■ 成坂修司の深き悩み・1 ■




「うっへあ〜、緊張するわ」
 武智はそう言うと今日何度目かの大きな深呼吸をし、目黒区のはずれにある小さな商業ビルを見上げながらぱたぱたと手のひらで自分の顔を扇いでいる。
 もう十月も半ばであり、昼時のこの時間帯といえど決して暑くはないのだが、今日の武智は朝からこの調子だ。
「何をそう緊張することがある。おまえはただの付き添いだろう。嫌なら僕と郷中さんで行ってくるからおまえは車で待っていればいい」
 さすがに呆れた僕は思わずため息を吐きながら先を歩き出す。
「馬鹿野郎、行くよ! 行くに決まってんだろっ。こんなチャンスそうそうないんだからなっ」
「すいません、成坂さん。ぼんは存外ミーハーなところがありまして……」
 武智と共に僕の後ろを歩く郷中さんは、その熊のような大きな体つきからは想像できないほど申し訳なさそうに頭を下げていて、僕は慌てて「構いませんから」と首を振っていた。
「それに僕だって武智とは十年来の付き合いですし、こいつのことはよく分かってます。武智もっ、あまりお家の人を困らせるなよ!?」
「お家の人って……。俺はこれでも組とは関係ない一般サラリーマン家庭に育った人間だぞ。そりゃ郷中は兄貴みたいなもんだけど、そういう語弊のある言い方は――」
「わかったわかった。ほら、行くぞ」
 武智勝利――。僕の高校時代からの友人は、彼の言うとおりごく普通の一般家庭で育ったごく普通の人間で、今は彼の父親と同じくごく普通のサラリーマンとしてうちのホテル事業で働いて貰っている。
 だが、彼の生い立ち自体は決してごく普通――とは言いがたい。彼の母親の兄――。つまり彼の伯父は全国に一万人規模の配下を持つ広域指定暴力団「六代目神誼会」の現トップであり、彼はその甥に当たるということになる。
 もちろん彼の母は幼い頃から家を出て、一般家庭に預けられ育った為、一般人である武智氏と結婚後生まれた勝利も同じく一般人として育てられたわけだが、それでもその血筋から思わぬトラブルに巻き込まれることも多く、ボディーガードとして昔から彼に付き添っていたのが、現若頭補佐である郷中氏というわけらしい。郷中さんは神誼会でも実質ナンバー4に位置する大物で、彼自身も親武会という組を率いていると聞いているが、今も武智が何か我が儘を言えば真っ先に胸を貸してくれる存在なのだと武智が自慢げに話してくれたことを覚えている。
「しかしどう見ても普通の商業ビルだよなぁ。こんなとこにあの有名なイザ・ヴェルミリオがホントに働いてんのかね」
「こういうところだからこそ、かもしれませんよ、坊ちゃん」
 ガレージ横のエントランスから中へ入り、エレベーターへ乗り込みながらも武智の無駄口は止まらない。
 「一般家庭に育った――」が口癖の武智だが、こいつの知識はどうひいき目に見ても一般人とは言い難く、僕の知らないソムニアの世界のことまでかなり詳しいらしい。郷中氏の率いる組がカジノ経営と共にソムニア関係の仕事も手がけているという話は聞いていたが、そのせいもあるのだろうか。亮がソムニアというものになってからというもの、僕は武智の知識に助けられっぱなしだ。
「なぁ、成坂。どんな男なんだ? イザ・ヴェルミリオってのは」
 エレベーターのドアを締めながら、完全にワクワクした目で僕を見る武智。
 こいつとは長い付き合いだが、本当にこう言うところは昔から変わらない。郷中氏の言うとおり見た目のいかつさからは考えられないミーハーっぷり全開だ。
「どんなって……、クライヴさんは背が高くて髪が朱くて、無口で、表情があまりなくて――とても威圧感のある人……かな」
「まったく伝わってこねーな、その情報じゃ。もっとこうないのか? 人を何人も殺してそうな目をした――とか、後ろに立った者はその場で斬捨てそうなオーラをまとった――とか」
「…………」
「いや、悪い子がいたら頭から喰い殺しそうな――とか、熊みたいなデカ物で握力だけでスイカを握りつぶしそうな――とか」
「ぼん。後半私に対する悪意を感じますが……」
「おまえはクライヴさんをなんだと思ってるんだ。すでに人間じゃないぞ、それは」
 げっそりとした僕の横で、武智は名調子だ。
「だってもう人間じゃないだろ、シド・クライヴって男は。ただでさえ人間離れしたソムニア界の中でさらに伝説級の悪鬼みたいに言われてる男だぞ? そりゃ見ただけで背筋も凍り付くヤツに違いないと思うだろうが」
「緊張する緊張するって、クライヴさんに会うことに緊張してたのか……。まったく……」
「他になにがあんだよ。渋谷秋人も有名人だがしょせん人間。ただの天才ギークくんだろう。恐怖の大王シド・クライヴに比べたら小者小者」
「いいか、勝利。連れて行ってやるが、くれぐれも余計なことは言わず黙って座ってろよ」
 一抹の不安を覚え僕が十年来の友人にくどくどと言い含めていると、するりとドアが開きエレベーターが僕らを吐き出した。




 事務所内の応接用ソファーで向かい合って座っているのは、この事務所の所長さんであり、医師の免許も持つ渋谷秋人氏だ。
 その横には僕らにお茶を出してくれた妙齢の女性、皆南壬沙子さんがいる。彼女もソムニアだと聞いているが、クライヴさんのようにセラへ潜ることは少ないらしい。
 現在もクライヴさんは仕事で地下のシールドルームに籠もっている最中であり、渋谷さんがこちらの話に掛かりきりになった今、ようやく現実世界へ戻り、下で身支度を調え上がってきてくれる算段になっている。
「わ、わざわざありがとうございます。えーと……く、組のトップの方に足をお運び、いただいて……」
 渋谷さんは郷中氏の肩書きをよく知っているらしく、たどたどしい口調でそう言うとぎこちなく微笑んでみせる。
 カップを持つ手も微妙に震え、完全に怯えた犬のような状態になってしまっているが、僕にはその気持ちがよくわかる。なんだかんだ言って郷中氏の外見は迫力があるし、その肩書きたるやいわんやをや、だ。
「いや、とんでもありません。こちらこそ堅気のソムニアさんに迷惑かけてしまいまして。うちのシマの出来事をうちがうまく処理できないでいたせいで、こんなことになってしまったんだ……、謝罪に私が足を運ぶのは当然のことです。……この通り、すいませんでした」
 深く頭を垂れる郷中氏に、渋谷さんは大あわてで顔を上げてくれと懇願している。かえって気の毒なくらいだ。
「今日はあらためての謝罪と――それから例の男を処分した後出てきた品をこちらへ引き渡すためにやってきました」
 郷中氏の言葉に、渋谷さんはようやく冷静さを取り戻すと難しい顔で僕の方を伺う。
 僕はうなずくと、横に座る武智へ視線で合図をし、持ち込んだ大きなカバンから今日一番重要な要件である品物一式をテーブルの上へ広げていた。
 並べられたのはいくつかのファイルの束と写真。それからUSBメモリ数十本。ノートパソコン一台と、外付け、内蔵合わせたハードディスク数点。
「クラウド上に上げられたものに関してはまだ手つかずです。そちらで処分していただくべく、一応アドレスとパスワードも用意しました。パソコン関係はそのまま廃棄処分にしても良かったのですが――こちらで処分したとお伝えしただけではご不安もおありでしょうから、こうして現物を全てお持ちした次第です。渋谷さんはこの道のプロだと聞いています。我々の生兵法で対処するよりあなたにお任せした方が後々憂いを払拭できると考えました」
「それは助かります。こちらのファイルは――」
「主に滝沢個人のものになりますが、フォークロア関係で手に入るものは全て揃えてきました。滝沢の手がけた違法ソムニア斡旋業者『フォークロア』は先日の捕り物でIICR警察局の手入れが入ったようなので――主だった物はそちらへ流れていて我々が手出しできる範疇にはありません。ですが、幸いなことに亮さんに関する物は滝沢個人が管理していたと思われるのでここにあるもので全てだと思います」
 抜かりのない手はずにさすがの渋谷さんも感心したように唸っている。武闘派と言われる親武会のトップ郷中氏だが、ご本人は頭も切れる人だと武智から聞かされていたとおり、真実頼りになる人物らしい。
「ありがとうございます。えーと、中身の確認は当然そちらでもされたんです……よね。そのことについては……」
「もちろん他言無用。わかっています。確認作業は私一人で行いましたし、内容は私が墓場まで全て持って行きます。メモリ内に入っている動画や写真も一応は目を通しましたが――あまりに酷い内容で正直記憶から消し去りたい気持ちになりまして。あれは……良くない。本当に……」
 言ったまま郷中氏が言葉を濁す。ちらりとこちらへ視線を流したところを見ると、おそらく中の動画は亮に関するものなのだろう。
 僕はこれらのものが滝沢の身辺から出てきたことについて、先日真っ先に武智に伺いを立てられたが、どうするとはっきり答えることができなかった。もちろん、処分する方向であるのは確かだけれども、今後憂いを残さず綺麗に消し去ろうとした場合、僕が素人考えでする個人的処分では十分でないだろうと考えたからだ。
 だから今日、S&Cソムニアサービスの方々と郷中さんの時間をもらい、こうして物を引き渡すことにしたのだが――結局動画に関しては僕はほとんど目を通していない。
 その他のファイルは全て目を通したし、写真もいくつかは確認したのだが……どうしても動画ファイルにだけは手を伸ばすことが出来なかった。
「本当にわざわざありがとうございました。えーと、それでこれらデータ引き渡し諸々のお礼なんですが、相場の倍ご用意させていただきましたので……」
 渋谷さんがそう言うと、となりの皆南さんが綺麗な紙袋をテーブルの上に上げる。ずっしりとした重さを感じさせるその中に入っているのは先日僕も半額出させていただいた――礼金だ。僕はこのような場合の相場というものを全く知らないし、その作法も分からなかったため渋谷さんと相談し、結果この金額に落ち着いたのだが――
「いえ、これは受け取れません」
 郷中氏は静かに紙袋を渋谷さんへと押し返していた。
「いや、それでは! 今回はうちの亮を助けていただいたんですから、受け取っていただかないと!」
 僕が慌てて声を上げると、武智が隣で困ったように笑う。
「なんだ、おまえも出してんのか。そりゃますます受け取れねぇな」
「何を言っている。武智に渡すわけじゃない、郷中さんに渡すために僕は……」
「バカか、修司。おまえ、成坂の現社長だろう? 暴力団に金を渡したなんてこと外に漏れてみろ、うちの社のイメージは壊滅的打撃を受ける上、下手すりゃ警察に目ぇつけられるんだぞ?」
「っ、それは――僕個人の問題であって会社は関係な……」
「そんなこと通用するわけないだろ。普段の敏腕社長ぶりはどうした。亮のこととなるとまったく目端が利かなくなるんだからな、おまえときたら」
「いや、しかしっ……」
「うちが全て払ったことにすればいい。修司の金はS&Cソムニアサービスへ入れたものであって、今回の報酬には何の関係もない。それなら問題ないだろう」
 どうやら声が大きくなってしまっていたらしく、奥の扉から現われたクライヴさんが、冷静にそう言い添えてくれる。
 身支度を調えつつ上がってきたらしいクライヴさんは、ゆったりとした白いシャツと黒のジーンズを着ておりいつもより幾分ラフなイメージだ。洗い立ての髪をタオルで無造作に拭きながらテーブル右に置かれた一人がけソファーに腰を落とすと、紙袋を再び郷中氏の方へ押しやる。
「うちならこの程度の取引、特に問題はない」
「さすが、S&Cさん。IICRの後ろ盾があるから――ですか?」
「そんなものはない。だが元々後ろ暗い仕事だ。今さらどうこうなるものじゃないというだけだ」
 郷中さんとクライヴさんが一瞬目を合わせ、郷中さんが険しく眉根を寄せる。
「そうですか。……ですが、うちもこちらへお渡しするデータ以外に色々面白い情報を仕入れることが出来ました。それにフォークロアが根を張っていたネットワークも壊滅でき、その後の地盤をうちが引き継ぐことも出来た。おつりがくるぐらいすでに儲けさせてもらってます。ぼんのご友人関係者にこれ以上いただくわけにはいきません」
「ほら、シド、郷中さんもこうおっしゃってくださってるんだ! 無理にお礼をオススメするのはかえって失礼じゃないかなぁ」
 渋谷さんは満面の笑顔ですでに紙袋に手を掛けそうな勢いだ。
 社長であり医師であり、とても有能な方だが、どうもお金の面に関しては渋谷さんは出し渋るところがある。
「借りを作る気はない。どこの誰が相手だろうと取引は正当に行うのが筋だ」
「……なるほど。やくざに只で仕事をさせると後が面倒――ということですかね」
「ちょ、シド、謝って! いえ、そういうことじゃないんですよぉ。こいつホント言葉が足りなくて……」
「わかっているなら受け取れ」
 じろりと郷中さんを見たクライヴさんの目は氷のように冷たく、全く感情が窺い知れない。目の前の渋谷さんは言葉をなくしたようにパクパク口を開け、中腰に立ったままクライヴさんと郷中さんを交互に見つめている。
 僕が体験したことのない種類の緊張感が事務所を支配していた。
 だがそこで、ふっと郷中さんが肩をすくめて笑ってみせる。
 一気に場の空気が弛む。
「強引な方だ。……わかりました。ではこれはありがたくちょうだいさせていただきます。……ぼんも、いいですね?」
 そう言って郷中さんは武智を見る――が。
「……ぼん。……坊ちゃん」
「……、あ、ああ、なに?」
「何口を開けてぼうっとしてるんです。お礼、受け取りますがかまいませんねとお聞きしてるんです」
 武智は郷中さんの言うとおり、バカみたいに口をあんぐり開けて一点を凝視していた。
 その視線の先にあるのは……どうやらクライヴさんらしい。そう言えば武智はクライヴさんを見たくてわざわざ用もないのに僕たちについてきたんだった。
「ああ、うん、いいんじゃない」
 答えた武智は無遠慮にクライヴさんを凝視したまま、未だ心ここにあらずといった感じだ。
 武智の了承を得た郷中さんは一度頭を下げ、紙袋へ手を掛けると、手元へと引き寄せる。
 良かった。クライヴさんのお陰で僕も不義理をせずに済んだようだ。
「用は済んだな」
 その様子を眺めていたクライヴさんは組んでいた長い足を解き立ち上がると、タバコをくわえ火を付けながら出口へと向かっていく。相変わらずの他者を寄せ付けない雰囲気に、あれほどクライヴさんに興味を持っていた武智も声一つ掛けられないようで、歩き去っていくクライヴさんの後ろ姿をただただ目で追っているようだ。
 と――。
 外からパタパタとせわしない足音が聞こえてきたと思ったら、勢いよく事務所の扉が開く。
「修にぃ、もう来てるの!?」
 転がるように飛込んできたのは亮だ。
 今日は土曜で授業も午前中しかなく、午後を回ったこの時間帰宅したようだ。
 しかし勢いが付きすぎてドアの前にいたクライヴさんにぶつかってしまう。我が弟ながら本当にそそっかしくて目を離せない。
「いって! うわ、あれ? シド! ただいま! もう仕事終わり? めっずらしいの」
「昼飯後また潜る。まったくおまえはせわしないな……」
 亮は随分前から走ってきたらしく、秋だというのに額に汗を滲ませ、ぶつかったクライヴさんにすがりついたまま嬉しそうに顔を綻ばせていた。クライヴさんもそんな亮の様子に困ったように眉を寄せると、額に張り付いた前髪を指先でよけてくれている。
「だって今日久しぶりに修にぃんとこお泊まりに帰るからさ」
「ほんとにもう、亮くんはお兄ちゃん大好きね」
「ば……、ちげーよ壬沙子さん。普通だよ。ふつーに仲が良い兄弟なだけだよっ」
「うふふ。そ。」
 あれだけ緊迫していた世界が嘘のようにかき消えていた。
 アットホームな空気が辺りを支配し、僕がよく知るS&Cソムニアサービスの事務所になっている。
「まあゆっくりしてこい」
 言いながらぽんぽんと亮の頭を撫でると、咥えタバコでクライヴさんが部屋を出て行く。それを追うように亮も「あ、待って、オレも着替えにいくしっ」と声を掛け、くるりとこちらを向くと「修にぃ、ちょっと待ってて。すぐ戻ってくる。…………あれ、勝にぃ居たんだ。何その変な顔。あははは」と笑い転げながら同じく部屋を出て行った。
「あれが、亮さん、ですか。良かった……随分と元気そうだ」
 郷中さんが、ぽつりと呟く。
 そう言えば郷中さんが知っているのは滝沢の元から救出した折の意識を失った亮と――、おそらく動画の中の亮だけのはずだ。彼も彼なりに亮のことを心配していてくれたのだろう。亮を見ていた目は、先ほどクライヴさんと話していたときと同じ人物とは思えない、柔らかなものに変わっている。
「それじゃ坊ちゃん。私はお先に失礼します。ぼんと修司さんはこれから亮さんとお食事に行かれるんですよね?」
「……あ、ああ。そう、だな。郷中の顔見たら亮びびるだろうし」
「いや、驚くのはおまえの顔だぞ、武智。さっきからどうした。亮も笑うわけだ……今度は目が点になってるように見える」
 改めて武智の顔を見れば、さっきの瞳孔が開ききったような顔とは一転、黒目が小さく石ころのように縮まってしまっている。
「……そりゃこうもなるだろっ。驚いたのは俺の方だわ」
「なんのことだ……?」
「なんなんだアレはっ、どこが頭から子供バリバリ喰う系だよ、どこが握力自慢の熊五郎だよっ!」
 ここに来る前エレベーターの中で武智が語っていたことを思い出していた。そういえばこいつはクライヴさんのことをとんでもなく恐ろしい化物か何かと思っていた節がある。
「……? もしかして、クライヴさんのこと、か? それはおまえが勝手に……」
「確かに背は高いし髪は朱いし威圧感はハンパ無かったけど、そこじゃねぇだろ、まず説明するのは。先に言っとけよ、成坂。あんなん出てくると思わねーだろが!」
「えーと……、彼は何を言っているのかな? シドがどうしたって? ……もしかして頭拭きながら挨拶もせず現われて、偉そうな態度とったことを不快に思った、とか……。すいません、あれは誰に対してもああなんで……、ほんと困ったものなんです」
 見かねた渋谷さんが困惑した様子でこちらを伺ってくる。
「……そういうことじゃ、ないんすよ。……いや、まぁ、なんつうか、渋谷さんの言葉をかりるなら――頭拭きながら咥えタバコしてるだけで世の中の不公平を痛感させられたというか、そういう話なんで気にしないでください」
 ぽかんとした渋谷さんに対し、仏頂面のままそう答えると、武智はため息を吐き苦々しげに眉間を指で揉んでいる。
 僕も武智が何を言っているのか理解できず、ちらりと郷中さんを見れば、こちらはどうやら武智の言わんとしていることを理解しているようで苦笑を浮かべていた。
「それじゃ、私はこれで。車は置いていきますから、坊ちゃんと修司さんで好きに使ってください」
 郷中さんはそう言い置くと紙袋を手にし、携帯電話で誰かに車を回すよう指示しながら事務所を出て行く。
 武智はそれに片手を上げて応えると、「あー、三年分は驚いた」と今さらながらの一言を呟いていた。






「あ、そっちのイカとセロリのやつ食べたい」
「おまえセロリ炒めたのとかよく食えるなぁ。俺はそっちのエビチリくれよ」
「好き嫌いとか子供かよ勝にぃは。セロリちょーうめぇじゃん」
「いいから回せ回せ」
 行きつけの中華料理店の個室にて円卓に着いた僕たちは、少し早めの夕食を三人で取っている最中だ。
 あれから武智の運転で軽めの昼食をバーガーショップで取った後、少し足を伸ばして郊外のアウトレットモールで亮の服や日用品を買ってやり、その足でこの店へ入った流れとなっている。
 近頃は仕事が忙しく亮との時間をあまり取ってやれなかった。今日、明日は二ヶ月ぶりのオフで、ようやくゆっくり亮の顔を見ることが出来る。
 今日の亮は武智もいることもあって、いつも以上にテンションが上がっているようだ。
 ここ数日滝沢のファイルのことで塞がっていた気持ちが、亮の笑顔で癒やされていく。こんな風に笑えるようになってくれたのは、きっと事務所の人たちのおかげなのだろう。
「他に何か食べたいものはないのか? 好きなだけ頼んでいいんだぞ?」
「えーっとね、そんじゃ肉団子の甘酢あんかけ! あと、桃まんじゅうと杏仁豆腐、それからレタスチャーハン!」
「デザートの後にチャーハン?」
「んー、箸休め?」
 そういうのは箸休めとは言わないと思わず笑ってしまう。
「フカヒレとかはいいのか?」
「ふっ……フカヒレなんて超高級料理じゃん! いいよ、今日は服もいっぱい買って貰ったし、はるさめとあんまり違いもわかんねーし」
 そう言って笑う亮に、「じゃ、おまえははるさめ食ってろ。俺は違いの分かる大人だからフカヒレを食う。すいませーん、フカヒレ姿煮追加でぇ」武智が意地悪に言葉を被せ、大人げなく注文を掛ける。
「……おまえの分は払わないからな、武智」
「えええええっ!? ちょ、修にぃ、そりゃないよ、今日は修にぃの奢りだろう!? フカヒレ一万八千円どうすんだよっ」
「気持ち悪い呼び方をするな。おまえの分は給料から天引きしておくよう経理に言っておく」
「鬼だ……。修にぃ、鬼社長だ……」
 急にうなだれた武智を無視し、僕は追加注文を済ませると楽しげに笑う隣の亮へ向き直った。
「学校はどうだ? 元の七ヶ瀬に戻って何か困ったことは起きてないか?」
「うーん、まぁ一年留年しちゃってるから当然クラスは知らないヤツばっかなんだけど、上の階に俊紀もいるし、楽しくやってるよ」
「勉強はどうだ? 友達、できたか?」
「勉強は……うん、まぁ、二回目だから去年よりかはできてる、と思う。友達は……、あんま作っちゃだめってシドに言われてるし、必要なこと以外は話さないようにしてるから……」
 少し寂しげな顔をする弟に心が痛む。確かに亮は「ゲボ」という特種な種類のソムニアで、目覚めて間もないため力の制御もままならず、その特殊性のせいでトラブルに巻き込まれがちだというのは僕も知っている。
 だからクライヴさんの言うこともわからないではないのだが、学校で友達を作ることは人生においてとても大切なことであり、それを禁止されてしまうという亮の今の状況は、少し行き過ぎなのではないかとも思えてしまう。
「あ、っでもでも、いじめとかそういうのは全くないから。あんま突っ込んだ話をしないとか、一緒にいる時間を減らすとかしてるだけで、授業でペアになったりするときも近くにいたヤツがちゃんと相手してくれるし、修にぃが心配することはなんもないからっ」
 僕の表情をくみ取り、亮が慌てたようにそう付け加えた。こんな風に逆に僕のことを心配してしまう亮がいじらしく、手を伸ばし頭を撫でる。柔らかな髪の感触は小さな頃と少しも変わらない。
「そうか。それならいいんだ。……それじゃ、亮にはまだ気になる女の子もいない、のかな」
 友達も作らないようにしているのだ。きっとそんな相手もいないだろうと思いつつ、話を振ってみる。亮はまだまだ子供だ。恋を知るのは当分先のことだろう。
「えっ!? なっ、なにそれ。そんなんいるわけねーじゃん!」
 案の定、食べていたセロリ炒めを吹き出しそうになりながら真っ赤になって慌てる亮の姿がある。
 思わず笑みがこぼれる。
「だいたい、ガッコ終わったらすぐセラでシドにめっちゃしごかれる毎日だし、そんな暇もねーもん!」
「おまえ、シド・クライヴから直々に訓練受けてんのか? すげーな」
 エビチリを口いっぱい頬張りながら武智が目を丸くする。
「あいつほんと、鬼だから。実戦訓練なんて本気で毎回殺されるかと思うもん」
「え? 亮、それは……」
「あ、でもホントには殺されねーよ? 全部寸止めしてくれるから! ホントあいつ、人間じゃないくらい強いから、訓練のやり方も人間離れしてんだよな。だから、修にぃが心配することはないよ? んー、でも型を千回、二千回毎日反復練習させられるのはたまんないな。体力もたなくて死にそうってのはあるかも」
 驚いた。そういうことならわからないではないが、殺されるとは穏やかではない。
 それほど厳しい訓練を亮は毎日懸命にこなしているのか。
 じんわりと目頭が熱くなり、思わずおしぼりで手を拭く振りをして瞼を拭ってしまう。
「部屋に帰ったら風呂入ってシドと二人の晩ご飯作って、オレだけ先に食べて、って……してたら電池切れていつの間にか寝ちゃってるくらいだし。部活に燃える中学生かよ!って感じ」
「まったくおまえは。ちゃんとベッドで寝ないと風邪引くだろう」
「目覚ましたらベッドで寝てるから平気。そんときはもう横にシドも寝てるから、多分運んでくれたんだと思うけど……。シドにも毎回怒られるんだよなぁ」
 そこでなぜか武智が口からエビを噴きだしていた。
「汚いな、勝利。大人が聞いて呆れる」
 変に咽せている武智へおしぼりを放ると、亮へむかい渋い顔を作ってみせる。
「クライヴさんにあまり迷惑を掛けちゃダメだぞ。最近は彼に英語も教えて貰っているそうじゃないか。それ自体はいい事だと思うが、クライヴさんにも私生活があるだろう。朝から晩まで面倒を見て貰っていては申し訳ない。クライヴさんの彼女さんなんかにも迷惑じゃないのか?」
「へ?」
 亮が鳩が豆鉄砲を食ったような顔で素っ頓狂な声を上げた。
 僕の一言が思いも寄らないものだったようだ。やはりこの辺りの気配りのなさは、亮が子供である証拠だろう。
「おまえの体調が落ち着いているなら、兄ちゃんの所へ戻ってきてもいいんだぞ? ちゃんとおまえの部屋も作ってあるんだから」
「っ、し、シドに彼女なんていないよっ。何言ってんだよ、修にぃ」
「おまえが知らないだけだろう。クライヴさんは大人だ。おまえが不自由や遠慮を感じないように気を遣ってくださっているだけなんじゃないのか?」
「だから、シドに彼女なんかいねーの! あんな横暴なヤツ、彼女なんていたとしても続くわけねーしっ」
 さっきまであれほど楽しげに語っていたクライヴさんのことを今度は悪し様に言う亮に、僕は少し面食らってしまった。敬愛しているクライヴさんに恋人が――という仮定によほど驚いたのか、亮はびっくりするほど過剰に反応し噛みついてくる。
「……まったく……いっちょまえに嫉妬か? クライヴさんの彼女はおまえだもんな、亮」
 さっきまでエビを噴いていた武智が、おしぼりで口を拭いながら一転、ニヤニヤからかう調子でそう投げかけていた。
 何をくだらないことを言っているのか、こいつは……と、辟易し一言言ってやろうと口を開き掛けた僕だったが、その言葉が途中で止まってしまう。
 亮の顔が見る見る紅潮し、耳まで真っ赤に染まってしまったのだ。
「ば……ばっかじゃねぇの……」
 小さな声でそれだけ呟くと、亮はうつむいたまま黙って側に置かれた桃まんじゅうをもぐもぐとリスのように口の中へ詰め込んでしまう。
 クライヴさんの彼女という単語に対する過剰なまでの反応。そして今、真っ赤になってうつむき、あれほど楽しみにしていた桃まんじゅうを味わうことなく頬袋に詰め込んでしまうという行動。
 僕は愕然としながらもある仮説に行き当たる。
 弟は――、亮は、恋をしているのかも知れない。