■ 王様と子供とペンギンの話・3 ■




 亮の口から何度目かの溜息が漏れた。
 両手をぺったりと水槽にへばりつかせおでこをくっつけんばかりに水槽を眺めている姿は、背後から見た者に「彼はよほどペンギンが好きなのだろう」と思わせるフォームであったが、実際はただ単に落ち込んでもたれかかっているに過ぎない。
 現に、今ペンギン舎で始まった“餌やりパクパクショー”すらその目に映っておらず、小学生たちが周囲で自分と全く同じようなポーズで群れをなしていることすら気づいていない。
 小さな影が壁になって水槽を取り囲む中、その隅っこの方で他よりちょっとだけ背の高い中学生然としたシルエットがジッとしている様は、背後から見守る御父兄たちもどこか微笑ましいと感じているようだ。
(は〜……。なんでシドに電話しちゃったかなぁ。しかもあんな簡単に。オレ、ちょっと怒ってたのに)
 ほんの二十分前の出来事を振り返り、己の不甲斐なさにゴツリと額を水槽に打ち付けてみる。だが分厚いアクリル製の壁は大した音もたてず、ひんやりと亮の熱を冷ましてくれるのみだ。
 小さな迷子が話す英語にちょっとしたパニックになり、昨日からのケンカも反省もふてくされた気持ちさえも全部頭から消えてしまって、あっさりもいいところでシドに助けを求めてしまった自分は本当にどうしようもないと思う。
(オレ、ホントいっつもいっつもシドに頼ってばっかだ。こんなムカついてた時ですら、困ったらすぐシドって……。バカっ。オレのバカっ! マジ情けないっ)
 目をぎゅっと閉じ自分に対する怒りでふるふる震えているところを、隣でペンギン鑑賞に興じていた小さな女の子が不思議そうにのぞき込んでいるのだが、それも亮には意識の外だ。
(けどさ……。やっぱシドってカラークラウンだったんだな。全然実感なかったけど……)
 副官だったという人物の登場は亮に初めてシドの過去へリアリティの光を与えた。セブンスにいた頃、他のカラークラウンからシドの名がでることはあったがどれも否定的なものばかりであり、誰もシドを機構の人間だとは認めていなかった。あんな風にちゃんとリーダーとして扱われていただなんて、亮には思っても見なかったことで……。
(……シドのくせに)
 胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
 知っていると思っている人が、本当はまるで知らない人なのかもという、目眩を伴う怖い幻想。
 なんだかシドをとても遠くへ感じる。
 切ない溜息が小さな口元から零れた。
 と──。
 突然亮の背後から頭を挟むように二本の腕が伸び、前面のアクリルガラスへトンと手が着かれる。
 背中に感じるよく知る気配と圧迫感。
「この水槽も異常なし──か?」
「!?」
 視線を上げれば氷の魔王のごとく感情のない瞳と目が合う。
 少し背をかがめ覆い被さるように身を寄せるシドの顔は思ったより近く、琥珀の瞳が短い睫毛の向こう側から自分をじっと見つめているのに気づくと、亮は頬に朱を入れぱっと視線を水槽の向こう側へと戻す。
「ぉ、ぉう。ペンギン、みんな元気になったみたい、だ」
 そう答えてみるが、その後の応答がない。
 なぜか高鳴る心臓をもてあましながら、亮はぴくりとも動けず眼前でおいしそうに魚をパクつくペンギンたちを見守るしかない。
 ほんの数分その状況を続けた亮はついにたまりかねたように切り出してみた。
「あの……、あの、さ。……ちっ、近いんだけど」
「何を考えていた?」
 が──暗黙の「離れて欲しいんだけど」という亮の言い分は受理されず、全く別の話題を振られてしまう。
「っ──、べっ、別に……」
 まるで先ほどまでの自分自身の猛省を見透かされたかのような言葉に、亮はパーソナルスペースへの文句も引っ込め、しどもどと口ごもる他ない。
 さっきまで遠くに行ってしまったようだと感じていた体温がこんなにも近い。
 いつも一緒にいるはずなのに、なんでこんなにドキドキしてんだろうと亮の頭は混乱の一途をたどり、「そうだ、混乱してるからこんなに心臓がうるさいんだ」と亮は一人うんうんとうなずいてみる。
「見てみろ。おまえみたいなやつがいる」
 言われるまま視線を泳がせれば、飼育員のそばで明らかに浮いているペンギンが一匹。
 何度餌を投げよこされてもうまくキャッチできず、周りのペンギンたちに軒並み奪われてしまうかなり鈍くさいヤツがいる。
 シドの言うのがあのペンギンだとすぐに察した亮は、むっと口をとがらせ、頭の上をにらみあげる。
「オレはあんなドジの空回りじゃねー」
「そうか?」
「そんなん言うなら、あっちの目力で威圧して横の奴らの餌奪ってるヤツ、シドそっくりじゃん」
 少し離れた岩場の上でひときわ大きなペンギンが、ギロギロとガンを飛ばしているのを見つけた亮は意気揚々と言い返してみた。
 と、人相の悪いそのペンギンが、よたよた近寄ってきたあのドジペンギンへ、咥えた魚を投げてよこす。ドジっ子ペンギンは嬉しそうにそれを喉の奥へ飲み込んでいた。
「そうだな。似ていなくもない」
「…………っ、なんだよソレっ」
 嫌みを言ったつもりが、見事ブーメランヒットしてしまった亮は不服そうに頬をふくらませ、だが次第にしょぼんと下を向いてしまう。
「ペンギンまで同じって、なんだよそれっ。……オレ……あんな風にいっつもシドんこと頼ってばっかだってのは、俺だってわかってる。今日だって、オレのこと全然認めてくんないシドにホントはすげぇムカついてて、完璧に仕事終わらせて、メにもの見せてやる!って思ってたのに──迷子が英語しゃべっただけで、簡単にシドに頼っちゃて、もう、ホント、ダメ過ぎる……。そんなの、わかってるのに……」
 情けなさで言葉が詰まってしまった。
 昨日からの態度のこと。自分の気持ち。謝ってもっとちゃんと伝えようと思えば思うほど、何も言葉が出てこない。
「だから……オレは……オレが言いたいのは……」
 思春期真っ盛りの少年は遅れてきた反抗期を、兄にではなくこの無愛想な同居人に遺憾なく発揮し、素直に言葉を伝えることもできない。
 ぼそぼそと力なくしゃべる亮の後頭部に、ふと──ひんやりしたものが触れた。
 なんだろうと一瞬顔を上げかけた亮の頭に、ふっと冷たい息が掛けられ、「ひわっ」と変な声を上げてしまう。
 シドが頭にキスしたのだと気づいた瞬間、シドは亮に唇を寄せたままこう言った。
「頼れる腕があるうちは頼っていろ。俺はそのためにここにいる」
「……」
 その声にいつにない熱を感じ、亮は何も言葉を返せず黙ったまま前を見続ける。
「おまえが一人で行かねばならんその時までは、まだ──少し間がある」
 背後から首元へ腕を回され、するりと髪へ頬を寄せられ初めて亮は呪縛を解かれたかのように、わたわたと後ろを振り返っていた。
「ちょ、シドっ、バカっ……」
 今にもキスされてしまいそうだと感じた亮の本能が、亮を攻撃に走らせる。
 全身を朱に染め頭から湯気でも上がっていそうな少年が振り上げた腕はしかし、見事に空を切っていた。
 振り返りざまパンチをお見舞いしようとした相手はすでに一歩引いており、視線を残しながら歩き去る瞬間だ。
「報告に行くんだろう? のんびりし過ぎだ」
「っ、お、おまえの知り合いが来て待ってろって言ったんじゃんかっ! 勝手魔神! 横暴っ!」
 そう怒りの声を上げつつ小走りに駆け出す亮は、周囲の視線を一身に浴びているのを感じ、ますます真っ赤になりながらシドを追い越していく。
 どうやらシドと自分のやりとりは、ペンギンショーと同じくらい注目を集めていたらしい。
 今のやりとりはたぶん絶対世間様から変に見られたに違いない! そう思うと顔から火が出そうだ。
 今にも走りながら「違うんです!」と言い訳してしまいそうな己の口を必死に手で押さえ、ダッシュに切り替える。
 そんな亮には背後の御父兄たちからの「兄弟かな?」「仲のいい親子ね」などという人種を越えた感想は届かないのだった。





 いつものようにベッドへ潜り込むと、シドはすでに寝息を立てている隣の小さな体温を背中から抱き寄せる。
 小さなそれはモグモグとわからない言葉を二三呟いたが、目を覚ます気配もなく抱きしめたお気に入りのタオルケットへもぞもぞと顔を埋めていた。
 今日の仕事はシドにとって仕事とさえいえない観光のようなものだったが、それでも彼にとっては十分精神をすり減らす案件だったのだろう。
 軽い食事をとって帰宅した後、シャワーを浴びただけでスイッチでも切れたかのようにベッドへ直行してしまった亮の様子を思い返すと、昨日から今日に掛けての自分の彼への対応にも若干の反省が出てくる気がする。
「あの計画書は真剣そのものだったか。……まったく気づかなかった」
 亮が起きていれば「それで謝ってるつもりか」とかえって怒りを買いそうな言いぐさだ。
 しかし当の亮本人はシドの腕に抱えられたまま、くーくーと幸せな寝息を立て続けている。タオルケットに鼻っ面を埋めているせいでその表情は伺えないが、きっとバカっぽい顔でよだれでも垂らしているに違いないと、シドは唇の端を引き上げた。
 亮がタオルケットにそうしているかのごとくシドが亮の髪に鼻先を埋めれば、自分と同じシャンプーを使っているはずなのになぜか幾分甘やかになる香りが鼻孔をくすぐる。
 ふと再び今日の出来事が脳裏を巡っていた。
 数ヶ月前から確かにその話はあったのだ。
 IICRにカラークラウンとして復帰する──。最初にビアンコからそう振られたときはまたいつもの冗談かと全く気にしていなかったのだが、どうやら彼はすこぶる本気だったらしい。
 まさかまだ就業事項すら満たしていない年齢のキースを、わざわざ日本までリアルで送り込んでこようとは予想を超えたことだった。
 ビアンコから聞かされた理由も、今日キースが言っていたのと同じように「人材不足のため」とのことだったが、果たしてそれは真実だろうか。
 確かに今IICR──いや、ソムニア界自体は根底から揺らぐほどの大きな局面を迎えていることは理解している。セブンスでの例の事件以降、転生刑が相次ぎ、重大なクラウン不足に機構が陥っていることも事実だ。
 しかし、だからといって現任のクラウンを廃してまで自分を呼び戻す理由になるだろうか。イザクラウンの後任者であるラシャも及第点の働きはしているはずだ。役職として継いだ『諜報局のトップ』という業種も、的確に物事の関係性を見極められる目と、次の行動を下に伝えられるだけの情報処理能力さえあればいいのであり、現場の人間と違い戦闘技能などさほど必要ではない。その点でイザの中でも頭脳派である彼は適任だとシドは思っている。
 何より何の失態もなく、転生による代替えでもないのに、現職のクラウンを退かせるなどよほどのことだ。
 わざわざあんな芝居を打ってまでシドを裏方へ差し向けたビアンコが、その程度のことで無理を通して再び自分を表へ引っ張り出すだろうか。
 もし、ラシャとの一番の差である自分の『戦闘技術』が必要であり、それを使った雑用を押しつけたいのであれば、今まで通りここへ話を入れればいいだけのことだ。
「……気に入らん」
 そう漏らすと腕の中のぬくもりを確かめるようにするりとその薄い腹へ指先を滑らせ、脇腹のなめらかな感触を何度も手のひらで感じる。
 その冷たい体温に亮は少しだけむずかり、悪戯をかわすようにくるんと反対を向いて、今度はタオルケットを抱えたままシドの方へ顔を向けてすり寄ってくる。
 しかし抵抗とは言えない抵抗もそこまで。
 再びその口元から規則正しい寝息が聞こえ始める。
 小さな頭蓋を抱え直すと、シドは手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな少年の後頭部に指先を滑らせ、そのかすかに寝汗で湿った熱い体温と柔らかな髪を撫でていた。

 ──コレに関係していそうでならない。

 そうシドは感じずにはいられない。
 しかし、クラウン復帰の打診は亮がここへ戻ってきてまもなくのことであり、もし亮に関係するというなら最初からここへを戻さねば良かっただけの話だ。
 ゲボとして亮を本格的に利用したいというなら、たとえ自分がどうあがき無茶をしたところで、ビアンコの手の中からなどこれを取り戻すことなどシドにはできなかっただろう。
 矛盾する状況がシドに回答を与えようとしない。
 諜報局にいた頃ならば今とは比較にならない精度の情報が潤沢に手元にあり、それを活用させるための部下たちもいた。だが今の自分は目と耳を塞がれ、行動するための手足も、そこへ伝えるための声も持ってはいない。
 今シドの持っている情報カードはわずかだ。
 それはセブンスでのあの夜、ガーネットが自分に対して告げた言葉。

 ──その子は、諒子と秀綱の子でしょう。

 あの夜以来、何度もその言葉を反芻した。
 亮の母の名が諒子だったことは知っていた。だがまさかそれが自分の同門である『あの諒子』だったとは思ってもみないことであり、「諒子や師のように何者にも侵されないゲボへ育ててやる」──と言い切ったあの日の自分の宣言が己でも恐ろしくすら思えてくる。
 ガーネットの言葉を裏付けるため、こちらへ戻ってすぐ自ら調べ上げ、亮の母が間違いなくシドの知る『諒子』だという事実はつかんだのだが、父親に関してはようとして知れず。亮にそれとなく聞いてみたこともあるが、本人もそのことに関しては全く知らされていないようだった。
 それ故ガーネットの言うことが真実だとは言い切れない。だが、おそらく間違ってはいないだろうと、情報畑だった自分の勘がそう告げていた。
 諒子が秀綱の子を産んだ──。
 もちろんゲボ同士の子がゲボになるなど、あり得ない話だ。
 だがガーネットはこうも言っていた。

 ──秀綱はゲボではなく、25番目の能力ウィルドを持つ者。

 ウィルドなど理屈上あるとだけ言われている未発見の能力であり、その詳細については伝説や昔話に残るようなあやふやで眉唾なものばかりだ。
 ガーネットの言葉を借りれば、秀綱はそのゲボ能力すら自分でデザインし手に入れたということだった。
 確かにウィルドは究極と銘打たれている。世界氷であるイザが凍気を操り、松明を意味するカウナーツが炎を操るように、究極と呼ばれるウィルドは本当に万能であるとでも言うのだろうか。
 すべてが人間の域を超えていた師を思い出せば、それもうなずける気がするが──確信を持つまでには至らない。
 これら二つの情報は量としては僅かなものである。
 だが質としてはおそらく最高レベルに値するものだろう。
 もしガーネットの言葉が全て真実ならば、今回の復帰話はシドを欲してのことでなく、亮に関係する何かである可能性が高い。

「おまえは何なんだ……」

 思わずつぶやきが漏れた。
 他人のブラッドリキッドを飲んで死なないゲボなどいるわけがない。
 だがこの甘やかな香りや、立ち上る禁忌の色は確かにゲボの証だ。
 ゲボなのか。それとも──師と同じウィルドだとでも言うのか。
 腰に回した手で背を撫でれば、あまりに華奢な肩胛骨に触れ、ちりりと胸が痛む。
 子供過ぎるその身体に罪悪感が刺激され、早く大人になれと思うと同時に、ずっとこの小さな身体を腕の中に閉じこめておきたいとも思う。
 と──。

 腕の中の生き物はもぞもぞと身じろぎすると、腕を伸ばし、這い上るようにシドの身体の上へ乗り上げ始めていた。
 半分寝ぼけてはいるが、どうやら亮は目を覚ましたらしい。