■ 成坂修司の深き悩み・2 ■




 深夜十二時を回り、あれだけ自分もここにいるとごねていた亮も、ようやく自室で寝息を立て始めた。
 それまで亮を相手にひたすら盛り上がっていたカードゲームを片付ける武智の前に、僕は何本目かの缶ビールを置く。
「お。なんか今日はサービスいいじゃねーの」
「特別だ。今日は一日付き合ってもらったからな」
 自分も手にしたビールのプルトップを上げ、強い炭酸ののどごしを感じながら武智の向かいのソファーへ腰を落とす。
「…………」
 缶から口を離し息を吐くが、それから先言葉が出ない。
 武智はどことなく雰囲気を察しているようで、僕が口を開くのを待つかのようにのんびりビールを呷っていた。
「少し、話が……あるんだが……いいか」
 数分の沈黙を破り、僕はようやくそれだけ言った。
 武智は心得たように眉を片方上げると、「お兄ちゃんは弟の恋の心配――かな」と笑う。
「やはりおまえも……そういう印象を受けた、か……」
「印象を受けたもなにも、それ以外どうともとれないだろ」
 少々呆れたように言うと、武智はつまみの柿の種を一粒口の中へ放り込む。
「亮は……クライヴさんへ……恋愛感情をもっている、というのか?」
「相当重症だな、あれは。そもそも亮が事務所に帰ってきた時のあの様子を見りゃピンとくるだろ」
「……なんのことだ?」
「は〜っ……、おまえ……」
 武智は大袈裟にため息を吐くと、信じられないとでも言いたげに頭を抱えてみせる。が、僕にはなんのことだかまったくわからず、武智の次の言葉を待つほかない。
「亮のヤツ、ぶつかった後もシド・クライヴにくっついたままだったろ」
「それは亮は元々ああいう甘えたな所があるから……」
「俺には一回もないが? 俺の知る限り修司。俺はおまえ以外に亮があんな風に懐いているのを見たことがない」
「だからそれは僕に対してと同じく、親しい保護者として甘えているだけで――」
「その保護者のクライヴさんも怪しいもんだ」
「怪しいとはなんだ。失礼じゃないか!? 善意で一バイト従業員の亮を同居させてくださっている人に対して……」
「善意……なぁ。……亮に対してのあの甘い甘い仕草見てそう思えるおまえが不思議だよ。郷中とやり合ってたのと同じ人間とは思えない空気だったじゃねぇか。あれが朱の氷神とソムニア連中から恐れられてるイザ・ヴェルミリオか? あんな姿見りゃ俺の目も点になるわ」
「だからそれもクライヴさんが保護者として亮を可愛がってくれているからだろう」
「成坂。おまえは相談したいのか議論したいのかどっちなんだ」
 辟易したようにため息を吐かれ、僕は弱気にも「すまん」と頭を垂れる。
 頭は混乱し、背中の上に何か重しでも乗っているように疲労を感じる。
 自分の思い過ごしであってくれればと、その後の食事は喉を通らず、それ以降もずっとその事ばかり考えていた。きちんと確認せねばと思うのに、あれから一度も亮に対してクライヴさんの話題を振ることができなかった。
 亮はまだ子供だ。まだ十六歳だ。もちろん高校生ともなれば恋の一つもするだろうが、それはクラスメイトの女の子や部活動の女の子、若い女性の先生に対してであって、一回りも違う同性相手では決してない。
 全てが僕の想定の遙か外の話であり、僕の頭は乱れた心に引っ張られ、何一つまともに機能していなかった。
「ま……気持ちはわかるが。おまえはこと色恋沙汰に関しては至ってノーマル且つ淡泊な人間だからな。高校・大学と、告られた可愛い子相手に適当に付き合ってきただけのおまえには理解不能な話かもしれん」
「僕の話は関係ない。今は亮の恋愛感情についての相談で……」
「そもそも相談したいってさっきから言ってるけどよ、成坂。おまえは何をどうしようってんだ。あれはもう完全に成り立ってんじゃねーか?」
「……は? おまえは、何を言っている」
 武智の言う言葉の何一つ、僕には理解できなかった。
 完全に成り立っている――とは、どういうことなのか。なにが、完全に成り立っているというのか。
 僕がそのまま何も言わないのをどう受けたのか、武智は何度か眉間の筋肉を指先でほぐす仕草をすると僕の方を向き、言葉を選ぶように続けた。
「亮がシド・クライヴを好ましく思ってることは、わかるな? そしてシド・クライヴも、亮のことを大事に思ってる」
「おまえはバカにしているのか。そんなのは当たり前のことだろう? そうでなくては亮はクライヴさんのところになどいないし、クライヴさんも亮を自分の部屋に住まわせたりはしない」
「じゃあ次だ。亮はシド・クライヴに恋愛感情を持っている」
「ああ。だからそれを今相談しようとしているわけで――」
「亮だけじゃない。シド・クライヴも――多分同じように亮を見てるはずだ」
「…………」
 僕の戸惑いなどわかっていたことのように無視し、武智は続けた。
 僕の手の中で冷たかったビール缶は徐々に冷気を失っていく。
「つまり二人はもうデキあがってるってことだ」
 笑うでもなく、冗談めかすでもなく、しごく真面目な顔でそう言い切った武智は、手の中のビールに一口ゆっくりと口を付ける。
 僕は言葉を失い、いや――息をすることさえ忘れ、その武智の動作をぼんやりと見つめた後、失った酸素を飲み込むように、一つ大きく息を吸い込む。
 冷静さを保っているつもりだった。
 だが、継いだ言葉は僅かにかすれる。
「そんなこと、あるはずが……」
「ないって? ……成坂。俺に言わせりゃおまえの脳天気な考えの方がないな。あれは完全にそういう関係」
「ばかなっ! おまえは何を根拠にそんなことを言ってるんだ!」
「しーっ、しーっ、声がでかい! 亮が起きちまうだろっ」
 武智が慌てたように人差し指を口に当て、ちらりと亮の部屋の扉を眺める。
 僕は混乱しきった頭の中をどうにか整えようと目を閉じ、額をつかんでこめかみの辺りを押していた。
「すまない……。だが、その考えは突飛すぎる」
「どこが突飛だ? だって亮とクライヴさんは一緒のベッドに寝てるんだろ? そんなのやることは一つだろうが」
「お、おまえはすぐそうやって邪な目で物を見る! あれはクライヴさんの所のベッドが元々大きく、部屋に他のベッドが入らないから仕方なくしていることで、僕だってあの状況なら亮を横に寝かせるっ」
「おまえは兄貴だろうが。クライヴさんは兄貴でなく、男――だ」
「…………。亮、だって、男の子だ……」
「それで今の状況……だな」
 武智の言葉に、耳まで赤く染めうつむいてしまった亮の様子が脳裏に蘇る。
 本当に武智の言うとおりなのだろうか。
 事態は僕の心配した事項などとっくに通り越し、もっと先へ――僕が考えもしなかった状況へ進んでいるというのだろうか。
「確かに……辛い時期、頼りになり一緒にいてくれたクライヴさんへ、亮は微かな恋心に似たものを抱いているのかも知れない。だが――亮はゲイじゃない。幼い頃から好きになるのはちゃんと女の子だった。亮の今の感情は、ソムニアという新しい環境の中、ゲボという特種な立場に置かれたことによる、辛さや不安、怯え――。それらから救い出してくれる唯一の相手へのすがりつき行為に過ぎないんじゃないのか?」
「助けてくれるなら相手がシド・クライヴじゃなくても同じような感情を持ったと?」
「……そうだ。そしてそれは決して純粋な恋愛じゃない」
 亮はきっと勘違いをしているだけなのだ。
 自分を救ってくれるヒーローに憧れを持つのは少年期にはよくあることだ。亮はそれにプラスしてGMD治療という特種な状況により、クライヴさんとの肉体的な接触を多く持ってしまっている。それがこんなおかしな錯覚を生み出しているのだ。
 僕のその考えを語って聞かせると、武智は少し考えるように目を閉じこう告げた。
「なあ、成坂。強くて格好いい自分だけのヒーローに優しくされる……。そりゃ好きになっちまうよ。それが普通の恋ってもんなんじゃねぇのか? 純粋な恋愛なんてねーし、……そもそもあんなもんは錯覚から始まる」
「おまえは、どうしてもそういう風に話を持って行きたいんだな!」
「そういうおまえは、どうなんだ。『安心しろ、亮はシド・クライヴに憧れているだけだし、シド・クライヴも亮を保護者として可愛がっているだけだ。万が一亮が告ってもクライヴに軽くあしらわれて、十日もすれば亮の目も覚めるさ』……とでも言って欲しいのか?」
「……それは……」
 そう口に出されてみると、その言葉はやけに白々しく、現実味がないように思える。
「目を逸らしても事実は変わらねーぞ」
 こちらを見る武智の目はいつになく真剣だった。決してこの状況を茶化しているのではないのだ。
「なぁ、成坂。もしかしておまえ、薄々は感づいていたんじゃないのか? あれだけ亮をきちんと見ているおまえだ。こんなわかりやすいこと気づかないはずがない。認めたくない現実に目を閉じていただけなんじゃないのか?」
「そんなことは……っ」
 言い掛けて口を閉じる。僕は、武智の言うように現実から目を背けていただけなのだろうか。本当は亮の気持ちなどとっくの昔に気づいていたのに、そうであって欲しくない――その願望から自分自身に目隠しをし、ねじ曲げた安心できる現実を真実のように受け取っていただけなのか。
 黙り込んだ僕に対し、武智は静かな口調のまま続ける。
「けどよ、それは……亮から幸せな顔を取り上げたくなくて、今の亮の生活を守りたくて、感覚に蓋をしてたってことでもあるはずだ」
「…………」
「だからこそ見て見ぬふりをおまえは続けてきた。なら話は簡単じゃねぇか。今のまま知らないふりをしてやればいいんだ」
「……それは、………………できない」
「成坂……」
 僕は顔を上げる。
 もしそうだとしても。武智の言うように亮の幸せな顔を奪いたくなくて、僕が気づかないうちに自分で目を塞いでいたのだとしても、意識の上に問題が浮上してきてしまった今、昨日までのようにそれを看過することはできない。
 僕は兄として、本当の意味で亮の幸せを守らなくてはいけないのだから。
「もしそうなら……。おまえのいうことが全て正しく、亮とクライヴさんがそういう意味で今後付き合っていくというのなら……僕は反対だ。そんな関係は、亮を不幸にするだけだ」
 沈黙が落ち、遠くから聞こえる車の走行音ばかりがやけに大きく部屋の隅に聞こえていた。
「……そうか。で? それを……亮に言うのか。シド・クライヴとの交際は反対だって」
「…………」
 不意に問われた問題に、僕は再び口を閉じた。
 確かに今し方、僕の中で一つの結論が出た。だがそれをどのように亮に伝えるのか。いつ伝えるのか。いや、そもそも亮本人の気持ちを――事実を――確認することさえ僕にはすぐにはできそうにない。
 亮の口から直接そんな事態を聞くことになれば、僕は平静を保っていられるかどうかすらわからない。
 亮を傷つけず――、たとえそれが無理だったとしても極力最小限の傷だけで、亮を本来の幸せな人生へ戻してやらねばならないというのに、僕が感情的になってしまってはどうしようもない。
 酷く喉が渇き、ぬるくなったビールに口を付ける。
「伝え方は今から考える。だが早急に事態を解決しなければならないことはわかっているからな」
「なるほど。お兄ちゃんは弟の恋愛に反対――てのは確定事項なんだな」
「当たり前だ。で、相談の続きだが……おまえならどういうタイミングでそれを切り出……」
「待て待て待て。勝手に先に進むなよ。相談っつっといて俺の話ぜんぜん聞いてねーじゃんかよ」
「なに?」
 僕が真剣に話を進めているというのに、武智は妙な笑い顔を作ると僕の言葉を遮り、勝手にキッチンの冷蔵庫からビールを取り出してくると、再びどかりとソファーに腰を下ろす。ぷしゅりとプルトップを引き上げる音がやけに景気よく響いていた。
「おまえがそういう立場に立つなら俺は――さ。亮にとっての弁護士側にまわってやることにすっかな」
「……弁護士?」
 武智の言っている意味が分からず、僕はじっと武智の顔を見た。
 柿の種をひとつかみ口に放り込んだ武智は、いつもの気安い笑顔を向ける。
「だって不公平だろ、本人達がいない欠席裁判じゃ。それに……おまえの判断が一方向に偏らないようにしてやろうと思ってな。おまえは検事兼裁判官なんだろうし」
「裁判官だなんて、そんな言い方はやめてくれ」
 顔をしかめた僕に対し、武智はいいからいいからと勝手に先を続ける。
「はい、検事。俺は悪くねぇと思うんだ。亮の相手がシド・クライヴだっていうのは」
「またおまえはそんな無責任なことを! 常識的にものを考えれば相手がソムニアで同性だなんて、恋愛としては障害が多すぎる。亮は元々ノーマルだし、かわいいお嫁さんをもらって幸せになる権利があるだろうっ!」
「確かにノーマルな恋愛よりは一般的には障害が多いかもしれねぇ。けどよ。ソムニアの世界では同性同士の恋愛ってのはごく普通らしいぜ? なんつっても何度も生まれ変わるんだ。子供を作る必要性もあいつらはあまり感じないそうだ。考えてみりゃ、子供ができたとしても生まれ変わったときにはもうその子はいない可能性も大きいわけだし、自分自身が何度もこの世界に現われるんだ。子孫を残すって本能がなくなっちまっても無理はない」
「それは何世代も生まれ変わった後のソムニアの話じゃないのか。亮はまだ一度も転生などしていない普通の人間だ。ソムニアよりも僕らと同じ一般人の感性を持ちあわせていると思った方がいい」
「ち。相変わらずああ言えばこう言うなぁ。……確かにその点に関しちゃ亮はまだそうかもしれねぇ。けど、ソムニアにとって重要なパートナー選びの基準は性別よりも、ソムニアか普通の人間か――ってことは事実だ。一般人の女性と恋愛して幸せに暮らしたとしても、相手は死ねばそれで終わり。自分だけはまたこの世界に生まれてきちまう。本気で好きであればあるほどそれは耐えられない辛さになるだろう。亮にそんな辛い別れを経験させるよりは、ソムニアであるシド・クライヴとの付き合いを認めてやる方があいつのためなんじゃないのか?」
「ソムニアが良いというのであれば、別段クライヴさんでなくともいいはずだ。亮にはまだまだこれからソムニアの女性との出会いもあるだろう。急ぐ問題じゃない」
「亮がゲボだってこと、忘れてねぇだろうな。亮は色んなヤツに狙われてるんだろ? 亮の血はソムニアにとっちゃ垂涎の品で、亮自身も欲望の対象だ。ちょっと気を抜きゃIICRすら連れて行こうとする。そんな亮をいくらソムニアだからって、そんじょそこらの可愛いお嫁さん候補が守ってくれると思うか!?」
「っ、それは……」
 僕の言葉が止まり、武智が笑みを強める。
 その点で言えばクライヴさんはこれ以上ない慎重さで亮を守ってくれている。IICRから亮を取り戻す時は、僕に想像も付かないルートと力で根気よく働きかけてくれた。
 それに関しては感謝してもしきれない思いはあるし、僕も彼を篤く信頼している。
 だが――それとこれとは話が別だ。
「彼は僕に『保護者として』亮を預かっていると公言している。保護者と恋愛対象が同じでいいはずがない! クライヴさんはあくまで亮が一人前になるまでの『守護者』であり『指導者』だ。亮がきちんと大人の恋愛が出来る年頃になれば、亮も自分の身を自分で守れる強さを身につけてくれているはずだ。そのためクライヴさんは亮に訓練をつけてくれているし、亮は毎日それに耐えて頑張っているんだからな」
「うっ」
 今度は武智が言葉を詰まらせる番だった。
 亮専属の弁護士は、しばし沈黙し柿の種を無造作に口に放り込むとバリバリかみ砕きビールで流し込む。
「だ、だけどよ。普通考えればただの『バイト』でここ一年知り合ったばかりのただの『生徒』を、全力で命掛けて守れって、それはおまえのエゴじゃないのか、成坂。亮が一人前になるまであと何年かかるかわかんねーだろうが。二十歳になるまでって考えたってあと四年近くある。ただのバイトで弟子を四年もあらゆる外敵から守り切らせて、その上一人前になるための訓練着けろって、そんなこと常識的に考えてありえないだろうが」
「その為にいくらでも払うと僕は言っているし、生活費には随分と多い額を月々きちんとS&Cソムニアサービスに振り込んでもいる」
「え。いくら払ってるんだよ」
 他に漏らすつもりの無かった話をつい口にしてしまいしまったと思ったが、こうなっては仕方がない。武智を説き伏せるためにも僕はここ一年払い続けている金額について武智に明かしていた。
「…………おまえそれ……、役員報酬ほとんどじゃねぇか。渋谷秋人ってのは天才ギークじゃなくて守銭奴ギークだな、おい」
「実際問題、亮に金がかかるのは事実だからな。GMD治療のための薬代だけで考えても相当な額のはずだ。それも加味した上で、僕は相手の言い値をきちんと払い込んでいる」
「……それは……まぁ、わかるが……。っ、けどよ。金の問題じゃねぇだろ。ソムニアがIICRに楯突くってのがどういうことか、おまえわかってんのか? あいつらの濃くてドロドロした何百年もの歴史知っててそれを任せてるんだとしたら、おまえも相当な面の皮だぜ!?」
「それに見合うだけの報酬は払っているつもりだ」
「……知っててやってんのか。おまえも……亮のこととなるとおっそろしいな…………」
 武智はげっそりと口角を落とす。
 IICRやソムニアについては歴史を含め、政治、経済、慣習、――全て勉強済みだ。もちろん、正規のルートで手に入らない資料を読むことは難しいため、武智の得意とする裏事情など知らないことも多いが、今言われたことくらいならば理解している。
 武智の言うとおり、一ソムニアがIICRへ一人の人間を守るために反旗を翻すなどあり得る話ではないのだろう。だが、亮に関してはそうしてもらわねば困る。その為になら僕はなんだってするし、金だっていくらでも積むだろう。
「僕の勝ちか、弁護人。道理を考えれば必然的にこの結果になる。クライヴさんにはあくまで保護者として働いて貰う。亮との不純交際は禁止だ」
 僕の言葉に武智はしばし考える素振りを示したが、諦めたように肩をすくめた。
「亮には悪いが、俺にはやっぱこういうディベートみたいなの、向いてなかったわ……」
「おまえが真剣に亮のことを考えてくれてることは、ほんと感謝するよ」
 どうやらようやく観念したらしい。ぼすりとソファーの背へ身体を預けた武智は天井を仰ぎ見る。
 僕の口からも安堵の息が漏れた。
 が――。
「けどなぁ……。俺はホントにこの話アリだと思ったんだけどなぁ……」
「まだ言うのか。往生際が悪いぞ、武智」
「だってよ。あのシド・クライヴだぜ!? 朱の氷神なんてソムニア連中から恐れられてる、元カラークラウンなんだぜ!? もし本気であの男が亮をずっと守ってくれるってなら、これほどの適任者がいるとは俺には思えねぇんだよなぁ。IICRにも顔が利くが、IICRに絶対的忠誠を誓ってるような普通のソムニアじゃない。裏方面でも幅を利かせてて腕っ節は言わずもがな。亮が一人前になるまでなんて欲のねぇこと言わねぇで、これから先、ずっと――それこそ転生した後も守ってくれるならそれに越したことはねぇじゃねぇか」
「っ、勝利、だからそれは――」
「おまえだっていずれ死ぬんだぜ? 修司。俺たちはただの人間だ。いつまでも亮を見守ってはいられない。けどあいつの人生は俺たちが消えた後もずっと続いていく。託せる相手がいれば俺なら安心できると思うんだがなぁ……」
 僕を説き伏せる素振りではなかった。武智はしみじみ自分自身の考えを噛みしめるように目を閉じている。
「まぁでも――今のあの男は妙にストイックに見えるが、何世代か前はブイブイ言わせてたって話だ。そりゃあの顔、あのスタイルだ。黙ってても女が……場合に寄っちゃ男ですら寄ってくるだろ。俺だって昨日初めてあいつの顔見てぶっ飛んだからな。何世代も生きていくうちソムニアってのは見た目もいいように変わっていくもんなのかね」
「……何の話をしてる」
「だから――今はシド・クライヴも亮を可愛がってくれてるみたいだが、それがいつまでも続くわけじゃないって話だ。それこそおまえの言うように亮が一人前になるまで――四年もてばいいとこじゃねぇかな、いくら金積まれても。おまえがそうヤキモキしなくても、いい女でもできればクライヴの方から離れていくかもな」
「…………」
「良く考えてみりゃ、そもそも今のシド・クライヴの気持ちや状況も俺らの想像に過ぎねぇわけだし。おまえの心配するような真剣交際ってわけでもないかもしれねぇし」
「どういう……意味だ」
 話が妙な方向に流れ始め、僕の気持ちは再び乱れだす。武智は僕の感情を知ってか知らずか、いつも通りのへらりとした笑みを浮かべて残ったビールを全て喉に流し込んだ。
「いや、だからちょっとつまみ食いしてるだけかもしんねぇってこと」
 言いながら柿の種を一粒掲げ、ぱくりと口の中に放り込む。
「それならおまえが心配するほどのことじゃねぇだろ。亮が一人前になる頃にはそれぞれ別の人生歩んでるさ」
 きんと耳鳴りがした。
 どうやら僕は相当頭に血が上っているらしい。
「…………帰れ」
「へ?」
 きょとんと呆けた顔でこちらを見た武智の目はとろりと半眼になっている。どうやら相当酔いが回ってきていたらしい。
「もういい。おまえのような酔っぱらいに相談した僕がバカだった。帰れ、馬鹿者」
「おい、ちょ……、そりゃないって、もう終電ねーし、せめてトイレ貸してくれよ。ビール何本あけたと思ってんだ……」
「知るか! 人の家の酒を散々飲み散らかした上に下水料金まで払わせる気か」
「下水……って、おまえ一部上場企業の社長だろ!? なんだそのせせこましさは! ちょ、いてて、くそっ、細い身体でなんだっておまえそんな力つえぇんだよっ」
 必死に抗う筋肉質な身体を僕は強引に立ち上がらせると、ぐずる武智を引きずり、玄関の外に蹴り出していた。
「タクシーくらいは呼べるだろう。ここで寝るんじゃないぞ、近所迷惑だからな」
「なんだよっ、何怒ってんだよっ! 今日は泊めてくれるんじゃなかったのか!? なぁ、おい、ちょっと、しゅーじ……」
 扉を閉めると防音効果の高い我が家の玄関が、腹立たしい友人の声をかき消してくれる。
 一息吐くと、僕は顔を上げる。
 明日は亮とゆっくりする予定だったが――、一つ、重大な要件ができてしまったようだ。
「つまみ食い……だと……?」
 ぴきぴきと額の血管が脈打つ。
 そんな可能性は考えたこともなかった。
 うちの亮に対してそんな『ちょっとつまむ』などという軽薄な行為をするものがいるなど、想像すらしたことがなかったからだ。
 クライヴさんは一体どういうつもりなのか――。
 全ては明日、だ。






「ええっ、今日は一日ゆっくりできるって言ったじゃん!」
 朝食の席で亮は不機嫌そうに眉を寄せると、ぷうっと膨れてみせる。
 それでも手にしたトーストにマーマレードを塗るのを止めないところが、朝からお腹を空かせている欠食児童のようで微笑んでしまう。
 僕は入れ立てのミルクココアを亮の横に置きながら、ごめんなと柔らかな髪を撫でていた。
「急に仕事が入っちゃったんだ。昼までには戻るから、それまでお留守番しててくれるか?」
「うん、いいけど……。いいのか? オレ、ここに居て。修にぃ忙しいなら、‘おうちで映画鑑賞大会’すんのまた今度でもいいし、オレ今日は事務所に戻っても……」
「いいんだ。ちょっとしたトラブルだからすぐに済む。それに帰ってきたとき亮がいないと兄ちゃん寂しいぞ。亮、待っててくれないのか?」
 僕が眉を曇らせると、途端に亮は首をぶんぶん振り、焦った様子で僕の顔を見上げる。
 黒く大きな瞳がくるんと光って、困ったように僕を映していた。
「待ってるよ! 待ってるってば! ばっか、そんな顔すんなよ修にぃ」
「ん、良かった」
 そっと亮の頬に手を添え上向かせると、僕は亮のさらりとした前髪へキスを落とす。
 トーストを手にしたまま弟はくすぐったそうに笑った。
「ったく、甘えん坊だな、修にぃは。しょうがねーから、オレが昼ご飯作って待っててやるよ。何食べたい?」
「そうだな。久しぶりに亮のオムライスが食べたいかな」
「よっし。オムライスな。となるとフワフワ玉子バージョンか。久々だから気合い入れねーと……」
「久々? 最近はあまり作らないのか? おまえも好きだったろ、フワフワオムライス」
「うん、好き。でもシドは薄焼き玉子バージョンが好きだから、ここのところそっちばっかだったしなぁ」
 なんということだ。
 クライヴさんは亮のオムライスの好みまで制限していると言うのか。
 これは事態は相当に根深いと言わざるを得ない。
「ん? どした? 修にぃ。そんな顔して。おなかでも痛いのか?」
「あ、いや……、なんでもない」
 いけない。僕としたことが亮の前で顔に憂慮が出てしまっていたらしい。何はなくともまず亮には余計な心配を掛けないようにしなくては。
「それじゃ兄ちゃんは出かけるから、戸締まりはしっかりするんだぞ? 兄ちゃん以外の人が来ても絶対にドアを開けちゃダメだ。宅配の人は宅配ボックスに荷物を入れるよう言ってあるから、もしそんなことを言う人が来ても鍵を開けるなよ? それから、神様のお話をみたいな人は当然ダメだ。水道の工事も、電気の工事も、ガスの工事もテレビのアンテナ工事も何もないから、そんなことを言う人が来ても……」
「あーもー、わかってるよ! オレだって子供じゃないんだからそのくらいの対応はできるって」
「それはそうだが……、あ、それからうちの会社の人間と名乗る人間が来ても絶対に……」
「わかったわかった! 絶対開けないよ!」
「うん。ならいい」
 亮は「はぁ〜っ」とこれ見よがしにため息を吐くと手にしたままだったマーマレードトーストを置き、背伸びをするように僕の首を抱き寄せる。何事かと、亮のしたいようにさせていると、
「よしよし。大丈夫だから心配しないで用事済ませてきて、兄ちゃん」
 頬をすり寄せ言い聞かせるように、抱き寄せた僕の頭を亮は優しく撫でていた。
 これではどちらが兄だかわからない。
 嬉しいような、切ないような、不思議な微笑が僕の口元に零れてしまう。
「なるべく早く戻る」
「ん。いってらっしゃい」
 そのまま亮の頬にキスを落とし髪を撫でると、僕は身支度を調え部屋を出た。
 決戦だ。
 相手はおそらく僕などの何倍も長く生きている百戦錬磨の人間だ。
 腕っ節のみならず、おそらく口での言い争いとて向こうに分があるに違いない。
 だがだからといって僕は負けるわけにはいかないのだ。
 相手に言いくるめられないよう細心の注意を払い真実を探り、そして事態が事態ならこちらの言い分を飲ませなくてはならない。
「亮……。兄ちゃんがんばるからな」
 車に乗り込むとエンジンを作動させる。
 僕はよく晴れた早朝の都内を、一路S&Cソムニアサービスに向け走り出していた。





 閉じられた扉に鍵を掛け、亮はふっと息を吐く。
「ったく……修にぃの心配性にも困ったもんだ。三匹の子ヤギのお母さんかよ」
 午前中、ほんの数時間家を空けるだけだというのにこの騒ぎだ。とても高校一年生(二回目)男子に対する対応とは思えない。
 しかし亮にはそれを強く諫めることもできなかった。
 なぜなら修司のこの心配性はおそらく一年数ヶ月前のあの日――、自分たちのマンションで起きたあの事件のせいだとわかっているから。
 修司が海外出張に出かけたあの日、熱を出して寝込んでいた亮に襲いかかった出来事。亮の人生を大きく変えてしまったその事件以来、修司の心配性は拍車を掛け、それと比例するようにスキンシップや愛情表現も大袈裟なものとなっている。
 ことあるごとに抱きしめられ、額や頬に優しいキスを落とされる。もちろん嫌なわけはないが、なんともくすぐったく気恥ずかしい感じがするのも事実だ。二人きりの時はまだしも、人前でも当たり前のように為される愛情表現に、ついつい亮も「外人かよ!」なんて照れ隠しの抗議を上げたりすることもあるほどだ。
「オレが……心配かけちゃってんだよな」
 ポツリと呟くと、大仰なため息が口を突いて零れる。
「はぁ〜っ、早く強くならねーとっ。修にぃが心配しなくてもいいくらいさ……」
 むんっと拳を握りしめると亮は決意も新たに天を仰ぎ、手始めに屈強な肉体を作るべく朝食摂取の続きに取りかかることにした。
 若干冷めて固くなったトーストを頬張り、ゆで卵にかぶりつきながら、行儀悪くテレビのザッピングを行っていると、不意にリビングテーブルの上からくぐもった音が響いてくる。
「?」
 なんだろうと足を向ければ、そこには一台のスマートフォンが何者かからの着信を知らせるため、機体を震わせていた。
「修にぃ、仕事なのにケータイ忘れてったのかよ。ったく……」
 言い掛けてよく見れば、それは修司が二台持っているうちの一台――プライベート用の電話だということに気づく。
 表示されている名前を見ると、着信相手は修司の秘書である山下さんらしい。
「……どうしよ」
 玄関は開けるなと言われたが、電話に出るなとは言われていない。
 何より、プライベート用の携帯に会社の人から電話が来るなど、もしかしたら緊急の要件なのかも知れない。
 意を決すると、亮はそれを手に取り通話をタップしていた。
「えと、もしもし、山下さん? すいません、今、修司は出てまして、もうすぐ会社に着くんじゃないかと……」
 とにかく今兄は不在で、ちゃんと仕事に向かったことを伝えなくてはならない。
「電話なら会社用の方へしてもらえれば出ると思いますんで……」
「……亮か。…………おまえ、修司の家にいるのか」
 帰ってきた応えは亮の想像していたどれとも違っていた。
 なにより、その声は山下の若い声ではない。
 山下よりよく知る声。低く重厚感のあるその声は威厳に満ち、しかし少し掠れた感じは電話の主が疲れていることを如実に示していた。
 亮の心臓が一度、大きくギクンと跳ね、呼吸が止まる。
 全身の血潮が一気に下がり始め、手足が死人のように冷えていく。
「……父さ……ん、……なんで」
 自分ではない誰かが喋っているように、聞こえた。世界中の音が――自分の声さえも全体的に遠く彼方から響いてくるようだからだ。
 瞬間的に口の中がからからになり、喉の奥が引き攣る感じがする。
「なぜだと? 父が実の息子に電話を掛けるのに理由がいるか? おまえはそれすら私に規制するというのか」
「っ……、ちが、そうじゃ、なくて……」
「ふん……。おまえのお陰で私は修司に憎まれていてな。私の番号では電話をとってもくれなくなった。こんな姑息な手段を使わねば息子に連絡も取れない。不便なものだろう?」
 亮の耳元で、自嘲に満ちた笑いが聞こえる。
 亮の知る父は、こんな笑い方をする人間ではなかった。
 もっと自信に溢れ、鷹揚で、強い――そんな正の力が湧出すような人だった。
 亮は母の諒子に連れられ初めて会った日から、この人の父としての力強さに憧れたのだ。
 諒子のいた頃は父も亮を可愛がってくれた。
 厳しい人間だったが、笑顔を向け、頭を撫でてくれることもあった。
 大きなその手と優しい眼差しに、父を知らない亮はドキドキと胸が高鳴ったのを覚えている。
 しかしそんな日も長くは続かず――諒子が消えてからの父には、一度たりとも暖かい眼差しをもらうことがなかった。
 きっと父は諒子を――母を愛していたんだろうと、幼いながらに亮は感じていた。
 だから哀しくて、自分に辛くあたるんだろうと、そう理解していた。
 幼い亮は「オレだって哀しいのに」と何度も心の中で呟いたが、それでもそれを口にすることはできなかった。そんなことを聞かれれば、おそらく父は諒子を罵倒し、亮を殴るに違いないと本能的に悟っていたからだ。
 憧れだった父の存在は、いつの間にか亮にとって畏れの象徴へと変わっていた。
 滝沢の事件以降、修司が父と決別し、プライベートでだけでなく仕事の上でも父親を排斥したと聞いたのは、亮がセブンスから戻ってしばらく経ってのことだった。
 まだ年若い修司がどうやってワンマン社長であった父を追い落とし、自らが社長の座に着いたのか――亮には想像することもできなかったが、きっと成坂の家だけではすまない、会社を挙げての争いがあったのだろうことだけはなんとなくわかる。
 今、父は会社において『相談役』という名の役職についているという。
 組織内体系では社長の上に位置してはいるが、実質名ばかりの閑職で、現在の父は出社する必要すらない完全な隠居生活を送らされているらしい。
 らしい――というのは、それは修司に直接聞いたことではなく、武智からわずかな情報を引き出したにすぎないからだ。
 会社でのことも成坂の家のことも――、修司は何も亮に語らない。
 亮に何も語らないと言うことは、修司にとってそれが辛く苦いものだったということなのだ。
 修司は自分の苦しいことは、何一つ亮に語ったりしないから――。
「なぜおまえがそこにいる。――まさか、あの何とか言う事務所を追い出されて、また修司の元へ戻ってきたんじゃあるまいな」
「……ォレ、は……、ただ、……」
 ただ一日戻ってきただけで、ここで暮らしているわけじゃない。
 そう言おうとしたが、声が出ない。
 ただ、病気のように身体がブルブルと震え、呼吸が細く速くなる。
「たとえ今いる場所を追い出されたとしても、もう修司に付きまとうのはやめろ。これ以上私たち親子の関係を壊すつもりなのか!?」
「と……さ……」
「よせっ、二度と私を父と呼ぶな、気色の悪い! 今すぐそこを出て行け、疫病神が」
 ぷつりと音を立て、電話は切られていた。
 亮の手から端末が滑り落ち、ソファーの上にバウンドして床に落ちる。
「…………」
 それを夢遊病患者のように目で追った亮は、のろのろと屈み込むと拾い上げ、もとあったテーブルへと置く。
 手も足も、氷のように冷たかった。
「…………はは、あは。セーフ」
 携帯、直接床に落とさなくて良かった。不幸中の幸いだ。ラッキー、ラッキー。――頭の中でそう喋ってみると、口元に笑みが浮かんだ。
 笑えるなら大丈夫だ、と思った。
 父親に良く思われていないことなど、ずっと前からわかっていたことじゃないかと改めて自分に言い聞かせる。
 今さら何を言われたって、平気だ。
 今はいきなり父さんが電話してきて、少しびっくりしてるだけなんだ。――そう自分の中の整理をつけ、気合いを入れるようにパンパンと二度両手で頬を叩くと深呼吸をする。
「そだ、ごはん、食べないと。片付けて、昼ご飯の用意、しないと」
 耳の奥に水でも入ったように、ずっと音がぼやけて聞こえる。
 つけっぱなしのテレビの音も何を言っているのか聞き取れず、自分が喋った声ですら、どこか遠くの世界の音のようだ。
 がくんと亮の膝から力が抜けていた。
「あれ……?」
 どうしたんだろうと力を入れてみるが、亮の身体は糸の切れた人形のようにフローリングの床に座り込み、立ち上がることが出来ない。
 これは自分の考えていた以上にショックを受けてしまったんだと、亮は諦めたように天井を見上げていた。
 しかし、出て行けと言われて飛び出していくほど、もう亮も幼くはない。自分の勝手な行動が回りにどれだけ迷惑を掛けるのか、いやというほどわかってしまっている。
 このたった一年という短い期間での経験が、亮を無理矢理大人に変えてしまっていた。
 それに――。と思う。
「……待ってるって、言ったから」
 修司に待っていると約束したのだ。もう、修司との約束を破りたくはない。
 一年前のあの日、修司を出張へ送り出した日。亮は修司に待っていると約束したのだ。だがその約束は守られず、今も亮は修司を一人にしたまま事務所で暮らすこととなってしまっている。
 だからせめて、これからする修司との約束は全部守りたい。
 父親になんと思われようと、どう言われようと、修司が哀しい顔をするようなことは絶対にしたくない。
「強くなんだろ、オレっ」
 呟いた声は若干かすれていたが、弱々しくはなかった。
 まだ、身体は言うことを聞きそうにないが、それでも立ち上がろうと力を込める。
 修司に心配だけはかけないようにしなくてはいけない。
 今日、父と電話で話してしまったことは内緒にしておこうと、亮は心に決めていた。