」
 シドの言葉に亮は何とか首を巡らせ、警察局の少年を見下ろす。
 どうやら彼も怪我をしているらしい。なんとなく申し訳ない気がして亮は「ごめんなさい」と小さく謝っていた。
 それをどう聞いたのか、黒い髪の少年は頬を弛めゆっくりと膝を着く。
 彼の背後から大人が一人、駆寄ってくるのが見えた。どうやら彼の仲間らしい。
 シドはそれ以上警察局の人間に言葉を掛けることもせず、亮を担いだままずんずんと大股で歩き始めていた。






 進めば進むほど、辺りに人影は増えていき、先ほどまでの静けさが嘘のように周囲は当たり前の雑踏へと変わっていく。
 黙ったまま不穏な空気を立ち上らせ歩き続けるシドに、肩の上からトラの敷物のように担がれたままの亮は、じたじたと動いて抗議の声を上げていた。
「シド、おろせ。はずぃ……」
 この人混みの中にあってもシドの長身はとても目立つ。
 そしてその上に担がれている亮はもっと目立つ。
 先ほどから周囲の視線がとても痛かった。特にすれ違う女性、すれ違う女性、みんなこちらを二度見するのだ。
 いや、彼女たちが見ているのは正確に言えば“こちら”ではなく“シドを”なのだが。
 このTDLにあって、真っ赤な髪の長身外国人という属性はどうやら一客ではなく、ある意味アクターの一人と映るのかも知れない。しかもいつも亮は思うのだが、シドの面立ちは不必要に良い。この間国語の授業で習った「ムヨーのチョーブツ」とか言うものはシドの顔のことだとつくづく思う。
 何人かの女の子達がこちらへ向けスマホを構えるが、どうもうまくシャッターを切れないでいるらしい。その間にシドは大股で過ぎ去ってしまい「なんでなんでー!?」「やだっ、携帯キンキンなんだけど!?」「ちょ、やだもうあんなトコじゃん!」という無念の叫びが通り過ぎざま亮の耳に届く。
 あまりに温度が下がると電子器機はうまく動かないということは知っているが、まさかシドがこんなに器用な真似をするとは亮は思いも寄らなかった。
「シドっ、おろせよっ! バカシドっ!」
「馬鹿はおまえだ。……こんな大がかりな仕掛けにまんまと引っ張り込まれるとは呆れる」
 何度目かの抗議でようやく口を聞いたと思ったら、それはいつもよりおそろしく低い声で――。予想以上の機嫌の悪さに亮はビクンと思わず背筋を凍らせていた。
「……それに、ついては、その……、ごめん」
 先ほど目の前で起きた事象――。あれはどうみても普通の誘拐劇とはほど遠い、亮には未知の大きな力が動いていたとしか思えない。一歩間違えれば、自分が古本屋と同じようにあの場所からかき消えていたということだ。
「言っておいたはずだ。あの男には近づくな。今日は昼から訓練だと。なぜ言いつけが守れない」
 だがこうも頭ごなしに叱られれば、亮とて言い返したい理屈はあるわけで――。
「だって!」
「だって、なんだ」
「……だって、シドは、シャルんとこに、行くから、訓練はどうせ、自主練、だと、思ったし……」
「そんなところへは行かんと伝えたはずだ」
「っ、そんなの、セラん中、だったらすぐ、じゃん。だから、セラん中でパーティーとか、だったら、オレ、わかんないし、シャルが、絶対シド来るって、言ってたし、っ、カラークラウンになるって凄いことなんだろ!? だったら絶対、行くじゃんっ」
 言いたいことを語り出すうちに亮の頭の中は混乱し、収拾の付かない言葉の羅列がぽろぽろと零れ出る。
「だ、だいたい、あの男って、シドは古本屋さんのこと、知ってたんだよな!? 古本屋さん、てか、うさぎ、さんも、シドのこと、なんか知ってる風だった。なのに、なんで言わねぇの!? なんで、オレに内緒に、すんの!?」
 頭の芯が痺れ、泣きたい気分のはずなのに幸せで、不安でふわふわするのに安心感で押しつぶされそうだ。
 アンバランスな精神が寒くもないのに亮の身体を震わせ、ぎゅっと目を閉じる。
 そこでシドはやっと立ち止まっていた。
 人の喧噪が遠く、辺りには幾本もの木が生い茂っている。
 スタッフルームの裏なのだろうか、ぽっかりと人の居ないその場所には、小さなベンチが一つ建物に隠れるように置かれているのみだ。
 肩の上でぷるぷると震えている亮を降ろすと、シドはベンチに座り、亮の身体を横抱きに抱え直す。
 何か言われるとぎゅっと目を閉じたままだった亮は、自分の髪をくしゃりと撫でた冷たい指先にそっと瞼を上げる。
 こちらを見下ろすシドの顔は眉根が寄せられたまま相変わらずの不機嫌顔だったが、その端々に困惑の色を伺わせていて、亮は不思議そうにその顔を眺めた。
 多分シドを知らない人なら無表情だと捕らえるほどの微かな違いだが、亮にとっては初めて見る表情に思えたのだ。
「あいつはローチ・カラス。罪の意識など持ちようもない気狂い男だ」
 苦々しげに呟かれたのは、一つの名前。
 亮はその名をかみ砕くように、繰り返してみる。
「ローチ……カラス。……変な名前」
「変なのは名前だけじゃない。頭のネジも飛んでいる。……俺の腐れ縁の一人だ」
「なんだ……。あいつ、シドの、ともだち、か」
 亮の呟きに、シドの視線がますます険しくなる。
「……ハッピーブリーズのせいで耳までおかしくなっているな」
「腐れ縁って、ともだち、だろ? シュラとか、レオン先生、とか」
「あれは……」
「ローチは、おまえの友達ン中で、一番、イカれてて悪いヤツ、だな」
 亮は少し嬉しくなって微笑んだ。
 自分が古本屋を嫌いになれないのは、きっとシドの友達だから――なのだと納得できたから。
 しかし自分の納得とは裏腹に、シドの機嫌はますます急降下していくのがわかる。
「だから違うとさっきから言っている。ブリーズを食ったヤツとは話にならんな。どうせあの気狂いに出された甘味でもまた簡単に口に入れたんだろう」
「ぶりーずって、なに? オレ、かき氷しか、くってないよ?」
「だからそれが……っ」
 言い掛けて大きなため息を吐き、シドは片眉を上げ亮の顔を眺め降ろす。
「緊張が解けて本格的に効果が戻ってきたな、これは……」
 亮の発言も言葉遣いもおかしい。急速に亮の言動が壊れていく様子は、シドもよく知るハッピーブリーズの効果に他ならない。いや、おかしいと言えば、ゲボでない者がその効果を受ければ永遠にまともには戻れないという触れ込みのそれに、たとえゲボであっても一時的に完全に抗って見せた亮の方がおかしいのかもしれない。
 先ほどまで文句の付けようもなく自分を取り戻し、あまつさえ警察局のソヴィロと相対していたとは、状況を目の当たりにしたシドも改めて驚く他ない。だからどちらかといえば、ブリーズを摂取した状態としてはこれが通常運転なわけで――。
「あの変態は何かにつけたちの悪い道具を使いたがる――」
 そんなシドの不機嫌が、亮にはだんだん面白く思えてきた。
 シドがここにいるだけで、全部が丸くおさまっているような気がしていた。全部がカンペキで、欠けているものが全然ないのだ。
 だけどシドが何を考えているのかはわからない。
 だから亮はそれも、全部全部知ってやろうと思いつき、次々に質問を繰り出す。
「なんで、シド、ここに、いるんだ?」
「おまえがここに、いるからだ」
「…………? でも、でも、オレ、ないしょででてきた、のに」
「帰ったら全部教えてやる」
「ふぅん……。……じゃ、なんでいっつもしどは、オレのぴんちに、きてくれるんだ!? だってすげぇもん、ぜってー、きてくれるし!」
「もう、わかった。いいから帰るぞ。その火傷を見たら秋人がひっくり返る」
 渋い表情のままシドは己のジャケットを脱ぐと亮の背に掛け、今度は横抱きにしたまま立ち上がる。
「ん、いやだ。はずぃっていったのに。あるいて、かえるっ。おろせ、よっ」
「わかったわかった。帰ったら降ろしてやるから歩け」
「…………? …………、…………。…………!! かえったら、あるかないっ。だまされない、ぞっ」
 しばしの黙考の後下された亮の名答に、シドはまいったと言いたげに天を仰ぐと、ジャケットを亮の頭の上まで引き上げ、己の胸に亮の額をきゅっと押しつける。
「こうしていれば恥ずかしくはないだろう」
 眩しいほどだった青い世界から一転隔絶された亮は、薄い色味のジャケット越しに降り注ぐ淡い光の世界で、ひんやりと冷たいシャツの感触に頬をすり寄せ、低い鼓動の音にうっとりと目を閉じる。
「俺は不機嫌なんだ。大人しくしていろ、酔っぱらい」
 耳元から聞こえるトーンの低い声に、亮はぎゅっとシドの胸元のシャツを握りしめ、込み上げる幸福感に甘い溜息を漏らす。指先まで満たされる桃色の幸福に、亮の身体はしんなりとシドの腕に委ねられ、シドはそれを柔らかに抱きかかえたままパーク内を進んでいく。
 だが、それも束の間のこと――。
「ふきげんな、しろと、ごきげんなオレは、いまから、はいぱーさんだーまうんてんに、のって、かえることに、きまったよ!」
「決まっていない」
 ジャケットの隙間からとろりとした瞳を覗かせ、バタバタと暴れる亮を抱え、シドはひたすら駐車場を目指し歩を進めるのだった。





 ※なお、事務所に連れ帰られた亮がその後どうなったのかは、すぐに治療を開始した秋人も、やれやれとため息を吐いた壬沙子も関知のの外である。