■ 王様と子供とペンギンの話・1 ■




 ばしゃばしゃと水しぶきを上げ派手にコーヒーカップを洗い終わると、今度はシュレッダーの前へ飛んでいき、用意していた書類をこれでもかと挿入口へ突っ込む。それが済むかすまないかの間に今度は来客用テーブルを超高速で磨き上げ、クロスを持って再び流しへと特攻だ。
 まるで分身の術を実戦しているかのような獅子奮迅の働きを見せるアルバイトに、事務所所長はタイピングする手を休めないまま、苦笑気味に壬沙子へと目配せする。
 自分のデスクで事務作業中の壬沙子は、所長の意図を汲みおかしそうに声を殺して笑うと、今は所長お気に入りの角砂糖を小瓶へと移す作業に取りかかっている少年に声を掛けた。
「もう今日は上がってもいいわよ、亮くん」
 その一言に少年はピクリと顔を上げる。手元でころころと桃色の多角形がいくつか転がって落ちた。
 慌ててそのキラキラ光る甘い二十面体をつまみ上げ、少年はボトルの中へと放り込む。
「へ? でもまだ時間が――」
「それがわかっててそんな必死に仕事こなしてたの? もう十分ノルマの二時間分は働いてくれたんじゃない?」
「いや、でも……」
 ちらりと亮は事務所所長を盗み見る。
 いつもはヘラリとしている彼が、給金のことになると鬼の如く厳しく渋柿のように渋くなることを亮は嫌と言うほど知っている。時給制のバイトがノルマをこなしたからといってそれで仕事が終わるわけではないのだ。
 だがそんなことは百も承知で、今日はある理由からいてもたってもいられず亮はコマネズミのように動き回ることを抑えられない。今もせっせと砂糖を詰め込み続けている。
「明日の仕事の準備、したいんでしょ? いいよいいよ、今日はちゃんと二時間分付けておくから」
 だが亮の予想に反し、渋チンでお馴染みの亮の雇い主は苦笑を浮かべつつもそんな言葉を投げかけてくれる。
「ほんとに!? いいの!? まだ一時間経ってないのに……」
「リアルでシドとのお仕事、初めてだものね? 準備、大事よね」
 ぱっと表情を明るくさせた亮に、頼りになる先輩、壬沙子が後押しをしてくれた。
「うん、そう! そうなんだっ。明日の水族館の仕事、セラでやった仕事の総まとめだし、そのー……下調べとかもちゃんとしなくちゃって思うし」
 亮はまくしたてながらボトルの蓋をガチャガチャと嵌め込み、残った砂糖をビニール袋でグルグル巻きにして棚の上に突っ込む。
「ありがと、秋人さん! 大好き!」
 言い終わると鞄と上着を引っつかみ、亮はつむじ風の如く部屋を飛び出していた。ドアの向こうでバタバタと足音が遠ざかっていく。
「ふふ。水族館に行くのホントに楽しみなのね。クライヴとお出かけなんてここ最近なかったし」
「…………。」
「…………? 渋谷くん、……なんて顔してんの」
 キーボードを弾く手を止めた事務所所長の鼻の下はいつもより二センチ半、とろんと伸びている。目尻も六ミリばかり下がっていて、弛んだ口元から「うふふふ」と不抜けた空気音が漏れている。
「聞きました? 今の、聞きました!?」
「お金に渋くない経営者は従業員に好かれるってことよ」
「いや、それだけじゃないな。今の“大好き”には愛が籠もっていた! あーっ、しまったっ、録音してないっ。今の録音しとけば良かったっ。脳内音声再生記録装置の設計図を確かこの辺にしまって……」
「…………社長。仕事してちょうだい」




 亮にとって明日は、久しぶりにシドに連れられ、依頼主である企業へ現実世界で訪問する日である。
 依頼主は千葉県にある水族館、悠々シーランド。今年に入り突然魚たちの奇行が起こり始めたので、その原因究明と解決をして欲しい――というのが今回の案件だ。
 水族館側も当初は水生生物や魚類の研究者らに相談を持ちかけたそうなのだが、それでは解決を見ず、S&Cソムニアサービスのドアを叩いたらしい。状況は日に日に悪化し、中には共食いに近い状況を起こす水槽も見られ、ストレスで死んでしまう個体も三桁を超し始めたというのだから、藁にもすがる思いだったのだろう。
 結果、悠々シーランドの従業員や生物たちが多く属する単館セラで、大量の病害虫が発生しているのが見つかった。
 発生源は不明だが、おそらく既に死亡した生物のいずれかから発生した淀みがセラ独自の蟲を刺激し、環境に適応してしまったため爆発的な連鎖反応で増殖したのではないか――というのが、シドの見解だった。
 人間達にまでは大きな影響が出ることはなかったが、それらのせいで小さなアルマしか持たない魚や動物たちには覿面被害を被ってしまったのだ。
 数は数千、数万という膨大なものだが、所詮は蟲。彼ら一匹の大きさは拳大ほどで、個体の力はネズミ程度しか持ち合わせていない。
 原因と状況がわかればあとは簡単だった。
 戦闘タイプのソムニアにとってその相手は比較的容易に倒せるものであり、シドは亮へその退治のほとんどを任せてくれた。
 訓練と実戦を兼ねたこの仕事は亮にとって燃えるものであり、期限内のセラ時間三日をかけ、亮は一匹残らず蟲を潰して回った。
 その集大成とも言うべきリアルでの企業訪問が明日――というわけである。
 現場で状況を見て回ることにより不都合がないかを確認して、ようやく仕事の完了となる。
 いつもはシド一人で行うこの作業を、今回は亮が手がけた仕事ということもあり、同行させて貰えることになっていた。
 今も亮はパソコンに張り付いて、明日のプランをああでもないこうでもないと一人練り続けている。
 が、どうにかそれも形になりつつあった。
 何度目かのプリントアウトをし、その出来映えをチェックしているその時――。
 玄関で物音がした。
 聞き知った足音がゆったりと廊下を進んでくるのを察知すると、亮はぱっと顔を上げ、シドの書斎から飛び出していく。短い廊下を曲がった先で目当ての人物にぶつかりかけ「おっと」とどうにか踏みとどまることに成功。
「おかえり! あのさあのさ、明日の仕事だけど、完遂チェックのための見回り時間、オレなりに考えてみたんだ。イルカんとこはやっぱりショーやってる時間の方がちゃんと出来てるか見られると思うし、あと、黒潮大水槽んとこはイワシの餌やり時間が……」
 手にしたコピー用紙には亮なりのタイムスケジュールがしっかり組まれているようで、それを自慢げにシドへ指し示す。
 だが亮のハイテンションに反し、帰宅した同居人はいつもどうり温度を感じさせない表情のまま、亮の手から紙切れをさっと取り上げていた。そしてスケジュールにはちらりと視線を落としただけで、何も言おうとしない。
 どんな提案が加えられるかと大きな瞳をキラキラさせながら覗き込んでいた亮は、同居人のこの不穏な様子を敏感に察知すると一転、焦ったように言葉を続ける。
「わり、夕飯、まだ作ってないけど、すぐ作るから……」
「食事などどうでもいい。それよりおまえ、訓練はどうした。今日は自主練をするよう指示をしておいたはずだ。バイトの後の一時間、入獄した形跡がなかった」
「う……んと、それは……」
 一瞬もぐもぐと口籠もるが、それでも亮は自分の言い分をシドにぶつけてみる。
「だって明日の仕事の方が大事だろ!? 訓練なんていつだってできるし」
「いつだって、だと!? 訓練はいつもやらねば意味がない。さぼる口実に仕事を使うな」
「……っ、口実なんかじゃ」
「それからこんなものは必要ない。状況確認など対象生物の行動を見るだけなのだからいつだってかまわん。ショーの時間など関係ない。遊び半分で仕事をするなら明日は連れて行かん」
「っ!! そんなんじゃないっ、オレは真剣に――」
「少し考えろ。――夕飯はレトルトでも温めればいい。おまえは今からでもさぼった訓練を」
「――ばかっ! バカシドっ!」
 シドの言葉が終わる前に亮はドンとシドを突き飛ばすと、自らが跳ね返りそうになりながらも駆けだし、玄関を飛び出していく。
 その後ろ姿を見送ったシドは、小さく一つ息を吐くとひそめた眉で手にした紙切れを覗き込む。
 イルカやアシカのショータイムや、イワシトルネード、ペンギンの餌やりショーなどの時間が細かく書き込まれたそれを見ながら眉間に寄せた皺を揉みほぐした。



 シドが電話を受けたのはそれから約三十分後のことだった。
 シャワーを浴びダイニングでガス抜きのミネラルウォーターを呷りながら、テーブルの上に置かれた亮のタイムスケジュールを眺めていると、予想どうりのタイミングで携帯がバイブしテーブルにくぐもった音を響かせる。
 通話ボタンを押してみれば、
「ほんともういい加減にしなよ。月に一度は恒例行事なワケ?」
 耳元に届くのは秋人のため息混じりの説教だ。
「亮くん、今回は完全にしょんぼりしちゃってるけど、何言ったの? プンスカ怒ってるよりタチが悪い。ソファーで膝抱えたまんまだんまりで何聞いてもイヤイヤするばっかで答えてくんないし。見てるこっちがかわいそうになっちゃうよ」
「自主練をさぼって明日の予定などにうつつを抜かしていたから少し叱っただけだ」
「……はぁ〜」
「なんだそのため息は。俺は当たり前のことを諭しただけで」
「亮くんはまだ子供だよ? 高校生なんて遊びたい盛りだろうに毎日毎日訓練訓練。頑張ってると思うよ。セラでの訓練なんだ、時間を考えればオリンピック強化選手以上にかかりっきりだよ。そんな毎日送ってるあの子が、今回おまえと水族館に行けるってことで、ちょっとばかり舞い上がっちゃっても責められる事じゃないだろ。可哀想だよ」
「あいつ自身のためだ」
「そうだとしても! もう少し融通を利かせてあげてもいいじゃない。それから――亮くんは何も言わないけど、一昨日、修司さんと一緒に実家に帰ったこともすごいストレスになってると思う。成坂家の関係改善のため避けられないことだけど、亮くん辛いだろうにがんばってるよ」
「……それは」
「あ〜……、明日おまえと仕事で水族館行けることだけを心の支えに亮くんがんばったのに、ちょっとはしゃいじゃっただけで叱るだなんてそりゃないわぁ〜」
「…………」
「今夜はうちに泊まらせるから、おまえはじっくり考えてみることだね」
 今夜は僕がいっぱい甘やかせてあげるから――と、意味深な捨てゼリフを吐き、通話は一方的に切れていた。
 静かになったスマホをテーブルへ放ると、大きくため息を吐き天井を仰ぐ。
 長い足をだらしなく投げ出し、ダイニングチェアーの固いバックレストへ背を預けたシドは、もう一度亮の残した紙切れを眺めてみた。
「イルカ・アシカショー……」
 声に出して言ってみたが、これのどこがそんなに楽しみなのかシドにはさっぱりわからない。
 『わんぱくカイルの冒険サーカス』などと大仰な副題が付いてはいるが、結局の所ただ海洋性のほ乳類が人間に仕込まれた通りに動くというだけの話だ。犬のおすわりと何ら変わるところはない。
 自分を疎み、虐待し、捨てようとした父親との面会を乗り切れるほど、亮はこれを楽しみにしていたのだろうか。
「…………」
 数百年前に子供を卒業したシドにはさっぱり理解できなかったが、細かく調べられたタイムスケジュールを眺めているうちに我知らず再びため息が漏れていた。



 今朝から交した言葉は「おはよう」という挨拶と、「来るのか」「行く」という仕事への参加確認の二つだけだ。
 車に乗れば「あのラーメン屋おいしそう」だとか「今の車かっけかった」だとか「あの看板見て! 変な顔!」だとか、とにかくいつもはやかましいくらいに話しかけてくる亮が、今日はむっつりと口を閉ざし、シドの運転する車の助手席でずっと窓外を眺めたままだった。
 現場の水族館へ着いてもその態度に変わりなく、係員の状況説明や語りかけには笑顔で対応するものの、シドの方へは顔を向けようともしない。
「では、私は事務所の方へ戻りますので、見回りが終わりましたらご連絡下さい。館内はバックヤードを含めどこを見ていただいても大丈夫なように話は通してありますので」
 どうやら亮の仕事はうまくいっていたようで、「ここ数日、水族館の様子は目に見えて改善されてきた」と応対してくれた初老の男性職員は状況説明をする間始終上機嫌だった。
 まさか今回の仕事をしたのが目の前の幼ささえ残る少年とは思っていない職員は、ひたすらシドへ頭を下げ、亮へは水族館特製のイルカ型ボールペンや、アニメタッチに描かれたウミガメやアシカが可愛らしい丸ウチワなどをプレゼントし、頭を撫でて去っていく。シドにくっついてきた友達か同僚の子供だとでも思ったのかも知れない。
 しかしそれがまた亮の不機嫌に拍車を掛けてしまったらしい。
 係員の去っていった背中を眺める亮の表情は見る見る情けないものに代わり、もらったウチワやらは真剣に眺めることもせず、肩から斜めに掛けた大きめの鞄の中にざっくりと突っ込んでしまう。
「おまえが仕事をしたのだと彼に言えば良かったじゃないか」
 そうシドが声を掛けてみるが、亮は小さくかぶりを振るだけだ。
「いい。まだ、全部終わってないし」
「……今聞いた係員の話だとほぼ依頼は完了だ。残りの確認作業は俺がしておく」
「なんで? オレ、仕事はちゃんとする」
「今日は好きに見て回ればいいと言っている。イルカのショーを楽しみにしていたのだろう? もう時間じゃないのか」
「っ、オレはここへ遊びに来たんじゃない!」
 亮は噛みつくようにそう言うとシドを睨み上げる。
「いい加減にしろ。いつまでへそを曲げてる……」
 言い掛けたシドはかすかに眉をしかめ言葉を止めていた。
 自分を見上げた亮の大きな瞳に、じんわりと涙が浮かぶのを見たからだ。
 だがそれも一瞬のことで――。すぐ亮は顔を伏せると、ぐっと何かを飲み込み、
「オレは南館から順番にまわってくから。何かあったら電話する」
 くるり背を向け、振り返ることなく部屋を出て行く。
 エントランス横に設えられた来客用の小部屋は、波間にたくさんの水生生物たちが可愛らしく描かれた楽しげな雰囲気とは裏腹になんとも居心地の悪い空気を満たし、一人残されたシドは状況の悪化に眉根を寄せるしかない。
 今朝方、秋人だけではなく壬沙子からも昨日の件を非難され、彼なりに反省したこともあって歩み寄りをはかってみたのだがどうやら試みは見事に失敗したらしい。
「まったく……なにが気に入らない」
 過去、特にIICR在席時にはそれなりに人間付き合いも及第点でこなしていたはずの自分だが、ここ一年と少し――こと亮に関してはまるで思うように運ばない。
 こんな時過去の自分はどうしていたかと長い人生を思い返してみるが、そういえばこういう状況に陥った相手に対し、特に何かをしたという記憶がない。面倒なことを言い出せばそのまま関係を切り捨てて終わりだったのだろうか。
 それでも自分が必要な者は勝手についてくるし、仕事上の問題もそれで大方片が付いたため、シドから何かアクションを起こす必要など何もなかったのだろう。
 だから古くから残っている個人的な知り合いといえば、シュラやレオンのような腐れ縁か、ビアンコのような実利に基づく関係、もしくはローチのような頭のおかしい人外しかいない。
 今までの自分なら昨日のやりあいから亮を仕事へ連れてこようという気にはならなかっただろうし、ましてや譲歩するような言動を取ることもなかっただろう。
 しかし慣れないその譲歩がさらに亮を傷つけてしまったらしい。
 他の人間はこういうとき、いったい相手に何を言いどういう態度をとっているのか――。
 見当も付かない、とその朱髪を鬱陶しげにかき上げ、シドはそれでも仕事をするべく部屋を出た。





 亮は順番に水槽を確認して周り、時には係の人間の話を聞いたりして、一つ一つ丹念に確認作業をして回る。
 日曜日の今日は家族連れやデート客など人出も多く、思うように水槽全体を見て回ることができず苦労したが、二時間を掛けることで南館の全ての見回りをようやく完了していた。
 そのせいで本館へ移った現在、腕に巻かれたイカ時計はすでに昼時を大きく回る時刻を指している。
「確かこの先の黒潮大水槽は一番蟲にやられてたんだよな……」
 この悠々シーランドにおいて目玉の一つである巨大水槽に向かいながら、鞄より取り出したファイルを眺め、一人口の中で呟く。
 セラで件の水槽には溢れんばかりの蟲が群れとなって繁殖しており、巨大な目玉にヒレがついたような奇怪なそれらがお堀の鯉の如く水の中でひしめき合っていたのを思い出す。
 一匹ずつ潰しながら「しばらくタピオカは食べられない」とシドにこぼし、シドが珍しく笑ったんだっけとそんな回想が頭をかすめた。
「…………ってか、あんなやつもう知んねーしっ」
 そんな記憶を消すかのようにぶんぶんと首を振った亮は、小さく文句を言うと、今度はしょんぼりとうなだれる。
 昨日シドに言われたことは間違っていないと亮は思っていた。
 確かに亮は今日のこの仕事に妙にテンションが上がってしまっていたのだと、言われて初めて自覚した。
 シドと二人で水族館を回るという仕事が楽しみすぎて、いてもたってもいられず、訓練をさぼってしまったことも事実だ。
 それなのにそれを指摘され、拗ねたように部屋を飛び出してしまった自分の態度は最悪だったと、秋人の部屋で一晩悶々と考えたのだ。
 だから凄く凄く反省して、反省しすぎてシドに会わせる顔が無くて、今朝もうまくしゃべることができなかった。
 一言、ごめんなさいと言えば良かったのに、それができなかった。
 確かに昨日ははしゃいではいたけど、遊びのつもりなんて全然なかった。ちゃんと仕事するつもりだったと。自分の仕事を見ていて欲しいと。そう伝えようと思った矢先。
「……仕事しなくていいってなんだよ。オレ、ホントに遊びたかったんじゃない……」
 仕事相手として最初から信用されていなかったんだと思うと悔しくて瞳に涙が浮きそうになり、慌てて亮はぐっと唇を噛みしめた。
 イルカのショーも、イワシのトルネードも、本当に魚たちの体調を見るのに一番いいと思ったからスケジュールに組み込んだのだ。ついでに見られるならラッキーという気持ちがないではなかったが、それでも亮なりに真剣に考えた結果だった。
「バカシド……」
 ぽそりと悪態を吐くことで沈む心を何とか持ち上げて、亮が大水槽を見上げれば、大量の青い水塊の中を悠々と巨大なマンタが横切っていく。
 キラキラとウロコを光らせ泳ぐイワシたち。カツオの群れはものすごい勢いでぐるぐると回り、恐い顔をした鮫はのんびりと水の底で眠っているようだ。
 良かった――と思った。あんなに酷い状態だった水槽の魚たちも、ちゃんと日常を取り戻している。
 こうやって実際に仕事の結果を確認できることは嬉しいことなんだと、そう理解しかけたとき。
 不意に背後から尻を撫で上げられた。
「ふわ!?」
 こんな家族連ればかりの場所で痴漢かと、鼻息も荒く振り返った亮の前にはしかし、誰も居ない。
 怪しい人間が見当たらないと言うだけではない。一番近くにいるカップルですら一メートルは離れており、手を伸ばしても亮の位置まで届きそうにないのだ。
「???」
 落ち込みすぎて変な幻覚でも現われたかと首を捻る亮の太ももが、次の瞬間内側からゆるゆると触られる。
「ひゃあっ」
 今度こそ飛び上がらんばかりに驚いた亮は、ようやく自分の背後にいた小さな犯人を発見していた。
 ケラケラと笑うその犯人は身長一メートルほどの小柄な身体で亮を見上げ、小さな手をいっぱいに伸ばしてしがみついてくる。
「Chin up, honey!」
 小さな小さな彼は、いっちょ前に亮を励まそうとしているのかそう声を掛けると、伸ばした手で亮の頭を撫でようとして失敗。代わりに亮の胸の辺りをこしょこしょとこすっていた。
「っ、ちょちょ、なに? キミ誰?」
 突然のことにどう対処していいやらわからない亮は、少年――いや、その幼児の肩をがしっとつかむとしゃがみ込み、視線を小さな彼に合わせ覗き込む。
 茶色がかった赤い髪と灰褐色の瞳を持つその子供は、明らかに日本人ではない。
 視線を下げてくれた亮に対し嬉しそうに微笑むと亮の不得手な英語で何やら語りかけてくれるが、速すぎて何を喋っているのかさっぱりだ。
 年齢的にはどう見ても小学校には上がっていないだろう。つい最近までオムツのお世話になっていたに違いない彼は、とうてい一人で行動していい年頃ではない。
「お父さんとお母さんは?」
 周りに視線を走らせてみても、それらしい人物は見当たらない。
「迷子、なのかな。えっと……アー ユー ロスト?」
 がんばってなけなしの英語力をぶつけてみるが、亮の発音問題か小さな子供はニコニコと笑うのみだ。
「困ったな……、迷子センターに行く? オレが連れてってあげるから――シャル アイ アカンパニー ユー トゥー ……マイゴ……うーんと……、サービス センター?」
 じんわりと変な汗を流しながら、それでも亮は必死に英文をひねり出す。
 シャルルがこんな場面を見たら「酷いEnglish。聴くに耐えない。子供が可哀想」と畳みかけられること請け合いだろう。
 それでもニコニコ笑う彼に少しだけ安心し、亮はセンターに彼を連れて行くべく手を引いて歩き出そうとする。
 が、幼児はそんな亮の考えなどお構いなく、自分を構ってくれるお兄さんの腕を引っ張ってぴょんぴょんと逆方向へ走り出してしていた。
「ちょっと、こら、そっちじゃないよ!」
 あまり強くひっぱれば腕が抜けてしまうんじゃないかという華奢さに亮は無理に止めることもできず、引かれるまま進んでいくしかない。
 どうしよう、困った、言葉も通じないし、きっとこの子の親も心配してるだろうし――とひたすら亮が困惑する間にも、幼児は楽しげに亮へ何やら語りかけてくる。
 甲高い声とやたら速い口調に全くそれが聴き取れない亮は、情けなくも日本人特有の曖昧な笑みを浮かべてやり過ごすことしかできない。こんなことならもっとしっかりシドの英会話レッスンを受けていれば良かったと思う。
「っ、そうだ。シド。あいつ、外人だったじゃん!」
 そこで初めてシドの存在を思い出した亮は、いかにも名案を思いついたかのように表情を明るくすると、片手で器用に電話をかけ始める。
 二回ほどのコールの後出た相手に、亮は「シド、来て、すぐ」となぜか片言の日本語をぶつけると、すぐさま通話を切っていた。
 電話を掛けている間も幼児は亮の腕を引き、自分が興味を引かれるらしい水槽へと駆けていく。
「待って、待ってってば。そんな走ったら危ないよ」
 デンキナマズの水槽前でぴたりと止まった子供は、興味深そうに背伸びをしてそれを眺め、次に亮に何か求めるように見上げてくる。
「抱っこ? いいよ。よいしょっと」
 亮が抱え上げてやるとじっとその水槽を覗き込むので、亮も釣られて一緒に水槽を眺めた。
 横の解説には、デンキナマズが牛を倒した話が小さな子にもわかる文体で丁寧に書かれていて、亮はひたすら感心してナマズのユーモラスな顔を見つめる。
 と、ほっぺに暖かい感触。
 視線をやれば、ぎゅっと自分にしがみついた子供が亮の頬にキスしているところだった。
「へ? なに? くすぐったいよ」
 無邪気な顔で微笑まれ、ちゅっちゅと繰り返されれば亮もつい笑顔になってしまう。
 キス文化になれている子供のキスは自然過ぎて、亮も思わずちゅっとほっぺにキスを返していた。
 男の子は嬉しそうに亮の首にしがみつき亮の唇にちゅっと音を立て吸い付くと、今度はぽーんと腕の中から飛び降り、また走り出していく。
 だがその小さな手は亮の手をしっかりと握り、放そうとはしない。
「こら、転ぶよ! もっとゆっくり!」
 唇にキスされたことに少しだけ動揺したが、目の前を転がるように走るちびっ子に思わず口元がほころぶ。
 次の水槽はなんだっけと館内図を思い出す亮の目の前に現われたのは、大きなペンギン舎だ。
「ペンギン、好きなの?」
 最早英語で語りかける事を放棄し、亮は思うまま少年に声を掛けた。
 と。
「Daddy!」
 突然ぱっと手を放された。
 少年はころころと子犬のように走っていき、向こうからやって来た大きな影に飛びついていく。
 少しばかり寂しいが、良かった――と、亮は胸をなで下ろす。
 どうやら迷子のお守りはこれで終了らしい。
 あとは状況をあの子の親に説明して――と、笑顔を向けた視線の先には。
「――へ?」
 小さな幼児がしがみついた大きな影。
 見覚えのある黒いジャケットと朱い髪の持ち主は、
「…………シド」
 さっき亮が電話で呼び出した男その人だった。