■ 成坂修司の深き悩み・3 ■ |
僕が事務所近くの駐車場へ車を入れ渋谷さんの都合を伺うため電話を入れたときには、もうすでにS&Cソムニアサービスはオープンの準備を始めているようだった。 事務所の開店は朝十時からであり、朝一番に来る客は稀だという情報を事前に皆南さんより聞いていた僕は、てっきり早朝八時という時間であれば渋谷さんのプライベートな時間におじゃまできると踏んでいたのだが、ソムニア業というものは意外にも事前準備に時間が掛かるものなのかも知れない。 仕事中であるなら手が空いたときまで待つと伝えたが、渋谷さんが構わないと仰ってくださったので、僕はその足で事務所へ赴く。 五分後――事務所の扉を開けると、渋谷さんは鼻歌交じりでデスクの拭き掃除をしているところであった。 「あ、修司さん、いらっしゃい。どうしたんです? こんな朝早くお話って――?」 僕は一礼し、どう切り出したものかと言葉を選びながらデスク前へと歩んでいく。 「……あ、あの、修司さん?」 渋谷さんはそんな僕の顔をじっと眺めると、掃除の手を止め、なぜか額に汗を滲ませながら笑顔で後ずさっていた。 「えーと、今月の亮くん生活費の請求書の件でしたら、その、小麦粉や野菜、燃料費の高騰が原因でして、そそ、それに伴った医療費、人件費などもですね――」 「? 亮の生活費はもう今月も振り込み済みですが」 「……え? 生活費値上げについてのお話じゃ、ない。……となるとそんな恐い顔で、どういったご用件で……」 そう言われて思わず眉をしかめる。 僕はそんなに恐い顔をしているのだろうか。 「っ、あ、あ、そうですね。今、コーヒー入ったとこなんで、まずは一息入れて……」 渋谷さんはますます焦ったようにそう言い募ると、ギクシャクとした様子でキッチンカウンターへと向かっていき、すぐに入れ立てのコーヒーを二つ手にし戻ってくる。 早朝の空気に良い香りが漂い始める。渋谷さんはコーヒー通と伺っているのできっとこれもこだわりの美味しい一杯なのだろう。だが今日の僕にはそれを味わう余裕もなく、リラックスした雰囲気でものを語れる自信もなかった。 「本当に、おかまいなく。それよりも早急に確認したいことがあります。――ここへ、座っていただけますか」 「は、はい……」 僕がそうお願いすると渋谷さんは手にしたカップをテーブルに置き、応接セットの二人がけソファーへそろそろと腰を落としてくれる。僕も向かいのソファーへ腰を下ろすと、ぐっと前のめりになり渋谷さんの目を見る。 「お忙しい朝の時間をとっていただき、申し訳ありません」 「いえそれは全然。僕が好きで早くから事務所に詰めているだけですから。……あ、コーヒーどうぞ」 渋谷さんは湯気を立てる一杯を勧めてくれながら、自分もカップを持ち上げ香りを確認すると口を付ける。 「それで、あの……、お金のこと以外で確認したいこと……というのは……?」 「…………こういったことを渋谷さんにお伺いするのは間違っているのかも知れない。ですが――まずは事務所の社長でもあるあなたにお話をと思ったので」 「……はぁ」 要領を得ないと言った様子で、渋谷さんは首を傾げている。 ダメだ。もっとしっかりしなくては。 仕事柄ついつい僕は婉曲な言い回しをしがちになってしまう。それではこの問題は解決しないのだと、自分自身に喝を入れ、僕は瞳に力を込める。 「…………クライヴさんのことなんですが」 「え? あ、はい。シドが何か――」 「現在お付き合いされている女性の方はいらっしゃるのでしょうか」 「………………は?」 渋谷さんの目がぱちぱちと二度瞬きをする。 「…………。」 「…………。」 しばらく回答を待ってみたが、渋谷さんはさらに何度か瞬きするのみで、どうも答えは得られそうにない。 やはり僕の言い方がもって回りすぎたのかも知れない。 さらに核心を突く質問をしなくてはと、言葉を選びなおしてみる。 「…………もしかしてクライヴさんは――女性ではなく男性も――いえ、もっとはっきり言わせていただくと……、少年も肉体的恋愛の対象として認識されているのでしょうか」 「…………。」 ガシャンと音を立て渋谷さんの手からカップが滑り落ち、テーブルの上で勢いよく中身を飛び散らせていた。「あちゃちゃ」と悲鳴を上げて立ち上がる渋谷さん。 だが僕はそれでも答えを求めて、慌てて膝を拭く渋谷さんをじっと見上げる。 「修司さんっ! な、なななな、何を藪から棒に言い出すんですか!」 「答えていただきたい。渋谷さんはご存じのはずだ。現在クライヴさんはうちの亮を――」 「朝から何の騒ぎだ」 ――と。その声は僕の背後から聞こえてきた。 振り返れば、僕が今日ここへ赴いた目的の人物がこちらへ向かい歩いてくるところである。 たった今玄関を開けたであろう彼が僕の口にした質問のどこまでを聞いていたのかはわからないが、相変わらず心中を窺い知れない無表情であり、考えを読み取ることなどできそうにない。 「ししし、シド、なんで、おまえいつも時間ぎりぎりにしか来ないおまえがなんでどうして!? 今日は十時から潜る予定……」 「修司が来ているんだろう。――何かトラブルでも?」 「そりゃもうトラブル、というか審判の日が来た、というか……。 !! そ、そーだ。僕はこれから入獄準備で忙しくなるんで、あとはシド本人に聞いちゃってください。あ、とにかく僕はシドのプライベートにはノータッチなのでその辺はお間違えなく!!」 渋谷さんは良い考えでも浮かんだかのように唐突に笑顔になると捲し立て、見たこともないスピードで隣の資料室へ駆け込んでいってしまった。 後に残されたのは僕を見下ろすクライヴさん一人である。 「用があるのは俺か」 渋谷さんの様子を見て理解したかのようにクライヴさんは僕の向かいの席へ着く。 期せずして早めに本人と対峙することとなってしまったが、僕はこの堂々とした態度を崩そうとしない男から真実を引き出す必要があるのだ。 「そうです。僕は今日、あなたに確かめたいことがあってきました。単刀直入にお聞きします。……クライヴさん。あなたは弟を――亮をどのように思っているのですか」 「……どう? そうだな……。亮は今のところ文句を言いつつも訓練も真面目にこなしているし、問題は無いように思うが」 クライヴさんはしばし考えた後、至極真面目な顔でそう言った。 ……違うんだ。 そういうことを聞きたい訳じゃないんだ! いや確かに、亮がしっかりと訓練をこなしているのは僕としても安心だし喜ぶべきことだが、そうではなく―― などと僕の頭の中は僕の思い通りにならず、とっちらかったまま次に語るべき言葉すら浮かんでは来ない。しかしクライヴさんは僕に亮の現状報告をしたきり口を閉ざしてしまっている。何か。何かいい伝え方はないのか。ストレートかつ、生々しくならないそんな言葉が日本語にはあるんじゃないのか。ああ、僕はこんなに口べただったろうか。 僕はからからに干上がった喉にごくりと一口コーヒーを通すと、もう一度クライヴさんの目を見た。 コーヒーはただ熱いだけでお湯のように味がしなかった。 「いえ、これじゃわかりにくいな。つまり……あなたはうちの亮と保護者と保護対象者という関係だけでなく、恋愛感情を伴った接触を図っているのかということを……、だから、つまりその……」 「……質問の趣旨がよくわからんが、俺が亮を抱いたかと聞いているのか」 「…………」 僕は息を止めた。口の端に「つまり」「その」という箸にも棒にもかからない言葉をぶら下げたまま、目の前の男を見る。 今、なんと言った? 「だとしたら――答えはYesだな」 さらに男が放った一言は、とてもシンプルで――。 ガツンと世界が揺れた後、僕はぐらぐらする世界の中、どうにか口を開く。 「あ……、あな……た、何を……言ったかわかって、いるのか!」 僕の声は僕が思った以上に掠れ、低く怒りに震えていた。 しかしそんな僕に対して赤髪の異国人はまったく態度を変えることなく、じっとこちらを見据えている。 僕はじっとりと汗の滲んだ手のひらを握りしめる。 「冗談だとしたら、そんな冗談は笑えない……」 「おまえが聞いたんだ、修司。だから答えた。それで――おまえはどうしたい」 「っ――!」 気づいたときには――僕は眼前の男につかみかかり横面を殴りつけた後だった。 拳が焼けたように熱い。僕の膝はコーヒーに塗れ熱く、拳と同じくジンジンと脈打っていた。 だがそれも次第にひんやりと温度を失っていく。 どこかで僕の名を呼ぶ悲鳴に似た声を聞いた気がする。 しかし僕には目の前の男しか見えていなかった。乗り上げたテーブルの向こう――、吹き飛ばされた男の重みを受け、大振りの二人がけソファーは少しばかりずれていた。 だらしなくソファーに身を沈めた男の頬は腫れ上がり、口元には血が滲んでいる。 僕は乗り上がったテーブルを蹴り立てるようにして身を投げ出し、さらにつかみかかっていた。 振り上げた拳をもう一度男へ叩き付ける。 「あなたはっ! ……っ、亮がどんな酷い目に遭ってきたか知っているのにっ! あんな、子供を、なんでっ!」 何度も拳を振り下ろした。 しかし男は何も語らない。何も語らず、なすがまま、何度も何度も拳を叩き付けられている。 なぜ何も言わない。 なぜ言い訳のひとつも語らない。 なぜ謝罪の言葉すら出さない。 「亮は――あなたのことを、保護者として、友人として、信じていたはずだっ! 淡い恋心に似たものすら抱いていたかもしれないっ。だがそれを、――その気持ちを利用していいわけがないのにっ、あなたは欲望のまま亮を――弟をっ」 「修司さんっ! もう! もう――っ」 何者かが背後から僕を羽交い締めにしていた。 それでも前へ行こうとする僕の前で、男はようやく言葉を発する。 「いい、秋人」 「いいって、この調子じゃおまえだけじゃなく、修司さんの手もいかれちゃうよ! あ、壬沙子さん、手伝って!」 「なにごと!?」 そう声が聞こえた瞬間、僕の身体は軽々と引きはがされ、いつの間にか元居たソファーへと投げ出されていた。 抑え込まれた僕はそれでも収まりが付かず、はぁはぁと荒い呼吸のまま、テーブルの向こうで身を起こした男をにらみ据える。 男の左目の上は腫れ上がり、瞼は切れて血が流れている。 口元からも幾筋も赤い滴りが流れ落ち、彼の白いシャツは点々と染みが広がっていた。 それを見ても、僕の胸のざわめきは収まる気配を見せなかった。 「黙って僕に殴られて、それで贖罪のつもりか――!? こんなことであなたの裏切りも欺瞞も赦されはしないっ」 「わかっている。だから――俺はおまえにどうしたいかと聞いたんだ」 「――っ! ……どうしたい、か、だと? そんなこと――」 決まっている。 「亮は連れて帰る。もう二度と、ここへは来させない」 「修司さん、それは――」 僕を抑え込んでいる渋谷さんの声を無視し、僕は胸の内をあるがままにぶちまけ続ける。 「初めから、反対だったんだ。家を離れて縁もゆかりもないただのバイト先に身を寄せて――だからこんなことに――。亮はソムニアの世界から縁を切らせ、普通の人間として――あるはずだった普通の生活に戻させる」 「…………」 「…………」 渋谷さんと、傍らの皆南さんが言葉もなく目を合わせた。 「修司さん……、お気持ちは分かりますが……」 おそるおそると言った様子で渋谷さんが僕を見た。 困惑に揺れた目に、彼が何を言わんとしているのかわかる。 僕だってわかっているのだ。 今言ったことなど、しょせん叶わぬ絵空事だということを。 だが一度溢れだした感情はとどまることを知らない。 「なにがわかるって言うんですか。あなた方は亮の家族じゃない。亮の家族はたった一人、僕だけだっ。僕は兄として、家族として亮の幸せを一番に考えている。ここにいてはそれは叶わない。普通の、幸福な生活を送ることなど。亮は可愛いお嫁さんをもらって、幸せな家庭を作らなきゃいけないんだ」 「……今の言葉、亮には絶対に言うなよ」 眼前の男が、伝い落ちる口元の血を拭いながらそう言った。 ようやく僕に対して意見らしい意見を言ったのだ。 だがそれは僕には納得も理解もできない、言い訳にすら能わないもので――。 「は!? 亮を傷つけたあなたが何を言うか。あなたにはなにも言う資格は」 「これ以上あいつに背負わせるなと言っている。あいつは無理にでもおまえの期待に応えようとするはずだ」 「……っ」 全く――思ってもみなかった言葉に図らずも僕は言葉を失していた。 僕の期待がなんだって――? こいつは何を言っているんだ。 「亮には――。今の亮には、おそらくおまえの言う幸せを得ることはできない」 僕の沈黙を僕の不理解と捕えたのか、シド・クライヴは冷えた声でそう続けた。 その一音一音が氷の刃のように僕の胸に突き立っていく。 「あなたは、……よくもそんなことが……そんな酷いことが、言える……。あの子には、幸せになる権利すらないというのか……」 「権利があってもそれを行使できるかどうかはイコールではない。少なくとも今世で亮におまえの理想を実現させることは、負担が大きすぎる」 「僕の、理想……だと……」 「そうだ。今おまえの言っていることはおまえの理想であって亮の現実ではない」 「っ! 詭弁だ。僕はいつだって亮の最善を考えて――」 「亮はまだ覚醒したて――ゲボとしては非常に未熟だ。そんなあいつに自分の身だけでなく、周囲の人間をも守る義務を負わせるつもりか」 ぎくりと胸が軋み、血の気が引いていく。 「愛する妻を――子を守るためなら、亮は自らの身を引き裂いて危険な契約を結ぼうとするだろう。それに耐えうる技術も胆力も、転生すらしていないあれにはまだ備わっていない。時が足りていないんだ」 「…………しかしそれでは亮の幸福は」 「おまえがそれを口にすれば、亮はそうあろうとするだろう。幸福な家庭を、人生を追い、おまえの笑顔を見るためにその道を行くだろう。あいつにとって兄であるおまえは唯一の家族で――絶対的な存在だからだ」 まっすぐ、琥珀の目が僕を映していた。 「だからおまえは理想でなく、亮の現実を――今を見据えた道を考えてやる必要がある。おまえにはそれができているのか」 こくりと喉が鳴り、唇を強く噛む。 僕は――亮の現実をちゃんと理解しているはずだ。 亮がどんな苦しい目に遭ってきたのか、事実を知っているし、それを受け入れてもいる。 「っ、それは――。それは、あなたが亮を手に入れたいが為の詭弁だっ。もしもあなたの言うように亮にはそれを為すことが負担になるとしても――、だからといって、亮とあなたとの交際を認めることにはつながらない。僕にはそんなこと――」 「赦さなければいい」 「……っ!?」 シド・クライヴは静かに言った。 「おまえの言うとおり、俺はあいつの気持ちを利用して、自分の欲望のままにあいつを傷つけているのかもしれない。――亮の正当な保護者はおまえだ、修司。だからおまえの信じるように、亮の最善を考えてやれ」 「……亮を連れ帰っていいと、そう、言っているのか」 「……ああ」 「ちょ、ちょっとシド! それは……」 慌てたように傍らの渋谷さんが声を上げた。 だがシド・クライヴはそれを制するようにこう続ける。 「ただし、週に一度はきちんと秋人の診察を受けさせろ。体調が崩れたときは、すぐにここへ連絡を入れろ。セラでの訓練は毎日顔を出させ、壬沙子に指示を仰げ。近い内に代わりの人材を寄越す」 「あなたは……」 「……俺は亮の前に顔は出さない。今日あったことは――しばらくあいつには知らせない方がいいだろう。俺は仕事が忙しいとでも伝えておけ」 「…………そう、ですね。その辺りのことに異存はありません」 僕が肯くと、シド・クライヴは立ち上がり、部屋を出て行く。その足取りに迷いも躊躇いもない。 所詮その程度なのだ。 兄である僕に見つかり殴られでもすれば、すぐに面倒になって引き下がる。 『つまみ食いってヤツだ――』 そう言った武智の言葉が蘇った。 沸々と腹の中に別の怒りが込み上げた。 だが――僕の横を通り過ぎる瞬間小さく聞こえた言葉。 「亮を頼む」 振り返ったときにはもう、その姿はない。 今聞いたと思った言葉は幻だったのかもしれない。 「あ、あの……修司さん。その……怪我の具合、見ましょうか。火傷もしているかもしれないし」 僕の傍ら、僕を抑え込むようにしていた渋谷さんが床に座り込んだまま、困惑した表情でこちらを見上げている。 しかし僕は首を振り申し出を断ると立ち上がっていた。 「いえ。今日はもうこのまま帰ります。亮の荷物は後日引き取りに来ますので……。大丈夫です。診察は受けさせに来ますよ。ただし、彼が同席しないことを条件ですが――」 「そっ、それは、もちろん診察の場にシドはいませんが……。あの……、シドはあんな感じですが、あいつああ見えて亮くんのことに関しては多分ちゃんとしてるっていうか……恐いくらい真面目なんで……」 「僕にはそうは思えませんね。真剣ならば僕に少し言われたからといって、こんなに簡単に引き下がるはずがない。それに……なんと言われようと、彼のしていることを僕は認容することはできない。ソムニアの常識でなく、日本の法律で考えればどちらが正しいか明白だ」 「…………はい」 「部屋を散らかしてしまったことは謝ります。お騒がせしました。では――」 しゅんと下を向いた渋谷さんと困惑した様子の皆南さんに一礼すると、僕は部屋を後にした。 早く帰って亮の顔を見たかった。 亮を守れるのはやはり僕しかいない。 右の拳がジンジンと熱を持ち、長い間疼いていた。 |