■ 成坂修司の深き悩み・6 ■






 後部座席から鋭い声が聞こえてきたのは、僕らが都道412号へ乗ってしばらく走った頃だった。
「嘘だろ……おいおいおいおい、何? なにが気に入らないんだよっ! くそっ……」
 渋谷さんの焦りを帯びた声がそれに続き、僕はいてもたってもいられず後ろを振り返る。
「どうしたんです!?」
「ビーコンからの電波が途切れました。桜田門のあたりまでは拾えたんですが……」
「途切れたって、亮に何かあったんですか!?」
「ぁ、いや、それは……まだなんとも……。ただこの途切れ方から見ると機械の方に何かトラブルがあったとしか思えないです」
「っ、武智! 桜田門まであとどれくらいだ」
「渋滞さえなけりゃ、あと十分ってとこだが――六本木あたりがちょっとヤバイ感じだな」
「くそっ、なんだってこんなに車が多いんだっ」
 週末の夜七時過ぎはいつも以上に車通りが激しい。仕事のない時くらい家でゆっくりしてくれよと、勝手な怒りが胸に湧く。
 亮の身に何が起きているのか良くない考えばかりが脳内を去来し、僕は今にも叫びだしてしまいそうで唇を噛みしめる。
「聞いたか? うん、そう。お前の位置からすると首都高に乗った方が速い。六本木近辺で詰まってるが、バイクなら機動力があるから――、ああ、取り敢えず警察総合庁舎前あたりで落ち合おう。対策はそれから考えるから勝手な行動は取るなよ!? 警視庁ど真ん前だからな!?」
 事態は良くない方向へ動いているようだった。
 それから車内は沈黙のまま、僕らはエンジン音だけを耳に走り続ける。
 桜田門まであと数分の場所。内閣府下交差点で赤信号に捕まり再び停車を余儀なくされ、僕はじりじりとした気持ちで窓外を眺めていた。もしかしたら歩道に弟の姿がないかと無意識に目で追っていたのだろう。
 だが、僕が目を止めたのは小さな人影ではなかった。
 反対車線で停車している一台の車。街灯に照らし出された車の群れの中に、紛れた白のベンツSクラス。
 都内といえどそうゾロゾロと走っている車ではない。だがそれより何より、僕は瞬間的に引っかかるものを覚え声を上げていた。
「父だ。父の車だ! 武智、寄せろっ!」
 遠目ではあったし確信も何もなかった。だが叫ばずにはおられなかった。この時の僕は信じられないことにそれが真実であるとわかっていたのだ。
「くそっ、対向車かよ!」
 武智が強引にハンドルを右に切る。僕らは盛大なクラクションを受けながら直線レーンから強引に右折レーンへ割り入っていた。後部座席の渋谷さんは背後の車に両手を合わせて何度も頭を下げているが、夜目では相手に見えることはないだろう。
「おまえ、会長に電話してみろっ」
「あれ亮くんのお父さんの車なの? 亮くん連れてったのお父さん!?」
 他に考えられない。亮がいなくなり、最後に記録の残った地点すぐそばで父の車を見付ける。偶然であるはずがない。
「シド! 霞ヶ関で降りたら412号を目黒方向へ走ってる白ベンツを追ってくれ。亮くん乗ってるかもしれない!」
 僕はすぐに父へ電話を入れてみるが、何度コールをかけても相手は出る気配を見せない。
 信号はいつしか赤から青になり、車の群れは滑らかに移動し始める。 
「よしっ、青。しっかり捕まってろ!」
 信号が変わると同時に武智はアクセルを踏み込みUターンを試みていた。しかし直進する車の流れが邪魔をする。突っ込んで行くわけにもいかず、すぐにブレーキを踏みじりじりと時を待つほかない。
「あー、なんなんだよっ、見えてんのに――、くそ、行っちまう!」
 苛立ちもピークに達し、ようやくハンドルを切れるその時。
 僕らの車の眼前を、一台のバイクが猛スピードで通り過ぎていく。
 渋谷さんの連絡からまだ三分と経ってはいない。まさかとは思ったが、完全に規定スピードをオーバーしつつ疾走するそのバイクには、黒いコートをたなびかせた長身が跨っている。
「うっそだろ。霞ヶ関出入り口からどんな運転したら三分でここまで来られるんだ」
 右へ左へ車を縫いながら、バイクはその大きさに見合わない恐ろしく俊敏な動きで遠ざかっていき、その勇姿に武智は呆れたようなため息を吐いていた。
「……なるほど。あれで三分、ね」
 と、次の瞬間だ。
 前方のバイクが一瞬消え、車のブレーキ音とくぐもった衝撃音が続く。
 僕ら一同の顔色が変わった。前方で何が起きたのか。
 あんな無茶な運転をしていたのだ。いつ他の車と接触事故を起こしても不思議じゃない。
「とにかく急ごう!」
 急いたような渋谷さんのかけ声から僅か十秒後――。
 僕らはその衝撃音の正体を知っていた。
 白のベンツはハザードランプを灯し停車しており、車の流れはそれを避けるようにのろのろと続いている。
 僕らもそのすぐ後ろへ車を止めると、状況を確認すべく駆けつけていた。
 そこで僕らが見たものは――ベンツの前方、バイクに跨ったまま傲然と立つ長身。ヘルメットを取り夜風に赤髪を遊ばせて、彼は射るような目で車内の様子を凝視していた。
 衝突音の激しさとは裏腹に、どうやら彼に怪我はないようだ。
 だが――
「ぅ……うわあああああ。シド、おまえええええぇぇぇええっっ」
 状況を把握したらしい渋谷さんがこの世の終わりのような悲鳴を上げていた。
 確かに怪我人はいない。だが――
 右足一本で傾くバイクを支えたシド・クライヴの長い逆側の足は、ベンツへ向け無造作に突き出されていたのだ。
 そのブーツの踵はボンネットへとめりこみ、見事なまでにEクラスの顔をひしゃげさせてしまっている。
 どうやらバイクを急旋回させ前面に回り込んだ彼は車を止めるため、最も原始的な方法――蹴りを繰り出したらしい。
「・・・・・・。」
 武智はあんぐりと口を開けその状況を見つめている。
 しかし今の僕には軽くスクラップになったベンツも、その無謀な止め方もどうでもよかった。ちらりと横目でそれを見たきり、すぐさま後部窓へ飛びついて父の名を呼び連打する。
 開けないつもりならば壊してでもと勢い込む僕の前で、意外にもあっさり車のドアは開き、思った通りの人物が顔を覗かせていた。
「父さんっ、亮は!?」
「もう、いない」
 車の中を覗き込み、後部座席に父以外の姿がないことを確認する。運転席には狼狽した様子の松中が座っているが、助手席には誰も乗っていないようだ。
 そんなはずはない。父がここにいるということは、亮がいないわけがないのだ。
 もしやもう他の誰かに引き渡しでもした後なのか。会社での復権を後押しする勢力の中に、ソムニアに対して知識の深いものはいなかったか。亮のような子供を虐げることが喜びでありそうな輩はいなかったか。
 嫌な考えばかりが瞬時に脳裏に閃いては消える。
「いないって――どういうことです、今度は誰へ渡したんだっ!?」
「おまえの為なんだ、修司。あれは良くない」
「っ!」
「電話でお前の所から出て行くように言ったんだ。それなのに、あれはまるで言うことを聞かなかった。諒子と一緒だ。行くなと言った諒子は出て行き、出て行けと言った亮は居座り続ける」
 父はぼそぼそと独り言のような声でそう言った。
「――誰かに渡したわけでは、ないんですね」
 父の言い様だとどうやら僕の考えていた事態とは違うらしい。
 うなずく父を見て、ほっと息が漏れる。
 最悪の事態ではなかったようだった。再び過去の監禁事件や連れ去り事件のようなことが起きていたとしたら、僕はもう正気で居られる自信がない。
「どこへやったんです、父さん。亮をどこへ――」
 ぼんやりとこちらを眺める父は生気がなく、全く知らない誰かのようだった。
 ワンマンで威風堂々としたかつての姿はそこにはなく、何より父は会社での復権などもう頭の隅にすらないようだった。ほぼ半年会わなかっただけで、こうも人は変わってしまうのかと軽いショックを受ける。
 そしてこの時初めて、亮が僕のマンションで生活するのを渋ったことを思い出していた。あれはシド・クライヴのそばにいたいがための逡巡だと思っていたが、そうではなかった。
 父が――亮に出て行けと言っていたのだ。
 そんなことに思いも至らなかったあの時の浅はかな己に嫌気が差してくる。
「亮はどこへ?」
 複雑な思いを胸に抱きながら、もう一度同じ質問を繰り返した。
 そして今度こそ父は僕を見上げ自嘲気味に口の端を上げる。
「私にもわからん。……金をやったんだ。十分な金を。これでどこか遠い、私たちの知らない場所へ行ってくれと――そう頼んで、……降ろした」
「降ろした? 今ですか!? この先で!? この先にあるのは――」
 ――東京駅。
 その文字が瞬時に浮かんだ。
 この道の先にあるのは東の鉄道起点。パスポートも身分証もなしで、なんの痕跡も残さず容易に日本中どこにでも向かえる場所。
 父は亮をそんな場所へ置き去りにしたのだ。
「修司。追うな、あれにもう関わり合うな……」
「父さん。あなたが僕のことを考えてくれるのはありがたいと思っている。だがこれがどんなに酷いことなのか、あなたならわかっているはずだ。――あなたは僕が尊敬していた父なのだから」
「…………っ、私は……」
 亮に対しての考えが浅はかだったのと同じくらい、僕の父に対しての考えも浅薄なものだったのだと思い知らされる。
 これは全て自分の中途半端な行動が招いた結果だ。
 僕は亮の現実に向き合うのを避けていただけでなく――、父との対峙も本当の意味では行えていなかったのだろう。
 会社での決着だけでは十分ではなかった。社員や取引先に対して筋を通すだけじゃない。むしろ家族なのだから。親子なのだからこそ、おざなりにしていようが誰にも迷惑など掛けないと高をくくっていたプライベートを、もっときっぱりと収めておくべきだったのだ。
 僕は忙しさにかこつけて面倒ごとから全て逃げていたんだと改めて自覚する。
「僕たちはもっときちんと話し合わねばならなかった。僕たち家族のために」
「…………」
「近々一度――家に戻ります」
 僕の言葉がよほど意外だったのか、父は驚いた顔をしてこちらを見た。
 初めてここにきて目があった気がする。
「亮を降ろした場所はどこですか?」
 ゆっくりと問えば、父は一呼吸置き、その場所を僕に告げていた。


「東京駅丸の内口ロータリーで降ろしたそうです!」
 まるで車の進行を妨げているかのように陣取っていたシド・クライヴたちの元へ駆寄ると、僕は状況を報告する。
「なるほど。ということは、時間と位置から察するに亮くんに付けたビーコンが壊れたのは車中だな。その時お父さんに暴力を振われた可能性は――なさそうだね。亮くん自身が何か衝撃をボタンに与えちゃった可能性が大きいか」
「そう、ですね。そうあって欲しいのですが……ただ、亮はおそらく酷く精神的なショックを受けているはずです。下手をすればこのまま姿を消そうとするかも知れない。すぐにでも見つけ出したいのですが」
 亮が今自由の身になり容易に家へ帰るための手段がある「駅」という施設にいるからといって、状況はまだ好転したとは言い難い。父の言葉と行動は、亮を良からぬ方向へ動かすに十分すぎる威力があると僕にはわかっていた。
「駅から先、亮くんの場所を示す手がかりはもうないんだ。自力で探す他ない。駅で呼び出しかけて貰う――なんてのはできないだろうし、酷い精神的衝撃を受けていればノックバックの発作が起こる可能性がある。急がないと」
「とにかく東京駅へ向かいましょう!」
 踵を返し車へ向かおうとした僕の眼前に、一つのヘルメットが放り投げられていた。
 驚いた僕は反射的にそれをキャッチし、飛んできた方向へ振り返る。
「乗れ。車よりバイクの方が速い」
 赤毛の長身は己もヘルメットを被り直すと、軽々と銀色の車体を旋回させ、僕に後部シートを指し示す。
 僕はためらいなくその後ろへ飛び乗っていた。
「シド、これ持って行って!」
 渋谷さんが鞄から投げ寄越したのは、万年筆のような小さな物体。
「緊急用のディスポーザブル注射器だ。皮下注射だから押しつけるだけで簡単に薬液を注入できる。応急処置用だけど僕が着くまで状況がまずかったら使って。すぐ追いつくから」
 シド・クライヴはそれをコートの内ポケットにしまい込むと一気にアクセルを解放する。
 僕たちは重いエンジン音に身を任せながら、嘘のようなスピードで裏道を抜けていった。






 どこをどう走ったのか、気づけば僕らは十五分足らずで東京駅の構内へ駆け込んでいた。
 バイクは駅前に乗り捨てられ完全放置であり、シド・クライヴの愛車は間違いなく駐禁切符を貼られることになるだろう。
「亮はどこに!?」
 当たり前のように走り出していた彼に僕はそう問うてみる。ソムニア独自の超感覚のようなものがあり、それを頼りに動いているのかとそう思ったからだ。
 だが彼の答えは僕の予想とは大きくかけ離れたもので――
「そんなものはわからん。が、見つける」
 あまりにきっぱりとした物言いに、僕は「そうですね」と肯く他ない。
 出がけに皆南さんが言っていたことを思いだしていた。ソムニアといえど、現実世界では絶対的な古典物理と法律慣習により制約を受ける。それでも彼はリアルでの不自由などものともせず動いているのだ。
 行き交う人々を避けながら周囲を伺う姿は、表情こそいつもと同じ冷たいものだがしかし、受ける印象はまるで違っていた。自信に満ち鷹揚で、物事にあまり関心を示さない彼のイメージが僕の中で変わり始める。
 思えば亮がセブンスへ連れて行かれたときも、時折会う彼の様子はこんな風ではなかったかと、そんな過去がふと蘇った。
「僕は改札内を探してみます。あなたは改札外を――」
 言い掛けたところで、彼が何かを察知したように再び駆け出す。
「クライヴさん!?」
 北口改札の方角だ。
 僕が声を掛ける間もなく、彼の姿はあっという間に遠ざかっていく。それに追いすがろうと走り出してみるが追いつくどころかみるみる引き離されてしまい、見失わないようにするのが精一杯だ。あまりに普通に周りの景色にとけ込み、誰も注目することはない目の前の奇蹟に閉口する。この雑踏の中まるで周囲の人間などいないかのような滑らかな移動で進む彼には、常人離れした動体視力と反射神経、筋力が備わっているのだろう。そうでなければこんな動きを実現させることはできない。僕も学生時代は随分と運動部で鍛えられたものだが、そんなものとは次元が違う。
 これがソムニアというものなのか、それともシド・クライヴが特別なのかはわからない。だが何者かを守ろうとする場面でこの能力は圧倒的な力になるだろうことだけは理解できる。
 と――。リュックサックを背負いぞろぞろと群れて歩く年配の一団をくぐり抜けた先で、小さな人だかりが出来ているのを発見する。
 クライヴさんの姿がそこへ消えるや否や、亮の名を呼ぶ鋭い声を聞いた。
 僕は全身から血の気を引かせながらスピードを上げ、ぶつかる人垣をかき分け進む。
 すると目の前には小さな空間が開け、壁近くに立つ大きな柱と、その影に屈み込むクライヴさんの姿が映っていた。彼の背後には狼狽しつつ様子を伺う二人の駅員が必死に片言英語で話しかけている。だが当の長身は振り返ることもなく屈み込んだまま何者かを抱き寄せていた。
 そこで僕も先ほどのクライヴさん同様、叫びを上げて駆け寄ってしまう。
「亮っ!」
 柱の影でうずくまっていた小さな影は、崩れるようにシド・クライヴの膝に寄りかかり、苦しげな呼吸で瞳を閉じたままピクリとも動かない。そんな亮を彼は楽な姿勢が取れるよう、半身を起こす形で膝の上に抱え上げる。
 跪き様子を伺おうとした僕の背後から、駅員の一人が声を掛けてきたのはその時だった。
「保護者の方ですか?」
 切迫しているこの場面で受け答えている余裕はないのだが、“保護者”としての責任で、亮の処置は眼前の男に任せ僕は振り返るしかない。
「この子の兄です。すいません、ご迷惑おかけして」
 そう答える間にもシド・クライヴは亮のシャツの裾を捲り上げ、取り出した万年筆型の何かを腹部にぐっと押し当てている。それが先ほど渋谷さんから受け取った救急用の注射器だということはすぐに分かった。
 ということは、やはり精神的ショックから亮は発作を起こしてしまったということなのだろう。
 大きさはどの程度なのか、応急処置でどうにかなるものなのか、心配で心配でいてもたってもいられず、僕は駅員を振り切るように亮の傍へ屈み込む。
「どうなんです!? 亮の状態は――」
「もう五分遅かったら危なかったが――、大丈夫だ。薬が効いてきた。脈も落ち着きつつある。最近は調子が良かったせいで亮に体力があったのが幸いしたな」
「……そう、……ですか」
 ほっと息が口を突いて漏れた。
 確かに亮から先ほどまでの苦しげな表情が薄れ、自分を抱える相手が誰であるのか気づいたのか、すがるようにクライヴさんのコートの襟元をきゅっと握りしめている。
 もう少し亮の様子を見ようと身を屈めた僕に、再び背後の駅員が声を掛けていた。
「保護者の方でしたらお話が……」
「すいません、お騒がせしましたがもうこちらで対応しますので」
 逸る気持ちが僕を慇懃無礼にし丁寧な態度で拒絶の空気を存分に噴出してしまう。それでも駅員達はその場を立ち去ろうとせずお互いに目配せしあいしつこいほどに食い下がってくる。
 何なのかと苛立ちを覚えつつも、仕方なく僕は亮の頬を一撫ですると振り返り立ち上がっていた。
「申し訳ないがこちらは病人が居るので早急に場所を移動したいのですが」
「いや、それはそうです。わかっているのですが、……その、あの、これ、を……」
 僕の剣幕に押しやられた彼等は煮え切らない様子で言葉を紡ぐと、おずおずと手にした黒い大きな鞄を差し出してくる。
 ありふれたビジネス用のアタッシュケースだが、これがなんだというのか。
 状況が飲み込めず若干の苛立ちを覚えた僕に、年嵩の駅員が捕捉説明を加えながら小さく鞄の蓋を開けてみせる。
「えーと、ですね。……少し前から柱の影で具合が悪そうにしている子がいると連絡を受けまして駆けつけたのですが……」
 中に詰まっていたのは――。
 僕は一瞬息を詰め、無意識に額を押さえていた。
「薬や身分がわかるものがないかと鞄を開けさせていただいたら、この大金です。何か事件じゃないかという話になり、救急と同時に警察へ連絡しようかと思っていたところでして」
 普通駅で人が倒れたからといってこんな風に大騒ぎになることはない。病人をちらりと一瞥し、駅員が対応しているとわかればただちに素知らぬふりで通り過ぎていくのが東京での通例だ。だがこんな大金入りの鞄を抱えている学生が相手となれば話は別だ。この人だかりは亮本人というより、鞄の中身に対してできたものなのだろう。
 そしてこの場合――あくまで当然の素振りで顔色一つ変えず対応しなくては面倒なことになるのも通例と言える。
「それは父が弟に渡したものです。事件というわけではないのでご心配には及びません」
「そうは言われましても何か身分を証明していただけるものがないと……」
「ああ――そうですね。気がつきませんでした」
 駅員側としたらここで唯々諾々と大金入り鞄や具合の悪そうな少年を引き渡すわけにはいかないのだろう。
 僕は内ポケットから名刺と免許証を取り出すと提示し、身分を名乗る。
 するとようやく納得したように肯きあった駅員二人は鞄を僕へ手渡してくれていた。しかしこの大金の内容については疑問に想うことも多いようで、思案半分興味半分と言った表情のままであることにかわりはない。
 僕とて父がこんな子供じみた暴挙にでようとは思ってもみなかったし、プライベートな家庭事情を説明する気もないことから、先ほどまで少々強めだった態度を改め頭を下げて見せることにした。
 案の定、それでどうにか場は収まり、話はようやく具合の悪い少年の対応へと移っていく。
「救急車の手配はどうしましょう。それでなければタクシーの手配もできますが」
「いや、それよりもどこか休める場所を頼む」
 亮を抱きかかえ介抱していたシド・クライヴが初めて彼等の言葉に反応し、こちらを見上げる。
「すぐにこの子の担当医師が到着する。救急車より必要なのはベッドだ」
 その容姿からは考えられないほど流ちょうに発せられる日本語に、駅員達は改めて驚いた様子だったがすぐに対策を話し合うと早急な対処に移る。
「で、では、旅行者援護センターへ行きましょう。構内にあるのでまずはそこへ」
 が――案内に走ろうとしてくれる駅員を制し、僕は一本の電話を入れることにした。
 救護センターは駅での保健室のようなものだ。カーテンの仕切りはあったとしても完全な個室にはなり得ない。今亮に投与された薬液がGMDだと仮定すると、これから起こる副作用の治療には不向きだと言える。
「いえ。僕が手配しますから大丈夫です。お世話をおかけしました」
 この後どのような治療が必要になってくるのか、知識として僕も十分理解していた。それを考えれば東京駅には救護センターではない他の場所がある。
 僕の言葉を受けた駅員達はお互い一言二言交しあうと、挨拶を残し持ち場へと戻っていく。
 それと同時に様子を伺っていた野次馬達も徐々に人の流れへ合流していき、辺りはいつもの東京駅の姿へ変わりつつあった。
「修司」
 と、シド・クライヴがおもむろに僕を手招きし呼び寄せていた。
 電話を終わらせた僕が屈み込むと、彼は未だ意識のない亮の身体を僕の膝へそっと預ける。
 どういうことかとすぐそばにある彼の顔をじっと見つめるが、深い琥珀の瞳は何を考えているのかまるでわからない。
 僕を呼び寄せた彼の視線はじっと亮の青ざめた顔を見下ろしたままだ。
「秋人がすぐにここへ来る。あとは修司。おまえと秋人に任せる」
 言いながら彼は亮の頬を撫でる。その長い指先の動きがあまりに自然で僕は何も言えなくなってしまった。
 シド・クライヴは約束を守ろうとしている。
 亮とは会わないと言ったあの言葉を彼は強情なまでに果たそうとしているのだ。
「クライヴさん――」
 立ち上がる長身を、僕は反射的に呼び止めていた。
 落とされる視線に、僕はうなずくことで返す。
「一緒にいてやってください。目が覚めたとき、あなたが傍にいた方が亮も安心する」
「…………だが」
「頼みます。兄として――」
 亮と離れろと言った時、そっけないまでに簡単に僕の言い分を飲んだ男だった。
 僕はそれが亮に対してのいい加減な気持ちの表れと受け取っていた。だがこの見解は間違っていたのだ。
 彼は決して亮のことが面倒になったわけではない。今ならそれがよく分かる。
 “そう”ではないのかと彼に問えば、そんなことはないと答えるかも知れない。だがそれは彼の性格がそう言わせているだけで、真意は別の所にある。渋谷さんや皆南さんが日頃から彼について評しているとおり、シド・クライヴという人間は随分とひねくれていて自分勝手で横暴で――だが、亮に対して重度に真面目らしい。
 こちらを見たまま何も言わない彼に僕は続けた。
「ステーションホテルに一室空けて貰いました。個室の方がいいはずだ。とにかくそちらへ向かいましょう。亮をお願いします」
 抱き上げた亮を再びシド・クライヴの腕の中へ引き渡す。
 ずっと昔――出会った頃より随分と重くなった、だが今でも僕にとって小さなぬくもりが、僕ではない別の人間の元へと移っていく。
 さっきまで発作を起こし苦悶していたはずの亮の表情は、今とても穏やかだ。
 その顔に、ああ、これでいいんだと知った。
 僕はたぶん、今度こそ間違えていない。
「成坂修司の名で二日押さえてあります。亮が落ち着くまで、そこを利用してください」
 言いながら足下に置いていた亮のアタッシュケースを抱えると、その重たさに胸がふさぎ込む。
 この重みに亮は何を思ったのだろう。今回亮に発作を起こさせてしまったのは間違いなく僕だ。
「……意味がわかって言っているのか」
「不本意ながら、はい――と言っておきます。――僕はあなたに掛けることにした。不甲斐ない兄に代わり、これからはあなたが亮を守って欲しい」
「…………」
「勝手を言っているのはわかっています。ですが――この数日で嫌と言うほど思い知らされました。僕の考えが甘いということと――あなたが亮をどう想ってくれているのかということを」
「おまえの買いかぶりかもしれんぞ」
「だったとしたら、僕はまたあなたを殴ります。あなたを殴った後自分自身も殴りつける」
「それは――勘弁して貰いたいところだな」
「お互いに」
 ふっと、クライヴさんが笑んだような気がした。気がした、というのは目視では何の変化も見られなかったからだ。
 だが今の僕には何となくそれがわかる。
「うちの可愛い亮を泣かせるような真似をしたら、兄貴は許さないということです」
 だから僕も少しだけ微笑って見せた。
 それから先、僕らは一言も口をきかなかった。ただ黙々とステーションホテルのラウンジへ向け歩を進める。
 クライヴさんの腕の中で、少し赤みの戻った亮の唇からは落ち着きを取り戻した呼吸音が聞こえていた。
 今日空けて貰った部屋は、最上階のロイヤルスイートだ。普段は別の客に貸しきりとなっているこの部屋を、業界のコネを使い無理を言って二日融通してもらった。
 他にもすぐに空けられる部屋はいくつかあったのだが、この数週間の反省の意味も込めての選択だ。
 きっと僕は亮にだけでなく、この無愛想で冷たい男にも酷く悩ませる仕打ちをしたに違いないのだから。
 背後から慌てたように駆寄ってくる足音と、渋谷さんの僕らを呼ぶ声が聞こえた。
 どうやら追いついてくれたらしい。
 これで亮は大丈夫だ。
 僕はシド・クライヴの背に一声掛けると、ひーひーと息を切らし駆け寄ってきた主治医に手の中の鞄を押しつけ、元来た道を戻る。
 僕は僕の決着をきちんと付けなくてはいけない。
 そうしてもう一度、亮の兄として新しい道を行こう。