■ 成坂修司の深き悩み・4 ■



 僕がマンションへ戻り玄関の扉を開けると香ばしい香りが漂い、キッチンの方からフライパンを振るう小気味いい音が聞こえていた。
 五分ほど前、コンビニに立ち寄った際、何か必要なものがないか亮へ電話を入れたのがこの嬉しい出迎えにつながったようだ。
「おかえり修にぃ。もうすぐできるから待ってて。あ。帰ってきたらちゃんと手洗いうがいしろよっ」
 エプロン姿で振り返った亮の笑顔に、固く縮こまるようだった僕の胸がふんわりと綻んでいく。
「それ、いつも兄ちゃんがおまえに言ってることじゃないか」
「だーかーら、修にぃもシメられるよーにちゃんとしなきゃなっ」
 得意げな亮の表情に僕はしばし考えを巡らし、弟が何を言わんとしているかの見当をつけると思わず笑い声を漏らす。
「亮、その使い方はちょっと物騒だな」
「へ? なに? どれが?」
 きょとんとした顔で手にしたバタービーターやフライパンを覗き込む亮。
 そっちじゃなくて言葉の方だよ。手洗いうがいをしてシメられるとはこれ如何に、だ。
 頭の上に?を浮かべあれこれ眺めている亮の背後に歩み寄ると、背中からぎゅっと抱きしめる。
 身を屈め、胸の辺りに来る亮の首根に顔を埋めれば、昔と変わらないお日様のような甘やかな匂い。
 初めて出会った日からいつだって僕の後をついて回ってきた小さな弟は、今も変わらずここにいる。
「修にぃ?」
 不思議そうに声を出す亮に、僕は顔を埋めたまま一つ大きく呼吸をして身を起こした。顔を上げた亮の大きな黒い瞳が僕の姿を映している。
 僕は少し微笑んでみせると、大袈裟に髪の毛をかき混ぜてやった。
「ちょ、なにすんだよっ、バカにぃ!」
「おまえはもうちょっと国語も勉強しろ。兄ちゃんは亮に『示しが付くように』手洗いうがいしてくるから」
「あ。……っ、知ってた。わざとだよっ。てか、それくらいオレだって言おうと思ってたし!」
「はいはい。ほら、チキンライス焦げちゃうぞ」
「ふわっ! やば……っ!」
 慌ただしくフライパンに向き直った亮を置いて、僕は洗面所へと向かった。
 途中寄ったコンビニでズボンに零したコーヒーの染みを軽く拭き取ってきたが、それでもこの格好が見つかれば亮は心配するに違いない。
 クリーニングボックスに着ていたスーツを放り込み、シャツとジーンズの部屋着に着替えると、専用のカップにうがい液をプッシュしながら鏡を見た。
 大丈夫。映っているのはいつもの自分の顔で、ざわついた心の内はどこにも見えない。
 亮にはもうしばらく、今日のことは伝えないでおこう。
 ゆっくりだ。焦らず、亮の気持ちを波立たせないように、事務所と距離を置くことを話して聞かせなくては。
「修にぃ〜っ、まだかー?」
 キッチンから僕を呼ぶ亮の声が聞こえる。
 この幸せな時を僕は失えない。
 亮の笑顔を無くす者から僕は今度こそ亮を守らなければいけないんだ。
「今行く。頼まれたトマトジュース買ってきたからついでおいてくれ」
「わかったー」
 二度、パンパンと自分の頬を叩き、僕はゆったりした足取りでキッチンへと戻っていった。




「あれっ、もうこんな時間だ。修にぃ送ってくれる?」
 夕飯を食べ終わり、お茶を飲みながらテレビを眺めていた亮が思いついたようにそう言った。
 ソファーではなくカーペットの上でだらしなく足を投げ出し座っていた亮は、僕の座るソファーへ背をもたせかけ、頭をコテンと後ろに倒して僕を見上げている。
 時計の針はそろそろ夜の九時を指そうとしていた。
「なぁ、亮。しばらくこっちにいないか?」
「……へ?」
 僕を見上げた亮はきょとんとした様子でぱちくり瞬きをする。
「学校へ通うのはそれほど時間的に違いはないだろう? 自転車だっておまえの分はちゃんと下の駐輪場に置いてある」
「うん、そりゃ自転車なら事務所からとそれほど大差なく学校行けるけど……」
 突然何を言い出したのかと亮は僕の真意を測りかねているようだ。
「たまにはいいじゃないか、兄ちゃんとこでゆっくりしてくれても」
「う……ん。そりゃ、オレだって修にぃと一緒にいたいけど……、教科書も鞄も持ってきてないし、それに……シドに聞いてみないと……」
 帰ってくるのに亮の意志でなくクライヴさんの意向が必要だということか。亮の今の立場や体調を考えてもそれが当たり前だと分かってはいたが、僕は我知らず少しばかり眉を寄せ、そしてこう続けた。
「クライヴさんはしばらく仕事で忙しいそうだ。亮の体調も良いようだし、しばらくこちらから学校へ通うのに彼も賛成してくれたよ」
 びっくりしたように目を見開き、亮がくるりとこちらへ向き直った。
「えっ!? シドと会ったのか? いつ!?」
「今日仕事帰りにな、ちょっと事務所へ寄ってきたんだ。亮の今の状況もちゃんと渋谷さんから聞いておきたかったしな」
「なんだよ、そんなら昨日ついでに聞けば良かったのに」
 亮のもっともな言葉に苦笑が浮かんでしまう。
「昨日は武智もいたし、あまり突っ込んだ話もできなかったろ」
「そう言えば勝にぃなんで来てたんだ?」
「郷中さんが仕事でソムニア事務所と契約したいそうでその付き添い――と言っていたが、まぁ、ソムニア事務所が珍しくて、くっついてきただけだ」
「あはは、相変わらず勝にぃはガキみたいだな」
「おまえにそんな風に言われてると知ったらあいつまた拗ねるぞ」
 亮が楽しげに笑いながら、僕の隣へぽすりと座り直す。
 だが亮の口から出たのは、その楽しげな雰囲気とは見合わない、僕の予想に反したものだった。
「そだな……、修にぃんとこオレも居たいけど……、でもやっぱ帰るよ」
「なんでだ……? どうして……」
「やだな、そんな顔すんなよ修にぃ」
 どんな顔をしていたのか僕自身はわからなかったが、亮は心配げに僕を見上げる。
「修にぃは仕事忙しいだろうし、それに…………」
 そういったまま、一度亮は口を閉ざした。何かを言い掛けやめてしまったその様子に僕は言いしれぬ不安を覚える。
「それに、なんだ?」
 クライヴさんと一緒に居たいと、そういうことなのか。
 ちくりと胸の片隅が痛んだ。
 後になって思えば、この時亮が言おうとしたことは全く別のことで、僕は自分の浅はかさに自分自身を殴りつけてやりたいほどなのだが、この時の僕は亮が遠くに行ってしまうかのような寂しさに、焦ったように先を続けてしまう。
「兄ちゃんの仕事のことなら平気だ。今はプロジェクトも一段落して時間的にも余裕があるんだ。おまえに寂しい思いはさせない。出張で家を空けることも、しばらくはない。だから……」
「うん、その辺は大丈夫。修にぃ心配しすぎだ」
 亮は僕を気遣ったように微笑う。あの日のことを僕が悔やみ続けていることを、弟は敏感に察知している。
 僕は亮にこんな顔をさせてはいけないはずなのに、空回りし続けている自分の気持ちと言葉に嫌気が差す。
 そんな僕の後悔に起因した沈黙を破るように、亮は言葉を継いだ。
「…………わかった。じゃ、お言葉に甘えて、しばらく修にぃんとこでお世話になろうかな」
「亮……。無理は、してないか?」
 僕自身その言葉以外を受け入れる気はないのに、それでもこんな風に亮を気遣うそぶりを取ってしまう自分が本当に嫌いだ。こんな大人のずるさをいつの間にか僕はあっさりと身につけてしまっている。
「ううん。身体の方はホント、今、調子いいんだ。シドがガミガミ言わないなら修にぃんとこのがいいに決まってる」
「そうか。良かった。それじゃ明日の朝は僕が車でおまえを学校まで送っていこう。途中、学校の用具を取りに事務所へ寄ればいい。帰りも明日は迎えに行けるし、必要なものがあれば事務所なりデパートなりで用意できる」
「……どうしちゃったんだ、修にぃ」
 ポカンと亮が口を開け僕を眺めている。
 何かおかしなことを僕は言っただろうか。
「まさか仕事、クビになっちゃったのか? 社長なのに昨日も今日も明日もオレにつきあえるっておかしいだろ」
「おまえは……」
 ため息と笑いが同時に込み上げ、僕は亮をぎゅっと抱き寄せると柔らかな髪をくしゃくしゃに混ぜながら頬を寄せる。
「ずっとおまえにつきあえるならそれもいいかもしれんな」
「ちょ、ったく、修にぃ、仕事大好きな癖によく言うよ! いてて、ほっぺつねるなって!」
「それじゃそろそろ風呂に入って寝よう。久しぶりに一緒に入るか?」
「入んねーよっ、も、オレ小学生じゃねーんだからなっ」
「ははは。じゃ一番風呂は譲るか。湯はもう張ってあるから」
 解放するとぷうっと頬を膨らませた弟は、どたばたと部屋にパジャマを取りに走る。
 その背中を見送りながら、幸福感にほんのりとため息を吐く。
「早く寝たいなら、まぁ、修にぃも一緒に入ってもいーけど」
 ぴょこっと顔を覗かせた亮が唇を尖らせたまま譲歩案を提示していた。
 僕はそれにひらひらと手を扇ぐことで応えると、亮をバスルームへ追いやった。
「寒くて早くあったまりたいなら、修にぃも一緒に入ってもいーけどっ!」
 それでも懲りずにバスルームから声が響いてくる。
 昔から亮は僕と風呂に入るのが好きだった。湯船にタオルを突っ込んで泡ぶくを出してみたり、手のひらを使った水鉄砲を教えたりと、父の目の届かないその狭い空間で、僕は亮に色んな遊びを教えた。時には僕が組み上げたばかりの小さなラジコン潜水艦を湯船に潜行させたこともある。
 今はさすがにそんな子供っぽい遊びをすることはないだろうが、それでもうちに泊まりに来た時は猫の子のように、ちょいちょい僕の風呂を覗きにやってくる。きっと昔の楽しかった記憶が亮にそうさせているのだろう。
「そんなに兄ちゃんと入りたいならそう言え。一緒に百まで数えるか?」
「べ……っつにんなこと言ってねーだろっ。いいよ、一人でゆっくり浸かるからっ」
 からかい混じりに言ってやれば、打てば響くように反抗的な言い草で返し、ガシャンと扉を閉じられる。
「ふう……」
 この幸せがいつまでも続けばいいと心から思う。
 そこでまた思い出されるあの言葉。
 亮にとっての現実。
 僕の理想。
 僕の願いは、亮を幸せにできないのだろうか。
 なにが亮を日の差す方へ導いてくれるのか――。
 あのシド・クライヴの冷えた視線を思い返しながら、僕はもう一度思いを巡らせ始めた。







「亮。……亮。…………亮」
「…………え、あ。うんなに?」
 助手席に座った亮は何度目かの呼びかけでようやく気がつきハンドルを握る武智を見た。
「大丈夫か? 具合、悪りぃか?」
「ううん、そんなことない。今日も秋人さんに診てもらったけど、大丈夫だって」
「そうか。そんならいいが……」
 亮が修司の家にきて二週間が経過していた。
 その間ほぼ毎日、修司が学校へ送り迎えをし、修司がどうしてもはずせない場合は武智がその代役を務めている。
 落ち着くまではなるべく亮を一人で行動させたくないという修司の兄心だということを武智は理解していたが、それでも多少やり過ぎの感はぬぐえないと苦笑気味に見守っていた。
 今日は学校前まで迎えに行き、途中S&Cソムニアサービスへ寄って定期検診を受けさせた後、再び車で自宅のマンションへ送っていくという特別ミッション付きだ。
 武智の立場は遊軍的なもので、普段は修司の秘書として雑務をこなしているが、いざなにか必要なことがあれば個人として動くことが可能な独立したものである。時には独自の判断で動くことも赦されているため、修司の全幅の信頼がなければこなせない特別な職務を請け負っているといえる。ただそれでも、今回のように修司のプライベートに関して動くことは稀であり、あまり長期に渡ってこんなことは続けられないだろうことはわかっていた。
 ちらりと助手席の亮を見れば、またもぼんやりと窓外を眺めている。まるで心ここにあらずだ。
 五日前、同じように亮を迎えに来たときと比べての差に武智は眉を曇らせる。
 あの時は、仕事で忙しいシド・クライヴの代わりに旧知のシュラ・リベリオンが教官になり、元クラスメートの何とか言うガキと一緒に訓練できるとはしゃいでいた。
 シュラ・リベリオンと言えば現カラークラウンであるカウナーツ・ジオットのことだ。シド・クライヴと親しいだけでも驚きなのに、まさか現職のそんな高位ソムニアとまで懇意にしているとは亮の交友関係の凄さに度肝を抜かれたが、それと同時にシド・クライヴとのことを修司が亮へ話していないことにも驚きを隠せなかったのを覚えている。
 てっきり修司のあの様子では亮へ「シド・クライヴとの交際は認めない」ときっぱり言い放ち、精々が一週間程度で一悶着起こると考えていたのだ。しかし修司はそれをせず、未だ本意を亮へ語って聞かせてはいないらしい。
 亮のこととなるとあいつは途端に意気地がないとため息を吐く。仕事をしているときの一刀両断の決断力とあくどいまでの強引さはどこへ行ったのかと小一時間問いただしてやりたい。
 あれからすぐに修司が亮へそう告げていれば、大きな衝突は起こったかも知れないが、もっと短時間に事情は改善の方向に進んだのではないかと思うのだ。なんだかんだ言って修司は亮が可愛くて仕方がない。亮が切ない表情で泣きでもすれば、多分あっさりシド・クライヴとの交際を認めてしまうに違いないと武智は踏んでいる。
 こんな健全でない状態をずるずると続けるのは亮にとってもだが、おそらく修司にとっても良いことではない。
「なんだ、元気ないな。カウナーツ・ジオットとの訓練、楽しくないのか?」
「……そんなこと、ないよ。シュラの訓練、シドのと違って色んなミッション組んだりして、すげー面白い。久我とも色々策戦立てたりとかするし楽しい」
「その割りに冴えねー顔してるぞ? ホームシックか」
「意味わかんね。……ホームシックってオレ、自分ちに暮らしてるけど」
「シド・クライヴが恋しいんじゃねーかって言ってんだ」
 途端に夕闇の薄暗がりでもわかるほど、亮の肌が耳まで赤くなる。
「はぁっ? ばっ、馬鹿じゃね、勝にぃ。オレはただ、シドが仕事忙しい時ってヤバイ仕事してる時だから、それがちょっと心配なだけで、べっ、べつに……」
「心配だってのはそれが大事な相手だからだろ? おまえはガキ過ぎるから自分自身のことすら見えちゃなさそうだが、時々は自分の声ちゃんと聞いてやって、そんで我が儘言うことも必要だぜ?」
「ガキみたいな勝にぃに言われたくないよっ。てか、我が儘なら結構言ってるし。一昨日だってすき焼き食べた」
 ぷうっと膨れた亮の横顔はしかし、やはりどことなく覇気がない。
「そういう表面的なヤツじゃねぇよ。事務所へ――シドさんとこ戻りてぇって修司へ言っちゃうような直球ど真ん中な我が儘のことだ」
「っ……」
「ほらその顔。帰りたいなら帰りたいってはっきり言え。修司にはガツンと言ってやんなきゃわかんねーんだ。そろそろ弟離れしなきゃなんないんだよ、あいつは」
「お……オレは別に、帰りたいとか、は……」
「逢いたいんだろ、シドさんに」
「……っ……」
 亮はまた黙り込みうつむいてしまう。
 亮の場合修司に対してでなく、シド・クライヴに対する意地がそうさせているのだろう。
 しかし泣きそうな顔をしているのに絶対首を縦に振らない辺り、頑固さにかけては修司も亮もしっかり兄弟だ――と、武智は普段は軽薄な顔を難しそうにしかめてしまう。
「ったく、手の掛かる兄弟だぜ、ほんと」
 何か大きなことにつながらなきゃいいがと、武智は天を仰いでアクセルを踏んでいた。









 部屋に戻ると既に電気は消えており、亮は自室で就寝しているようだった。
 腕に嵌めたクォーツを確認すれば、もう午前一時を回っている。
 今夜は遅くなるから先に休んでおくように亮へ電話を掛けたのがもう四時間以上前のことだ。
 僕は音に気をつけながら亮の部屋の扉を開け、ベッドで寝息を立てる弟の顔をそっと覗き込んだ。
 毛布を抱え込みながらすやすやと眠る亮の前髪を避け、現われた白い額に唇を落とす。
「ごめんな」
 思わずそう謝罪が漏れた。
 本当なら電話を掛けた四時間前にはもう、帰路へつくことができたのだ。
 だが僕にはそれができなかった。
 亮の顔を見て、普通に振る舞える自信がなかった。だから会社に戻ると急遽の必要性がない書類などをこねくり回し、こんな時間になってようやく家に足が向いたのだ。
 僕のポケットには今、一本のUSBメモリが入っている。
 原因はこの中に収められた一つの映像ファイルにある。
 もう全て処分を完了したと思っていた滝沢のデータが、今になってたった一本だけ見つかってしまったのだ。
 しかも見つかった場所が僕をさらに苦しめた。
「おやすみ、亮」
 僕は亮の肩まで布団を掛け直すと、もう一度柔らかな頬を撫で、部屋を出る。
 リビングに戻ると、テーブルの上に一本の栄養ドリンクとメモが一枚乗っているのをみつけた。メモにはあまり上手いとは言えない字で「お疲れ! おやすみ!」とだけ書かれていた。
 あまりに胸が痛くなり、ポケットの中のメモリを握りしめる。
 なんだって今になってこんなものが――父の元から出てこなくてはならないのか。
 そもそもは今日の夜七時のことだ。
 父の元第一秘書であり、現在は人事課へ配置換えとなった松中氏にエレベーターの前で呼び止められた。
 久しぶりの残業で取り敢えずの急務をこなした僕は帰路を急いでいたのだが、父と僕の派閥争いの結果移動を余儀なくされた彼からの声掛けに無視することも出来ず、話を聞いてしまったのだ。
 それは父からの伝言だった。
 彼の名を見ればメールすら確認しないほど、ずっと父との連絡を絶ってきた僕はそんな話ならと松中氏の言葉を遮ろうとした。だが、彼は続けてこう言った。
 父の元に滝沢のファイルがある、と。
 僕が密かにそれらのファイルを集め処分していることを、彼はわかっているようだった。
 滝沢と共に秘書として父に使えていた松中氏に、ファイル集めの作業中武智が粉を掛けた際、ピンと来たようだ。その時は知らないと答えたらしいが、実際は彼も滝沢の元でなにが行われていたのか、秘密をある程度わかっていたのだろう。
 ここ数日、父からの連絡が増えていたのにはこういう訳があったのかと僕は嫌な気分で納得していた。
 松中氏に案内され、僕は父の元を半年ぶりに訪ね――、そしてこのファイルを受け取った。
 滝沢が接待用のサンプルとして父にこの映像を渡し、父はその時、それを積極的に見る気にはなれなかったが、会社のためならばと黙認したのだという。
 当時建築法の改正や政権のゴタゴタなどが続き、僕らの会社が頭打ちになっていたことは事実だ。もう少し規制をゆるめて貰えれば、もっと官公庁と懇意に出来れば、プラスアルファ時流を読む情報が手に入れば――。
 それを得るために滝沢は接待と称して亮を使い、さらにその行為によって相手の弱みを握り全てを御すつもりだったのだろう。
 狂ったやり方に吐き気がする。
 そして何より――尊敬していたはずの父は自分の息子を会社のための生贄にしたのだ。
 僕はキッチンに向かい、流し台の前に佇むと蛇口を思い切りひねる。
 勢いよく飛び出した水流に、ポケットの中のメモリースティックを浸けようと取り出していた。
 こんなことでデータが消えるのかどうかはわからないが、この程度の小さなものなら、水に浸けてハンマーで粉々に破壊すれば再生など不可能になるに違いないと思ったからだ。
 明かりも付けない暗がりのキッチンで、僕はじっとその黒いスティックを見つめる。
 不意に去り際の父の言葉が蘇っていた。

『あれはあれの母と同様、魔性だ。近づけば辛い目に遭うのはおまえだ、修司』
『どうせおまえのことだ。集めた映像の一つも満足に見ず、消し去っているのだろう』
『おまえも一度見ればわかる。潔癖なおまえがこれを見て亮を今まで通り、弟として愛せるわけがない』

 水流へメモリーを近づける手が震えた。
 次の瞬間再びそれを握り込むと、蛇口を固く閉じる。
「僕は……」
 亮の現実を、ちゃんと知っている。知っているつもりだ。
 シド・クライヴに言われた言葉がなぜか頭を巡った。
 僕は見る必要が無かったから見なかっただけで、これを恐れているわけじゃない。
 亮の現実を直視する勇気すらない、そんな駄目な兄ではない。
 ピチョン――と、水滴の音が一つ響いた。
 僕は顔を上げると自室へ向かう。
 映像は、一本。約一時間分のものが入っていると言っていた。
 僕はそれを最後まで確認してやる。
 たとえそれがどんなにつらい、見るに堪えない映像だったとしても、今度こそそれを受け止めなければいけない。
 そして僕にはそれをやりきる自信があった。
 父の言うようには決してならない。
 僕はこれまでずっと亮を守ってきたし、これからもそれを変えることなど有り得ない。
 僕は自室の扉に鍵を掛けると、私用のノートパソコンの電源を入れていた。


 僕は震えながらデスクチェアに座ったまま、ただ前を向いていた。
 いつの間にかパソコンの画面は暗転し、常夜灯の僅かな明かりを反射している。
 終わったんだ、とやっと気づいた。
 最後に映し出されたのは、酷く汚され、ぐったりと意識のない弟の無惨な姿だった。
 僕はのろのろと手を伸ばし、メモリースティックを引き抜く。
 途端にスリープ状態だったパソコンが目覚め、再び動画再生用の画面が映し出されていた。
 そうだ、この機体も処分した方がいい。きっとキャッシュとして今再生した映像がどこかへ入り込んでしまっているはずだ。
 僕はそのまま電源コードを抜き、バッテリーも引き抜く。
 ふと、ぬるぬるとした感触を覚え、僕は手のひらを見た。
 どちらの手も、なぜか黒い液体に濡れている。
 手のひらに食い込んだ爪の痕から、それらはじくじくと染み出してきているようだった。
 僕はそれ以上それに興味を失い、シャワーを浴びようと立ち上がった。
 が、がくんと足が折れ、肩からフローリングへ倒れ込む。したたか打ち付けたはずだったが、痛みは感じなかった。
 先ほどまで早鐘のように打ち鳴らされていた心臓は石ころのように固まり黙り込んでいて、吸っても吸っても苦しかった呼吸はもうそれ自体忘れてしまったようだった。
 床の上に死んだようにうずくまったまま、僕は動けずにいた。
 体中が冷えているのに目の回りだけ熱い。
 多分僕は情けない顔で泣いているに違いない。
「…………こんな、こと……」
 あっていいわけが、ない。
「こんな……こと、っ……」
「っ……、なん、で……、こんな……」
 喉の奥を震わせ出る情けない声は止まらなかった。
 全部理解していると思っていた亮に起こった出来事。
 知る必要はない。わかっていればいいと思っていた。
 だが、僕はなんにもわかってなどいなかったのだ。
 画面の中の亮は何度も何度も僕の名を呼んでいた。
 僕に助けを求めていた。
 だが僕は助けられない。助けられなかった。
 僕はなにもできず、ただ終わった後のことを今、ようやっと見ることしかできていない。
 悲鳴を上げ、泣き叫び、抵抗し、だが最後には薬物と快楽によって屈服させられ、甘く切ない声で啼かされる。
 振り上げられる細い腕。藻掻く白い足。
 懇願し、滝沢の言葉のまま淫らにねだる亮の姿は、僕の中の何かを粉々に打ち砕いた。
 ――亮の現実をおまえは見ているのか。
 ――亮のこれからの生きていく道を見据えているのか。
 あの男は冷たい声でそう言った。
 亮は過去とても辛い目に遭いはしたが、普通の子供だ。
 だから未来には普通の幸せを。
 そう思っていた。それは僕の中で絶対的に正しい事で、他の選択肢などあり得るはずもなかった。
 だが、それは僕のエゴだ。今ならそれがわかる。
 亮はこれからも、きっとこんな道を進む可能性がある。
 ゲボという種は亮にとって枷であり亮はそのせいで――普通の子ではいられない。
 あれは過去のことでなく、これからの未来、再び亮に起こるかもしれないことなのだ。
 僕はそんな未来から亮を守らなくてはならないのに。
 ――僕は敵であるそんな未来からすら目を背けていたんだ。
 なにが兄貴だ。
 なにが亮を守る、だ。
 希望と願望しか見ないで、どうやってそれを為そうと言うんだ。
 見えない手でボコボコに殴られたように、僕は打ち拉がれ、夜が白むまでその場を動くことができなかった。