■ 成坂修司の深き悩み・5 ■




「ったく、ずっと仕事さぼってたからこんな風に無理なスケジュールになんだぞって、勝にぃからも言っといて」
 亮は唇を尖らせ、運転席の武智へ何度目かの不平を漏らす。
 深夜帰ってきたらしい修司は、早朝、まだ亮が目覚める前に出社してしまっていた。
 おかげで亮は朝一番、武智の決して爽やかとは言い難い漢臭い顔とそれに反比例する「亮ちゃん、朝よん。起きて〜ん」という軽薄なセリフで叩き起こされる羽目になり、どうもそれから一日調子が出ず、夕方になってもそれは変わらなかった。
 どんよりと曇ったこの日は秋だというのに既に冬が到来したかのように寒く、校門で武智の迎えを待っている間も、こうして武智自慢の四駆で送ってもっらっている最中も、憂鬱な気持ちがとろとろと亮の中を這い回っていた。
「なんだよ亮。行きも帰りも送ってもらっといて不満そうだな。俺と修司、さして違わねーだろ」
「は? 今車降りて道行く人に写真見せて聞いてみろよ。100パー失笑されっから」
「……おまえ、辛辣だね」
「まぁ……、勝にぃには世話になってありがたいなーって……思ってるよ? でも修にぃ無理してんじゃないのかなって思うとなんか凹んじゃってさ」
 武智は亮の言葉にピクリと片眉を上げ、助手席でぼんやりと窓外を眺めている弟分を一瞥する。
 亮は勉強はいまいちだが勘が悪いわけではない。修司の変化を亮なりに敏感に察知しているのだろう。
 亮とシド・クライヴの関係を知ってしまってからこちら修司の過保護は拍車が掛かり、こうして毎日の送り迎えさえ徹底する始末であるが、それに加えて重要な商談の最中ですら上の空なことがある。こんな状況は以前亮がセブンスへ連れ去られてしまった時以来のことだ。もちろん亮本人はこんな修司を今まで見たことがないはずであり、安定と安心の象徴であった兄のこの様子に、自覚なく亮は不安を覚えているのだろうと武智は推察している。それへプラスしてシド・クライヴと会えていない二週間という時間がいっそう気持ちを不安定にさせているに違いない。
「おいおい亮くん。凹んでると俺につらくあたるってどういう因果関係よ? ちっとおにぃさんに説明してごらん」
 それでもいつもと変わらぬ調子で軽口を叩く武智に、亮はようやく明るい声で笑っていた。
「あはは、ごめんごめん。勝にぃが凹んじゃった? でも気にすんなよ、オレだっていっつもシドと一緒にいてコンプレックス刺激されまくりだからさ」
「なんで俺が修司にコンプレックス持ちまくりって前提で話進めてんだコラ」
 このまだまだ子供の亮が己とシド・クライヴを比べてみている微笑ましさに思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪え、武智が敢えて渋い顔をしてみせると、亮はますますおかしそうに笑う。
 出会った頃はほとんど笑わなかった亮が今ではこんな風に屈託なく笑えるようになったんだなと、今さらながらにしみじみ思う。
 母親に捨てられ、義父に疎まれ、虐待に近い躾を受けていたのを、学生時代から成坂家によく出入りしていた武智もなんとなく知っていたからだ。
 そんな境遇の弟をこれまでは修司が一人で庇い、一人で背負ってきたのも武智は知っている。
 亮がまた笑うようになったのは全て修司の存在があったからだと、そのことは端で見ていた武智が一番よく分かっていた。
「修司は今、無理しなきゃいけねぇ時期なんだよ。生暖かく見守ってやれ」
 不意にトーンを落としぽつりと漏らした武智の言葉に、亮は目を見開き、次に少し首を傾げて不安そうに武智を見る。
「時期? 無理しなきゃいけないって、何を?」
「大事な愛娘を嫁に出す親父の心境ってヤツだな」
「??? 愛娘? 修にぃ、娘がいたのか!? え?え? 何歳? オレ、そんなの知らねーしっ!」
「何焦ってんだよ、もののたとえだ。あの修司に子供がいたら俺の方がぶっ飛ぶわ。ホントーにおまえはお馬鹿だな」
「……うっせぇ。意味わかんねーこと言う勝にぃの方が悪いっ」
 膨れっ面でぷいっと横を向いた亮の頬を左手の指の甲でぐいぐいと撫でると、その手を鬱陶しげにつかみ、がぶりと噛みついてくる。
「いてて、たく、噛むな! 野生動物かおまえは!」
「…………なぁ、修にぃ、父さんと全然会ってない、んだよな」
「なんだ、突然」
 武智の手をつかんだまま、唐突に聞き取れないほどの小声で亮が呟いた。
「勝にぃはなんか誤魔化してるけど、無理してるって、それのことじゃないのかって……オレ、思ってて……」
「はぁ? 俺がいつ誤魔化したよ。ストレートすぎるほど実直に語ったつもりだが……」
 言ってみたものの武智の言葉はまるで亮に届いていないようで、武智は言い掛けた言葉を引っ込めて亮の頭を撫でてやった。
「会長のことは関係ねーよ。確かにしばらく会ってはいないだろうが、それは特に会う必要がなかっただけの話だ。もう修司もいい大人だ。いつまでもパパにくっついて仕事してる年じゃねぇ」
「それはっ、……そうだけど。……でも、修にぃは父さんのこと、すごい尊敬してた。それなのに、全然会ってないなんて……」
 秘書である滝沢が亮にした行為について、当時社長だった成坂庸道が容認していた節があることを、亮本人も知っているらしい。それを知った修司が怒り社内派閥を利用してまで謀反を起こし、会社から社長である実の父を追い出してしまったことも、当然亮は誰からか聞いているに違いなかった。
 しかしそれは半年も前のことであり、今になって突然亮がそんな話を持ち出してくるなどどういうことかと武智は首を捻る。
「……おまえ、誰かになんか言われた?」
「っ……。べ、別に、そういうわけじゃ、ない。ただ……修にぃが元気、ないから、……そっかなぁって思った、だけで……」
 煮え切らない亮の答えにその様子を横目で見やれば、沈んだ表情でうつむいてしまっている弟分がいる。
 もしかしたら武智にとっては「もう半年」だが、亮にとっては「まだ半年」なのかもしれない。それを知った日からずっと、大好きな兄とその父との関係が自分を契機に破綻してしまったことについて思い悩んできたのだろうか。
 鼻の奥がつんとして思わず熱い物が込み上げてきそうになる。
「心配すんな。修司が悩んでるのはそこじゃねーよ。もっとポジティブで明るい話題だ」
「……悩んでるのにポジティブ? 勝にぃの言うことホントわけわかんねーよ!」
 混乱気味に食ってかかる弟分の頬を再びぐりぐりと指の甲で押しながら、鼻をすすり上げ、武智は顔を上げてアクセルを踏み込んだ。





 僕はやりかけていた仕事を放り出し、自宅へ車を飛ばしていた。
 会社から自宅までの三十分の距離が、週末の渋滞と相まって異様なほど長く感じる。
 その間僕は何度となく武智に連絡を取り、状況を把握するべく努めた。
 『亮が居なくなった』
 そう武智から連絡を受けたのは、もうすっかり日も落ちきった午後七時を過ぎた頃だった。
 武智が亮をマンションまで送り、その一時間ほど後、夕飯の買い出しを終えもう一度マンションを訪ねたときにはもう、亮の姿は消えていたというのだ。
 武智も最初はコンビニ辺りにでも出かけたのかと考えたらしいのだが、この季節に上着も着ずに制服のブレザーのまま出かけた様子で、なにより亮の部屋には財布もスマホも置きっぱなしであったらしい。
 室内に荒らされた形跡はなく靴もないことから、亮が自ら外に出たらしいことは伺えたが、それ以外のことは何も分からない状況だ。
「くそっ、どうして僕はこういつもいつも」
 自分への怒りで僕は歯がみした。
 今朝――。僕は亮と顔を合わせることなく会社へ向かってしまった。
 あの後一睡も出来なかった僕の顔は、とても亮に見せられたものではなかったからだ。腫れぼったい目元や手のひらに出来た生傷。顔を洗っていつもより念入りに身繕いをしても、亮にはすぐ僕の動揺の欠片を見付けられてしまうだろう。
 今の状況で亮にいらぬ心配を掛けることだけは避けたかった。
 そんな風に亮の心を慮ったつもりの僕の行動はしかし、所詮自分に対する欺瞞に過ぎず、実際は逃げの一手だったのかもしれない。
 だからこそ――結果はこのザマだ。
 後悔と焦りと苛立ちで今にもわめきだしてしまいそうだ。
 亮の身にまた何か良からぬ事が起きているという予感が、幾重にも巻いたワイヤーのように、僕の胸に深くきつく食い込んでいる。
 亮はまた何者かによって連れ去られてしまったのかもしれない
 滝沢のような不逞の輩に。ゲボの力を欲する貪欲なソムニアたちに。
 昨夜見た動画の映像が脳裏を巡り奥歯を噛みしめる。
 あんなことは二度と亮に起こらせてはならない。絶対に。絶対に。絶対にだ。
 シド・クライヴへ大見得を切って亮を連れ帰ったというのに、自分自身のこの愚かさはに叫び出したい気分だった。
 だがそんなことで事態が好転することがないことも、嫌と言うほどわかっている。
 僕はマンションに到着すると、事前に連絡を入れていた武智と合流する。
 マンションの前で待ちかまえていた武智は僕の車を見付けると、すぐさま助手席へ乗り込んできた。
「すまない、成坂。ほんの一時間目を離した間だった」
「自転車は?」
「残ってる。歩きならまだそんな遠くへは行ってないと思って辺りを探したんだが、みつからない」
「……誰かに車で連れ去られたのだとしたらやっかいだな」
「亮はソムニアなんだ。そんな簡単に誰かに拉致られるとは思えねぇが……」
「相手もソムニアだったらどうする!? 亮はゲボなんだぞ! セブンスで亮がどんな目に遭わされていたかおまえだって知ってるはずだろう!」
「っ……、それは、……そうだよな。すまねぇ、本当に……」
 苦しそうに目を伏せた武智に、僕は静かに呼吸を吐き、眉間をぐっと押さえると目を閉じる。
 僕がこんなことを武智に言う権利などない。
 武智は僕の代わりに亮についていてくれたのだ。亮への気持ちの整理に戸惑う情けない僕の代わりに。
「悪い。当たった。全部僕の責任だ。忘れてくれ」
「修司……」
「来る途中、渋谷さんにも連絡を入れた。まず事務所へ向かう」
「そうか……。それがいいな」
 そう言ったきり二人の間で会話はなくなる。
 事務所までの十分間がやけに長く感じた。
 

「大丈夫、亮くんの位置は捕捉してます」
 到着した僕たちに掛けられた渋谷さんの言葉は、驚くほど心強く、簡潔なものだった。
 僕の連絡からすぐ対策を立ててくれていたらしい渋谷さんは、デスクの上を覗き込みながら落ち着いた様子でそう告げてくれる。足早に近づいてみれば、綺麗に整頓されたデスク上にはごく普通のタブレットが一つ置かれているようだ。
「亮はどこに!?」
 はやる気持ちを抑えきれず僕もそれを覗き込む。映し出されていたのは見たことのあるgeeks MAPのアプリであり、その中心に小さな青色のアイコンが点滅を繰り返している。
「どうやら六本木通りを移動中みたいです。このスピードだとおそらく車移動かな」
「……すっげぇ。なにこれ。geeksにこんなサービスねーだろ。乗っ取り改変かよ」
 武智が横から独り言に近いうめき声を上げていた。今の僕には亮さえ見つかればそんなことはどうでもいいのだが、どうやら渋谷さんの技術は常識とはかけ離れたものらしい。
「はは、乗っ取ってはないですよ。ちょっと間借りしてるだけで……。それにしても、亮くんが制服着ていてくれたことは不幸中の幸いでした。ボタンに付けたビーコンが役立ってくれた」
 渋谷さんは屈み込みごそごそと机の中を引っかき回している。ゴム管や注射器や、その他医療器具らしきものを手にしたドクターズバッグに詰め込みながら武智の独り言に答えてくれているようだ。
「亮にそんなもんまでくっつけてんのか。こりゃあいつ学校さぼったら即バレだな……」
「あっれ、応急用の薬、この辺に入ってるはずなんだけど……、お。あったあった。って、わかってるよ! 今出るからっ。…………うん、うん、了解。スピード違反で捕まったりしないでよ?」
 武智以上に独り言を呟きながら机の中を覗き込んでいた渋谷さんが、突然声を荒げる。何事かと見てみれば、どうやらフリーハンズの携帯電話で会話中だったようだ。
 相手はおそらく――と僕が思いかけたところで、渋谷さんが顔を上げる。
「すいません。お待たせしました、行きましょう。車、出して貰えますか? 前に止めてあるなら僕のを車庫出しするより早い」
 通話はすぐに終わったらしく、鞄を抱え立ち上がると、渋谷さんは窓外から事務所前に路駐した僕の車を確認してそう言った。
 僕は一も二もなく肯き踵を返す。だが――
「キー貸せ、成坂。俺が運転する。今日のおまえの運転は危なっかしくていけねぇ」
 不意に横から伸びてきた武智の手が僕の手からをキーを奪い取ると、有無を言わさぬ顔つきで前を走り出していた。
 悔しいが武智の言うことは正しい。ここへ来る間も、僕は何度信号の色を無視し、一時停止線をスルーしそうになったかしれなかった。
 さっきの渋谷さんの通話内容は僕にも適用されるべき言葉だったのかもしれない。亮を追っているのに途中で警察にでも捕まろうものなら目もあてられない。
「壬沙子さん、あと、お願いします。シドのヤツ、勝手に飛び出して行っちゃったんで、僕と修司さんはとにかくビーコン通りに412号を追っていこうと思ってます」
 やはり――。と思った。どうやらシド・クライヴもこの亮捜索に加わっているらしい。しばらく会わないと言った僕との約束などなかったかのように、彼は動き出している。もちろん今はそんなことを言っている場合ではないことは承知であるが、それでも僕の心の中に別のわだかまりが生まれてしまうのをどうしようもない。
「わかったわ。バックアップは任せて。まったくクライヴにも困ったものね。渋谷くんの端末がなければ亮くんの位置もわからないってのに」
「セラでの行動と同じようなもんなんでしょ、あいつにとっては。僕のナビであいつが動く。現実でも大差ないと考えてる」
「現実とセラじゃソムニアの能力には大きな差が出てくるわよ? 社会的な制約も大きいし――。無茶だけはしないでほしいけど」
「それは僕も同感ですが――今のあいつには何を言っても無駄ですから」
 渋谷さんは皆南さんと何やら一言二言ことばを交わすと、僕らの後を追い事務所を出る。
 運転席には武智、助手席に僕、そして後部シートに渋谷さんを乗せ、車は走り出していた。






 亮は車の後部座席に乗せられ、どこへ行くとも分からず不安げに隣に座る人物を盗み見る。
 隣の座席に腰を沈めた人物は、しばらく目を閉じたまま身動き一つせず、亮がそこに居るのかとも声を掛けない。
 しかし亮は何も言えない。喉の奥がはりついてしまったように乾き、何度も何度も唾を飲み込んでみるが、それでもどんどん口の中が干上がっていく。
 亮が部屋に帰り、鞄を置いてすぐのことだった。
 リビングから聞き知った電話のコール音が響いてきて、亮は逡巡しながらも受話器を取る。取ってはいけないと思うのと同時に、取らなくてはいけないという不思議な強制力が亮の手を動かしたのだ。
 そして――電話の指示に従い、亮はマンションの地下駐車場へ止められていた一台の車に乗り込んでいた。
 その間約十五分。武智が買い出しに行くと出て行ってからすぐの出来事だった。
 亮は再びちらりと右隣に座る父を見た。
 随分と会っていない気がした。亮がソムニアになり様々な事件に巻き込まれるようになってからは、一度も会っていないのだから、一年以上顔を合わせていないことになる。
 いつもと変わらずがっしりとした体躯を上質のスーツで覆い、腕を組んだまま目を伏せている父。
 一年ぶりに見た彼はやはり大きく、重厚で、亮に畏怖を感じさせる。
 ただ少し、白髪が増えたように見え――それが以前より父の印象を優しくしたように思えた。
「久しぶりだな」
 車が走り出して十分を過ぎた頃。口を開かなかった父が、そう言った。
 低く重圧感のある声音に亮は身体を竦ませ顔を上げると、横目でじろりとこちらを睨む父――成坂庸道と目が合う。
「っ……、」
「体調はいいのか」
 仕事の業績でも問うような言い方だった。亮はぎゅっと拳を握りしめると小さく肯いてみせる。
「ぅん……。今は、大丈夫……」
「そうか。おまえの話は修司や秘書達から少しだが聞いている。大変だったそうだな」
「…………ぅん」
 なんと答えていいのかわからず、亮は濁すように返事をするとうつむいてしまう。
 父が自分に何を言おうとしているのか、わからなかった。
 本当に自分を心配しての言葉だとは亮には思えない。なぜなら二週間前受けた電話で、父は亮に対して憎しみにも似た怒りをぶつけてきたからだ。
 うつむいたきり何も答えようとしない亮に庸道はしばしの沈黙を作ると、小さくため息を吐いていた。
 亮はそれでやっと顔を上げる。
 父が――あの堂々と常に自信に満ちていた父が亮の目の前でため息を吐くなど、未だかつてありえないことだったから。
「亮――。私はおまえに謝らなくてはならないな」
「……ぇ?」
 思いも掛けない言葉に亮は目を見開き父の顔を見た。だが父の表情は夜の薄暗がりに沈みよくわからない。
 すれ違う車のヘッドライトに浮かぶ影が、時折顔の陰影を濃くしていくのみだ。
「先日の電話でのおまえへの暴言――。すまなかった」
 電話で言われたことと言えば、修司に付きまとうな、だとか、父と呼ぶな、だとかそんな内容だったように思う。実際の所亮はあの折の記憶が定かではない。きっと父からの電話という衝撃が自分の心に蓋を被せてしまったのだと、なんとなく亮はそう理解していた。
「おまえ自身が悪いわけではないと――私もわかっている。だのにもかかわらず、口さがないことを言ってしまった」
「そんな……ことは」
 言い掛けてどう応えていいものか迷う。そんなことは構わないというほど平気だったわけではないし、赦さないと罵るほど恨んでもいない。強いて言うなら哀しい事実が淡々と亮の前を通り過ぎていっただけだ。
「あるものを見て、私の心も穏やかではいられなかったのだ。修司にそれを伝えようと連絡をして――そこでおまえが出てしまった。私も――心の準備ができていなかった」
「あるもの……?」
「滝沢のことについてもそうだ」
「っ!?」
 庸道は亮の問いに答えようとはせず、代わりに亮にとって最も忌むべき相手の名を口にしていた。
 思わぬ人物の登場に、亮の肩がびくりと持ち上がり父の顔を凝視する。
 父はこれから何を言おうとしているのか。
「あれがおまえを商談の特使としてどうかと提案してきたとき、私はいいとも言わなかったが――駄目だとも言わなかった。あれがどのようにおまえを使うかなど考えたくもなかったし、考える余裕もなかった。実際の所あの時期、我が社はかなり業績を落としていてな。従業員達を守るためにも、なんとか踏ん張らねばならない時だったんだ。…………などというのは言い訳に過ぎないということも……わかっている。あの頃の私も腹の奥底ではおまえの身になにが起こるのか、きっと理解していたのだから」
 父はこちらを見ようともせずそう言った。だがその声音には先ほどまでは感じられなかった人間的な感情が含まれている気がする。
 滝沢は、父が亮を道具にすることを許可したと言っていたが、本当のところは限りなくグレーに近いものだったのだと亮は初めて知った。滝沢にそう告げられたときは世界が崩壊し、絶望と寒さで身体の震えが止まらなかった。だがあれは滝沢の一方的な物言いで、亮を貶めるためわざとそうやって言い含めたのだとわかる。
 亮はこくりと唾を飲み込むと、ようやく掠れた声を出す。
「……知らな、かった。会社、やばかったんだ……」
「諒子が出て行ってからこちら、なんとか踏みとどまってきたが――そろそろ限界だったんだ。あの会社は諒子があそこまで大きくしたようなものなのだからな」
「諒子……!? 母さんが、なんで……」
「諒子との出会いは偶然だが、バーでよく会い話す内、彼女には会社の運営について相談に乗ってもらうようになった。――彼女はソムニアだったからな」
「っ!?」
 亮は息を呑む。
 “諒子”というゲボがいて、彼女がシドの兄弟弟子だったという話を、何となくシドから聞いたことがある。だがそれが亮の母である諒子と同一人物であるのかどうか、はっきりと伝えられたわけではない。
 ただなんとなく、シドはシドの知る“諒子”が亮の母親である“諒子”だという前提で話をすることが多かっただけのことだ。シドに母の写真を見せるように言われたこともなかったし、亮も敢えて見せたりすることもなかったため、姿の確認すら彼はしたことがなく、だからこそ亮はシドの言葉を話半分にしか聞いていなかった。
 それが、今の父の言葉で俄に現実味を帯びてくる。
 母は――諒子は、ソムニアだった。
 それは事実だったのだ。
「ゲボ……だったの? 母さんは、諒子は――」
 急くように問いただす亮に、庸道はゆっくりと首を振る。
「それは――わからない。私はソムニアについて詳しくはなかったし、諒子もそういった細かな話はしようとはしなかった。だが私が一目であれに魅入られたのは事実だ。それがゲボの力なのか単なる一目惚れというやつなのかはなんとも言い様がない」
「……そっか」
「しかし彼女がソムニアだったことは大きかった。彼女に相談を始めてすぐ会社の業績は嘘のように上昇し始め、瞬く間に軌道へ乗っていった。あれは紛れもなくソムニアとして彼女が何らかの工作を打ったということだろうな。あの会社は私が一人で大きくしたように言われているが、事実は違う。あれはおまえの母――諒子が作り上げたようなものなのだ。偉そうな顔をして社長の椅子に座っていたが、真実はこんなものだ。滑稽だと笑って貰っても構わん。――おまえにはその資格がある」
 父が初めて亮の顔をじっと眺めていた。
 亮はその視線に耐えられず、ぎゅっと目をつぶるとぶんぶん首を振る。
「そんなことっ――、オレは……っ」
「諒子が家を出て行ったとき。私は自分でも信じられないほどの喪失感と――身を焼くような怒りに震えた。私は捨てられたのだと――。否、単に利用されたのだと思い知ったからだ。諒子が私と過ごしたのはわずか三年――。その間会社は盤石の体勢となり、それが諒子の出て行く時だった」
「……どういう、こと?」
「彼女は、おまえを置いていくための準備をしていただけだった――ということだ。亮。おまえが不自由なく暮らせる環境を整えるだけのために、あれは私に近づき、私に成功させ、完璧な巣におまえを置いて去っていった」
 亮は声も出せず父の顔を見た。逆光に沈むその顔はよく見えなかったが、それでもあふれ出る感情に苦悶の表情を浮かべているであろう事はわかる。
 ずっと昔――幼かった亮を眺めるたびしていたのと同じ表情で、今も父は亮を見ているに違いない。
「諒子は私を愛してはいなかった。私といる間も――ずっと、おまえの父。顔も名も知らぬおまえの父を想い、おまえを捨ててまでその男を追っていったのだ」
「っ、そんなの、違う。そんなの、嘘だっ」
 亮は叫ぶように言った。
 父にそんな風に口答えすることなど考えたこともなかったのに、今、我知らず亮は父に食ってかかる。
「諒子は――母さんは帰ってくるって言った。父さんのとこに行くなんて、そんなこと言わなかった。ちょっと出かけるだけだって、そう言って――」
「そう言わなければおまえが離れなかったからだろう、亮」
「っ……」
「おまえも私も捨てられたのだ」
「でも……、母さんは、オレの父さんの話なんてしたこと、ない。聞いたこともあったけど、普通の人よって言って、それだけで終わりで……、写真も何もないって言ってた……。だからオレ、父さんのことは聞いちゃいけないんだってずっと思ってて……。母さんがまだ父さんのこと好きだったらそんなことないはずだよっ」
「おまえはまだ子供だからわからんのだ。あれをずっと見ていた私にはわかる。諒子はおまえの父を追うため出て行った。もう戻っては来ない。その為の巣作りだったのだからな」
「――っ」
 父の声は淡々としていた。妙に冷静で事務的で、事実だけを述べているのだと亮に知らしめるように乾いていた。
「おまえを見るたび、苦しかったよ。亮、おまえは諒子には似ていない。おそらくおまえの父に似たのだろう。そんなおまえをなぜ私が育てなくてはならないのかと。だが法律上はおまえは私の籍に入っている。義務を投げ出すことは社会人としてできない。会社を運営して行くにあたり幼い息子を捨てたなどという醜聞は絶対に避けねばならなかった」
 父につらく当たられた日々を思い出す。
 なんとなく、予想は付いていた。父が自分のことをこんな風に思っているであろう事は、ずっとずっと昔から気づいていたのだ。
 だから改めてそう聞かされても、辛い気持ちなど湧いてくるはずもない。
 そう思っていたのに――。
「…………」
 亮はぎゅっと強く、制服の胸のあたりをつかんでいた。
 皺になるのも構わず、指先が白くなるほど強く強く握りしめる。
 絶対に泣くもんかと思った。
「おまえの言うとおり、諒子はゲボだったのかもしれんな。あれは魔性だ。とても――恐ろしい女だ」
「…………っ」
 そんなことない――。そう言いたくて亮は顔を上げる。もし母がゲボだったとしても、だからといってそれが恐ろしいことだとは亮は思わない。シャルルや他のゲボ達のことを思い出しても父の言うようなイメージとは結びつかない。ゲボ種は確かに特種かも知れないが、それでも普通の血の通った人間なのだ。
 だが父は亮に次の句を言わせる前に、こう続けていた。
「そして亮。おまえもまたあれと同じ魔性だ。つい先頃、私はそれに気づかされた」
「……オレ……?」
「今日私がおまえとこうしているのは、おまえに謝りたかったことと――、それからおまえに頼みがあってのことだ」
 父が何を言おうとしているのか。嫌な予感がした。
 聞きたくない。それを聞きたくない。そう思っていても亮は固まってしまったかのように身動きがとれない。
 制服のボタンを握りしめたまま、ぎりぎりと力が込められていく。
 ピシリ――と、手の中で乾いた音がした。
「亮。修司の家を――いや、この街を出てくれ。そして私たちがおまえを探しても見つからないところへ行って欲しい。おまえももう高校生だ。一人で生活することも出来るだろう。金なら十分用意した。カードで渡したいところだったが、それでは足がつく。少々重くなるが許して欲しい」
 庸道は傍らに置かれていた大きな黒いアタッシュケースを亮へと差し出してみせる。
 カチリと音を立て鞄が開かれると、そこにはびっしりと、亮が見たこともない量の一万円札が詰まっている。
 亮はぶるぶると震えながら必死に首を振っていた。
「……ぃ、ぃゃ、だ。……、そんなの、いらない……。ォレは……、どこにも、行きたく、な……」
「全てを――私の立場、気持ち、何もかも包み隠さず話したこの意味を分かって欲しい、亮。おまえに罪はないとわかっていても、これ以上おまえを私たちの傍に置きたくはないんだ」
「とぉさ……」
「私はおまえに父と呼ばれる資格はない。金をやって一度は息子と呼んだおまえを追い払おうとしている酷い人間だ」
「とぉさん……」
「亮。私はつい先頃、滝沢の置いていったおまえの動画ファイルを見たよ」
「っ――」
 こぼれ落ちそうなほど瞳を見開き、亮は父の顔を見た。
「……この意味が、わかるな?」
 亮の呼吸は我知らず速くなり、喉は干からび声すら出なくなる。
 いつの間にか車は止まっていたが、亮はそれすら気づかない。
 庸道はアタッシュケースの蓋を閉じ留め具を掛けると、ずっしりと重たいそれを亮の胸へと押しつけていた。
「ずっと封じてきた動画を見て、思ったよ。おまえには本当に可哀想なことをしてしまったと。だがそれでも、私は私の犯した過ちを正すため、修司におまえたち親子を近づけてしまった事実を修正するため、何度でも同じ事を言う。――亮。私たちの前から消えて欲しい。……頼む」
 がちゃりと音を立て、亮の側のドアが開いていた。運転手を努めていた松中が外から開けたのだということも、今の亮にはわからなかった。ただ、この場から逃げだすため、亮は転がり落ちるように外へ出る。
 押しつけられた重たい鞄を胸に抱いたまま、ふらふらと歩き出す。
 たくさんの人。
 たくさんの車。
 少し歩けば人にぶつかり、ふらつけばクラクションが鳴らされた。
 人の流れに飲まれながらひたすら足を動かす。
 ぐらぐらと揺れる世界を見上げ、そこが大きな駅だということだけ認識できた。
 駅ならば、きっと父の言うとおり、誰も知らない街へすぐにでも行くことができるだろう。
 亮は振り返ることもしなかった。できなかった。亮がきちんと遠くへ行くか、庸道の鋭い眼光がじっと見張っている気がした。